01.11
明日から九州に出かける。亡き母の法事である。
母が身罷ったのは2018年1月13日早朝だった。早いもので、あれからもう丸2年。13日に坊主を呼んで三回忌をするというから、明日九州に行く。午後一の便で飛び、13日は夕方の便でとりあえず横浜に戻る。桐生着は14日午前の予定だ。とんぼ返りの旅である。
法要。しかし、宗教とは実に巧みに組織されているものであると感心する。
亡き母を偲ぶのなら、それぞれが勝手にやれば良い。寄り集まる必要はとんとない。それなのに関係者が一堂に会し、わざわざ坊主を呼んでお経なるものを聞かされなければならない仕組みになっている。そのお経なるもの、聞いていても何を言っているのか全く分からない。退屈である。
私が中心にいるのなら
「別に、三回忌なんてやらんでもいい。集まる必要もない。坊主はいらない」
と断言するのだが、九州にいて墓の番をしているのは弟である。弟がやるというのなら、やらざるを得ない。
法要って何のためにするのだろう? と考えたことがある。社会的な効用からすれば、遺族が顔をあわせる機会を作ることしかない。親戚といったって、兄弟といったって、それぞれが家族を持ち、それぞれに暮らすようになれば自然に交流は減る。仲が良くて、
「たまには会いたいな」
などと思っても、それぞれ別々の時間軸で暮らしているから、なかなかスケジュールが合わない。スケジュール調整も面倒だから、
「じゃあ、またにしよう」
ということになる。
しかし、法要となれば話は別だ。開かれる日は命日と決まっているのだから、スケジュール調整の必要はないのである。だから、兄弟、親戚が寄り集まって
「元気にしてる?」
などと酒を酌み交わす。
それが、効用といえば効用なのだろう。その程度だから、なくなったところで、誰も困るわけではない。
法事がなくなって困るのは坊主である。法事に伴うお布施は、彼らの生活の資なのだ。様々な理屈をつけて葬式をし、法事を営んで集金する仕組みを完成して、宗教は宗教として生き延びるための経済システムを整えた。このシステムが作れない宗教団体(団体になった時点で、何らかの経済的システムは持っているはずだが)は永続できない。
大変に冷たい言い方をすれば、キリストという人がいただけではキリスト教は成立しなかっただろう。
「あ、この人が残した言動を利用すれば暮らしていける!」
と思いついた人が教団、教会を組織してはじめて宗教組織になったのではないか。
日本における仏教も、同じようなものである。仏教が伝わって、最初に帰依し、庇護し、資金を負担したのは天皇をはじめとする当時の有力者であった。その後も時の権力者が
「利用価値あり!」
と判断して庇護したおかげで仏教は生き延びた。大衆が帰依するのはずっと後のことである。権力者の庇護が得られない宗派は、帰依した大衆から集金するシステムを作り上げて教団になったのである。
と考える私は、できるだけ坊主の飯の種にはなりたくないが……。でも、まあ、三回忌。九州行きは仕方ないか?
私が九州に行くのを最も喜んでいるのは璃子らしい。数日前に電話があった。
「ボス、こんばんは。九州に行くんでしょ?」
といつも通りの挨拶で始まった会話がここまで進んだ瞬間に、私はピンと来た。
「璃子、クロワッサンだろ?」
福岡空港に「三日月屋」というクロワッサンの店がある。甘いものをほとんど口にしない私は食べたことがないので分からないが、たいそう美味しいらしい。少なくとも、我がファミリーの間ではすこぶる評判が高い。もちろん璃子も、ここのクロワッサンが大好きなのだ。
「えーっ、どうして分かるの?」
「そりゃあ、璃子がこのタイミングで電話をしてくるんだから、他にないでしょ」
「ねえ、買ってきてくれる?」
「璃子に頼まれたら、ボスは断れないだろ?」
「お願いします!」
という璃子の期待を背負っての九州行きである。
クロワッサン、結構かさばる。機内に持ち込み、運んでくるのは大変だが、まあ、璃子の願いとあれば仕方ないか。
ところで、トランプさん、どうしたのかねえ? 米軍基地が報復攻撃を受けたのに、
「誰も怪我しなかったもん」
と、報復への報復は見送った。全面戦争にはならないようで、その分にはありがたいのだが、あれほど拳を振り上げておきながらこの結末は……、トランプ、男を下げないか?
と思ったら、米国では
「イランが人的被害を出さない攻撃にとどまったのはトランプの読み通り」
とかで、トランプを評価する見方もあるそうだ。イランの反撃がこれでおしまいかどうかも分からないのに、政治の世界って、そんなものか?
世界一のテロ国家、ならず者国家の親分は、次は何をやってくれるのだろう?
俺が、俺が、しか知らない狂人が世界を牛耳る。恐ろしい世の中である。