11.21
桐生えびす講が終わった。今日はこぼれ話を3つ。
今年の桐生えびす講が昨夜で終わった。
毎年11月19、20の両日と決まっているため、今年は平日の開催であった。それにもかかわらず、初日の午後3時過ぎから参拝客があとを絶たず、昨日も夕方から長い列が出来た。盛況、といっていいだろう。
初日はテレビ朝日の「わたしの駅前物語」の取材も入った。12月5日午後11時10分から放送される予定だ。私の出番はないが、この日誌によく登場する方の出番はあった。関心をお持ちの方は是非ご覧いただきたい。
というわけで、今日は私が遭遇した今年の桐生えびす講こぼれ話を3つほど。
こぼれ話その1:パンツ丸見え事件
私はとりあえず、公式カメラマンといいう肩書きで桐生えびす講に関与している。全くの無信心で、神も仏もあるもんか、を信条としている私が関与するには、無色透明の技術者としての道しかない。もっとも、私のカメラの腕前が「公式カメラマン」の肩書きに恥じるものであることは本人が最もよく分かっている。つまり、この祭を取り仕切るあのO氏の
「いいじゃない。手伝ってよ」
という言葉に従うには、私は「公式カメラマン」を名乗らざるを得ないということであるとご理解いただきたい。
「公式カメラマン」の仕事は写真を撮ることである。もちろん、芸術写真であるかどうかは別として、写真は撮った。が、だ。桐生えびす講に関わること、すでに4回目である。となると、物珍しい被写体なんてあるはずがない。まあ、例年通りの定番写真を抑えるだけである。となると、結構暇である。
そこで私は、街路商の屋台が並ぶ通りを視察する。肩からNIKON750をぶら下げているから、まあ、形だけはカメラマンである。しかし、シャッターを押す気はあまりない不思議なカメラマンでもある。まあ、日頃の運動不足を解消する散歩がてら、何が起きているか監視をしているというところである。
ことは、2日目の午後2時頃起きた。
私は参道を登り、神社の石段の前まで来た。石段の左隅に一組の、多分、親子がいた。親子だとすれば母と娘である。娘は高校生ぐらいの年代か。平日のこの時間に高校生らしき娘がえびす講にいるのは不思議なことである。学校をサボったのか? が、ことはその件ではない。
見るともなく私は、この2人連れに視線を投げた。やや太り気味の娘である。そしてやや短めのスカートを身につけ、あろうことか両膝を大きく開いて座っている。
「まあ、行儀の悪い娘だこと」
それが第一印象だった。
同時に、何かが気になった。さて、私の神経に引っかかった「何か」は何なのだろう? 私は改めて目をこらした。
あ!
見えたのである。白地に何かプリントしてある布の一片が我が目に飛び込んできたのである。その布の一片は彼女のシークレットパーツを覆っている。
「パンツ、丸見えじゃん!」
さて、このような事態に直面したとき、あなたはどのような行動をおとりになるだろうか。付け加えれば、あなたの肩からはフルサイズの撮像素子を備えたNIKON750が下がっているとしたら?
後にこの話をえびす講の世話人たちにしたら
「大道さん、だめだよ。そんな写真を撮ったら犯罪だよ」
という反応が返ってきた。ということは、世話人さんたちが私の立場にいたら、迷うことなくカメラを構えてシャッターを押していたということか?
私は困った。カメラを構えるなんてあり得ないことである。では、私がそばによって
「君、見えてるよ」
というのか。いや、この年頃の女の子が、突然おじさんに
「モロ見えだぜ」
といわれたときに受ける精神的ショックは大きいのではないか。私は思考を巡らせた。うん、俺が声をかけるのはまずい。やっぱり女性に声をかけてもらうべきだ。
私は階段をさらに上り、前日から一緒に働いて顔見知りになっていた巫女さんにお願いした。
「ということなんだけど、あなたが行って注意してきてくれないか」
2人の巫女さんが素直に私の言うことを聞いてくれた。見ていると、声をかけている。女の子は座る姿勢を変えたようだ。
戻ってきた巫女さんたちに、女の子の反応を聞いた。
「それがですねえ、『あ、見えてます?』っていうだけ。恥じらいも何にもない。それで親子してどっかに行っちゃったんです」
ふむ、最近の若い女の子の感覚とはその程度のものであるか。ということは、見えたことに動揺した私の感覚が時代遅れということか。
しかしねえ、やっぱり女の子には、恥じらい、という感覚を持って欲しいと思うのは無い物ねだりかねえ?
こぼれ話その2:私の自己宣伝
小学校高学年と見える30人ほどの集団が参拝に来たのは、確か昨日の午前中であった。引率してきた先生に声をかけると、社会学習の一環として、地元に根付いているえびす講を子供たちに体験させるのだという。
そこで聞いてみた。
「桐生西宮神社と桐生えびす講の由来がわかり約書かれたパンフがあるのですが、見たことはありますか?」
答は
「ありません」
なんということであるか。そのパンフは確か2016年、頼まれて私が書いたものである。由来とともに、えびす、大黒の絵を刷った御神札(おみえふだ、と読む)の祀り方、神社への参拝の仕方をできるだけ分かりやすく書いてある。
ちなみに、このパンフには「御利益」という言葉を一度も使っていない。無信仰を貫く私が守り通した矜持であり、密かに己を褒めてやりたいと思う一事である。
ま、それはそれとして。先生の返事を聞いて、私は即座に反応した。
「いや、子供たちが読んでくれれば、ふるさと桐生を誇りに思ってくれるパンフにしたつもりなんですよね。ちょっと待っていて下さい。みんなに行き渡る部数を持って来ますから」
すぐに社殿にとって返し、パンフの束をわしづかみにした。そのまま、参拝の順番を待っていた先生にパンフをお渡ししたのはいうまでもない。
まあ、これ。せっかく社会学習に来たのなら、もっとえびす講のことを知って欲しいという思いが1つであるのはもちろんである。しかし、自分の書いたものはより多くの目に触れて欲しいというライター特有のエゴが働いたことも否めない。
ま、パンフを手にした子供たちが喜んでくれれば、どちらでもいいことではあるが。
しばらくすると、学校に引き返す途中の一行にまた会った。
「もうお帰りですか?」
ときくと、そうだという。せっかく来たのにもったいない!
