2020
05.21

日本はなんと息苦しい国になったことかと慨嘆しております。

らかす日誌

東京高検の黒川検事長といえば、検察人事改革のシンボル的な人物だ。その黒川氏が職を辞すようである。

安倍政権が黒川氏の定年を半年間延ばすと決めたのは今年1月のことだった。突然の定年延長に様々な憶測が飛び交い、安倍政権寄りといわれる黒川氏を検事総長にするための定年延長である、というのがマスメディアが築き上げた定評である。
そうなのかも知れない。あるいはそうでないのかも知れない。

その後、検察庁法の改正案が話題になった。改正案の中に、内閣や法務大臣が認めれば、検察幹部の定年を3年間延長できるという一条があった。これが

「飴をみせることで、政治腐敗に検察庁が手を突っ込むのを防ぐのが狙いだ」

との批判が沸き起こり、検察庁の前の偉いさんまで登場して、とりあえず今国会での成立は見送られた。

確かに、時の政権の思惑次第で3年間定年を伸ばせるというのは、政権に都合が悪い事件が起きたとき、検察の捜査を抑え込む切り札になるのかも知れない。
そこを疑われても仕方がないかも知れないが、検察官って定年延長という餌を出されると、苦労して築き上げた政治家がらみの事件を放り出す情けない人たちなのか。早く定年になって弁護士でも始めた方がよほど実入りはよくなると思うが、検察官でいることには何か特別な利益があるのだろうか?

という疑問を私は持ち続けた。これも批判が当たっているのかもしれないし、そんなことはないのかもしれない。

いずれにしても、世がコロナウイルスに右往左往する中で、何となく安倍政権と検察庁の仲がおかしいんじゃないの? ということになり、その象徴になったのが黒川氏であった。
その黒川氏が、せっかく延びた定年を満期まで務めることなく、辞任する。まあ、他人のことだし、何となくの胡散臭さは私も感じていたから、彼が辞めることに特別の思いはない。多分、弁護士に転業して、これまで以上にお金持ちになられるのではないか、と推測するだけである。加えれば、安倍政権もガタピシしてきたなあ、と少し嬉しくなった。

しかし、辞める原因が、賭け麻雀を週刊文春にすっぱ抜かれたこと、であるのは何とも寂しい。日本はいつの間に、こんなにケツの穴が小さい国になってしまったのか。すべてを白か黒かで分け、中間のグレーを一切認めない、ゆとりのない社会に陥ってしまったのか。滅びに至る道には正義というブロックが敷き詰められているというのに、声高に正義を叫ぶ人たちで町が埋め尽くされてしまったのか。

黒川氏辞任の報道を聞いて、いまの

「正義は絶対だ!」

という風潮に息苦しさを感じるのは私だけか?

賭け麻雀。確かに法律違反である。刑法185条は、賭博をすれば50万円以下の罰金、または科料、と決めている。刑法に取り上げられているのだから、立派な犯罪である。

だけど、である。賭け麻雀はごくありきたりの遊びとして、日本の社会に定着してきた。刑法185条を厳格に適用しようとすれば、雀荘なんて営業できるはずはないし、名画「麻雀放浪記」だって制作されてはいないはずだ。法の執行者である警察も、そこはお目こぼしするのが慣習法であった。
それなのに、賭け麻雀で引責辞任? そりゃあないだろ、と違和感を持つ人はいないのか?

これを報じた週刊文春の記者さんは賭け麻雀をやったことはないのか? スクープされて追いかけているメディアの記者たちは賭け麻雀をしたことがないのか?

学生時代は麻雀と無縁であった私も、朝日新聞に入って先輩に教え込まれた。さんざんかもられた方である。当時は朝日の記者も毎日の記者も読売もNHKも記者クラブで雀卓を囲んでいた。それが普通の風景だった。

「ここでは、一般の外来者に見えちゃうから」

と、雀卓を別の部屋に移した警察署もあったと聞いた。
記者クラブで雀卓を囲むのは記者だけではなく、時には市の職員も、警察の広報官も雀士になっていた。もちろん、賭け麻雀である。いま思えば、のんびりした時代だった。

確かに時代は変わった。なぜかは知らないが、昼間から麻雀をするなどという「特権的」(?)な連中には厳しい目が向けられるようになった。だから、いま雀卓を用意している記者クラブなんて、どこにもないだろう。

だけど、一昔前は当たり前だった賭け麻雀が、引責しなければならない重大犯罪にどうして変わらねばならないのか?

世の中を白と黒に分け、黒は徹底して排除しなければならないというのはガキの論理である。私にもガキの時代があったからそれを理解できないわけではない。しかし、ガキを卒業して大人になるということは、世の中には白でも黒でもない、その中間のグレーの部分があり、それが世の中の調整弁として、潤滑油として機能していることを知ることである。
白と黒しかない世の中は、すべてがギスギスする。

「だけどねえ」

という曖昧な部分があってはじめて、世の中はスムーズに動く。

露の世は 露の世ながらさりながら

かつて引用したことがある小林一茶の句である。じっと胸に手を置いて考えれば、生きるとは「さりながら」を続けることだろう。あなたが言うことは正しいとわかっている。さりながら……。そうやって人は生きていく。
「露の世」を「賭け麻雀」、「タバコ」など、日本の社会から排除されようとしている言葉に入れ替えたい。全員とはいわない。しかし、そこに「さりながら」の人生を味わっている人たちがいるのだ。それはそれとして認めるのが大人の世界なのではないか?

フランスでは、愛人がいるだろう、と追及された大統領が

「ええ、います。それが何か?」

と答えた。そんな感性を日本の社会に望むのは無い物ねだりなのだろうか?

とうとうコロナウイルスの死者数が33万人を超えた。
感染者数で、遅れて登場したロシアが2位になった。ここでも米露は2大国であるようだ。

ではまた。