06.12
どうして君たちはカタカナ語が好きなんだ?
新型コロナウイルスの騒ぎも、とりあえず一段落ついたようである。東京も「東京アラート」を解除し、「ステップ3」に移った。スーパーやコンビニ、DYI店などはまだマスクをしないと中に入れてくれないが、飲食店も24時まで営業できるようになり、暮らしが少しずつ元に戻っている。
と書きながら、なんだか気分が悪い。いや、コロナウイルスへの警戒感が緩み、第2波、第.3波の襲来を懸念してのことではない。昼食に悪いものでも食べたかな? というむかつきでもない。
「コロナ騒ぎで、知らなくてもいい外来語を沢山知ってしまったなあ」
という気分の悪さである。こんな外来語をポンポン口にしたのは小池東京都知事を東の横綱とする。このおばさん、日本語がちゃんとはできないのか? それをそのまま読者、視聴者に運んでしまったメディアの言語感覚はいったいどうなっている?
そんな気分の悪さである。
最初に戸惑ったのは
パンデミック
という聞き慣れない言葉だった。
高校時代、休み時間も机にへばりついて「赤尾の豆短」を貪り読んでいたガリ勉の友人たちとは違い、
「単語は文脈で覚えるものだ」
と豪語してその手の努力をサボった私だから、わからない外来語があっても不思議ではない。だけど、この言葉にぶつかって意味が分からなかった人は私以外にもいるはずである。
ググってみた。
感染爆発
という意味らしい。それで意味は分かったが、
「だったら、そんな外来語は使わずに『感染爆発が懸念されています』といえばいいじゃないか」
との思いは消えない。
次に面食らったのが
クラスター
である。これも
「ハムスターなら知ってるけど。いや、クラスター爆弾ってのもあったな」
程度の知識しかこちらにはない。調べると、集団のことだそうだ。つまり、
「クラスターが発生しました」
というのは
「集団感染が発生しました」
という意味である。
小池都知事が頻繁に使う
東京アラート
にも違和感がフツフツとたぎってしまう。「東京」という日本語と、「アラート」という英語が混じり合っているのは何とも耳障りが悪い。
ステージ3
も同じである。
「東京警報」
「第3段階」
で十分じゃないか?
国語とは民族の一体感の拠り所である。だからフランスはフランス語を大事にする。いまは知らないが、英語が話せても使わない人が多いと言われた国である。日本はフランスではないが、それにしても、このカタカナ外国語の横行はどういうことだ? 少しはフランスを見習って日本語を大事にしろよ!
日本は文字を中国に学び、だが学びっぱなしではなく、そこからひらがなを作り、カタカナを作って自家薬籠中のものにした国である。中国で「マア」と発音する漢字を輸入し、しかし日本語に直して「はは」と読む知恵を持った国だったはずだ(このあたり、日本語の歴史についてはうろ覚えなのだが……)。それなのに、パンデミック? クラスター? アラート、ステージ? いい加減にして欲しい。
もちろん、カタカナの効用はわきまえているつもりである。日本語に翻訳できない外来語をカタカナで表記することで、日本には存在しないが、取り入れることが必要な概念を、自由に輸入してきた。Coca-Colaを日本語に翻訳するのが難しければ、コカコーラと書けばよい。漢字しか使えない中国では「可口可楽」と書いてクコクラと発音するしかない。computerは日本語で「コンピューター」(一昔前は「電脳」ともいったようだが、定着しなかった)、中国語だと「电脑」(なんと読むんだろう?)と書くしかない。こうした機能性が近代文明の導入に大いに役立った、と指摘する人もいる。
だけど、日本語で表記できるものは日本語で表記する。それが、私たちを支えている日本語を守るということである。パンデミックは「感染爆発」と表現すればよい。クラスターは「集団感染」、アラートは「警報」、ステージは「段階」。使い慣れた、誰でも理解できる日本語で十分に表せることを、どうしてカタカナを使い、日本語での表記より理解者が少ないはずの原語で表さなければいけないのだろう?
メディアに横文字が横行するのは都知事の言葉を正確に伝えるためか? 止めてくれ。むしろ、やたらと横文字表現を使って「小池ワールド」を演出しようとするおばさんをたしなめるのがメディアの役割ではないのか? そのまま伝えれば、「小池ワールド」の演出をヨイショすることになる、と気がつくべきではないのか?
それとも、
「感染爆発、パンデミックが起きる恐れが……」
などと、わざわざ注釈を入れてしゃべっているところを見ると
「俺、こんな難しい言葉を知ってるもんね!」
と知識自慢をしたいのか? それは
事実を、正確に、誰にでもわかりやすく
伝えるというメディアの原則から外れてるんじゃないの?
と、今日はまあ、テレビのニュース(ほとんどNHK)を見ながら、思わずテレビにコップを投げつけたくなった(テレビもコップももったいないから実行しなかった)憤懣をぶちまけた私であった。