「あちらでからくり人形をやっているの、ご存知ですか?」
桐生には、全国でも珍しいからくり人形師がいる。佐藤貞巳さんという。佐藤さんのからくり人形は桐生えびす講の定番で、今年はお猿の篭屋に揺られるえびす様、踊るえびす様、本当に織物を織る白瀧姫、の3つが出し物だ。
「そうなんですか。是非子供たちに見せたいですねえ」
というわけで、からくり人形小屋の前が子供たちで溢れた。
世はロボット時代である。今の子供たちに、ロボットに比べればはるかに稚拙な動きに見えるからくり人形がアピールするか? そんな懸念が脳裏をかすめたが、杞憂に終わった。たくさんの子供たちに囲まれてニコニコ顔の佐藤さんが操る人形に、子供たちは
「すっげー」
と歓声を上げてくれたのである。
ほっ、お節介を焼いて良かった!
こぼれ話その3:またまた自分褒め
これも昨日の話。例によって巡視業務に従事していた私は一組の老夫婦を目にとめる。どうやら参拝を終えて戻るところらしい。今いるのは最後の階段の上の踊り場である。
「この階段は危ないから、あっちに廻った方がいいんだって」
「うるさい。大丈夫だ、こんな階段」
以上は我が耳に入った老夫婦の会話である。いや、諍いか。
これに惹かれて2人をまじまじと見る。なるほど、おじいちゃん、足元が危ない。踊り場の平らなところなのに、足元はゆらゆら揺れている。次の一歩を踏み出せば、悪くすれば転倒しかねない。老いた妻女殿の注意に強気の返答を返し続けるのは、男の見栄か。
「だって、こんな階段、降りれないよ、あんた」
「降りるんだ。黙っとれ!」
いや、これは放っておけない。だって、前日からそれまでに2件の転倒事故が起きていたのである。1人は階段を踏み外して顔から地面に突っ込んだ。若いうちなら手が先に出て身体を支えるのだが、一定以上の年齢になると手が出るのが間に合わず、顔から地面に突っ込んでしまう。そんな事故である。
もう1件は、どうやら階段から後ろ向きに倒れて頭を打ったらしい。そばにいた人が、
「あ、これは後ろ向きに倒れるぞ」
と思ったと言うから、まあ、これも年齢のしからしめる事故であろう。
であれば、3件目の事故は未然に防がねばならない。
「よっしゃ、ほら、俺と降りよう」
そう声をかけた私は、相手が反応する隙を与えず、おじいちゃんの左の脇の下に私の腕を差し込んで支えた。瞬間、おじいちゃんは怪訝な顔をして私を見た。こいつ、なんで勝手に俺の身体に触ってくるんだ? 痴漢か?
だが、背丈なら私の方がはるかに高い。横幅だって私が上だ。その上、年下で若い(いや、この「若い」は空くまで相対性理論に則った若さであります)。
抵抗しても無駄、と思ったか、おじいちゃんは素直に私の指令に従った。
「ほら、降りるよ。右足を出して。そうそう、よし、今度は左足を出してもう一段降りようね」
無事、下の通りまで降り立つと、2人は私に頭を下げて歩き出した。私は手を振って巡視業務に戻り、歩き去った。
これだけなら、単なる美談である。美談が美談のままでは終わらないから世の中は面白い。
通行止めされているところまで巡視業務を続行した私は、Uターンして引き返した。しばらく歩くと、先ほどの老夫婦が向こうからやって来るのに出くわした。目と目が合う。
で、何が起きたと思います?
何も起きなかったのである。2人は私を完全に無視して通り過ぎたのである。えっ!
普通、ホンのちょっと前に世話になったヤツと顔を合わせたら、
「ああ、さっきはどうも」
程度の声をかけないか? いや、せめて頭を下げる挨拶程度はするのが世の習いではないか?
なのに、何もなし。清々しいほどの完全無視。
絆、絆っていまだにアホウのように口にする輩がいるが、まあ、世の中はその程度のもので出来上がっているらしい。
と書くと、お前は善意への報酬を求めているのか? と憤りをお感じになる方もひょっとしたらいらっしゃるかも知れないが、主観的には私は何も求めてはいない。ただ、何となく今の世相、人々の世の中への対処の仕方を象徴しているような出来事だったなあ、と思って書き記しているだけであることをご理解いただければありがたい。
ということで、昨夜の帰宅は午後10じずぎ。シャワーを浴びてビールを1本。焼酎少々で就寝。
今朝は6時半におき、筑波まで往復300kmを走って午後4時過ぎに桐生に戻った。
ふっ、働きすぎかなあ?