2019
09.23

モテ期は何度訪れても心楽しいものである。

らかす日誌

この頃私は、モテ期に突入したのではないかと思っている。
最初のモテ期、あれは大学2年の終わりで、6畳のうらびれた我が下宿に訪れる女性は跡も切らず、友人に紹介しようと思った女性からまでしなだれかかられて……。
今回は、なぜか30歳前後の豊麗な美女が群がってきて身体が持たない……。

という話を書こうというのではない。というか、そんな話は書けない。書けばほとんどは嘘になってしまう。元記者は嘘を書くのが苦手である。

今回、古希を過ぎてからのモテ期は、仕事である。

「原稿を書いてもらいたいんだけど」

という依頼が結構来るのである。おそらく、桐生に残留して役に立つのかたたないのか判然としない雑文を依頼に応じて書いてきたためであろう。
これまで桐生で1冊の本を仕上げ、2つのホームページに連載を書き続け、祭や催しのパンフレットを作り、その上「らかす」まで連載している私である。ひょっとしたら、桐生で書いた原稿の総量は、記者時代に書いた原稿量をそろそろ上回ったかも知れない。

今回は、冊子の原稿である。
実は1年ほど前、

「冊子を作りたい。原稿を書いてもらいたい」

という申し出をお断りしたことがある。いや、仕事と金は欲しかったが、依頼主の期待にこたえる文章を書く自信がなかったためである。依頼の趣旨からすれば、全国の読者に読んで何かを感じていただけるないようにしなければならない。ところが与えられたテーマが、どう書いても全国という舞台では通用しないものに思えたので

「私ではとても期待にこたえられない」

とお断りしたのだ。

ところが、今年になってまた、同じ方から

「やっぱり冊子を作って欲しい」

と頼み込まれた。何でも冊子作りに県の補助金が付いた。ついては、このようなページ立てで、このような内容のものが欲しい、というのである。
今回は、即座には断りにくかった。そのため、条件をつけた。
冊子は7つの町会が集まって作るという。であれば、各町の「自慢」を見つけて欲しい。あなた(依頼主)の町内には、私の目から見ても自慢できるものがある。しかし、私が知らない町内もあり、それを取材で見いだす時間は取れない。だから、各町内の「わが町自慢」を持ち寄って欲しい。それが集まったら私が取材して原稿にする、という条件である。

だが、どういうわけか、これはいつまでたっても実現しなかった。だから、この仕事はなくなったとホッとしていた。

それなのに先週

「うちの町内も原稿を頼みたい」

といってこられた。
なんでも、冊子は何としてでも作る。そのため各町内に2ページ割り振り、それぞれが2ページ分のコンテンツを作る、ということに話がまとまったという。そういう経緯があって、依頼主の隣の町内からは3週ほど前

「うちの分を書いてちょうだい」

と頼まれた。これは2年ほど前にパンフレットを頼まれて作った町内だったから、行きがかり上引き受けた。取材をし、先週原稿を渡したところ、この原稿を今回の依頼主がご覧になり

「そうなんだよ。こんな原稿がいるんです! うちの町内の分も、是非!、とあの人が言ってるんですが、引き受けてやってもらえませんか」

と、今度は原稿を引き受けた町会の町会長さんを通じて頼んで来られたのである。
お断りしたのが一度、条件付き受諾(実は、実現は難しかろうという条件をつけたので、実質的には拒否)が一度。それにもかかわらず、

「やっぱり」

といわれれば、もうお断りする理由が思いつかない。今度は

「だったら原稿料は高いよ、と言っておいてください」

と仲介者に頼んで(半ば冗談であることはもちろんだ)引き受け、昨日3時間ほど話を聞いて今日原稿にした。
それを届けたら

「そうなんです。私はこんな文章が欲しかったんです!」

絶賛された。なんだかこそばゆかった。

次の各町の寄り合いで私の書いた2つの原稿を残り5つの町内に示し、

「このような原稿を書いて欲しい」

というのだとか。
言われた方は腰が引けると思うが、まあ、そこを差配するのは私の役割ではない。他の町会から

「だったら、うちも同じ人に頼みたい」

などということにならないよう祈るだけである。これで私も最近は結構忙しく、そんな時間は取りにくいのである。

というのが、今回のモテ期の実態だ。まあ、あまり人様に頼られることがない親父が、たまに絶賛されて舞い上がり、自慢話をしたくなったと笑って読み捨てていただきたい。。

しかし、俺の原稿って絶賛するほどのものか? 褒められてイヤな気になる人はいないだろうが、何となく落ち着かない気分になる人はいるのではないか。私はどうも後者の1人らしいのであった。

(付け足し)
そういえば私、現役記者のころはあまり褒められたことがない。
記憶にあるのは、名古屋にいたころ「えんぴつ賞」(これは面白い文章に与えられる賞であった)を1回いただいた程度か。
他には
「大道君は人を書くのが上手いね」
と褒めてくれた先輩が1人。
「お前の文章にはリズムがあるよなあ」
といってくれた上司が一人。
そうそう、前橋に私の原稿が好きなデスク(その日の紙面製作を担当する)がいて、私が原稿を出すと机の中、いやこの時代だからパソコンの奥に仕舞い込んで、
「この日だったら原稿が生きる!」
と使ってくれていたらしい。もっとも、これは人づての話だからあまりあてにはならないが。
その程度である。
記者になるときは、きっと名文家になってやる、と心に誓った私だったが、少年老い易く学成り難し。いまでも中途半端な文章しか書けない成長途上人であると自覚している私でありました。