2020
06.30

映画を作る人たちは何を考えているんだろう?

らかす日誌

今日で6月も終わりである。夏と呼ばれる季節の3分の1が終わる。残る夏は2ヶ月、62日。
だが、梅雨寒が続いているため、私の嫌いな「夏」が残り3分の2になった実感がない。春なのか夏なのか不分明な季節がダラダラと継続している感じである。今年の夏の予報は酷暑。ほんとかいな?

先日2本の映画を見た。いずれも録画したばかりの、WOWOW風に表現すれば「新」、つまり初めて放送された映画である。最近の私は、録画した映画は必ず見る。見て

「これは保存しておきたい」

というものしかディスクにしない。増えすぎた映画の在庫を、さらに増やさないための工夫である。ために、ディスク化する映画の数が、最近では月に1、2枚に減った。言い換えれば、私の主観的判断で

「保存しておきたい」

という映画はその程度しかない。

「これはいいのでは?」

という映画を選んで録画しているのにこの有様である。私の主観によれば、世の映画のほとんどは駄作、ということになる。
そして、この2本の映画も、私の主観によって駄作に区分され、レコーダーのHDから消去された。
今日は、そのようにして消された映画の話である。

空母いぶき

昨年公開された日本映画である。原作はかわぐちかじさん。コミック誌「ビッグコミック」に連載された漫画である。そしてビッグコミックは私の愛読紙であり、「空母いぶき」は毎回楽しみにしていた漫画だった。
尖閣諸島問題を筆頭に、最近の中国は軍事的膨張主義を隠そうともしない。日々、アジアがきな臭くなっていく中で、太平洋戦争への反省から絶対平和主義を唱えてきた日本はどう振る舞うべきなのか。そんな漠然とした思いが国内に漂う中で、中国の脅威、日本は軍事的にどう対処すべきか、を前面に押し出した漫画に強く惹かれるものがあった。

「かわぐちさんは現在をどう捕らえており、日本の進むべき道をどう考えているのだろう。いまの日本の自衛隊に何が、どこまでできるのだろう」

作り話であることは十分すぎるほどわかりながら、読めば読むほど引き込まれた。

だから、それが映画化されたのであれば見なければならぬ。映画館に足を運ぶことはなかったが、放送されるのなら見逃す手はない。

その映画をHDから消去した。つまらなかった

漫画では、軍事的圧力を日本にかけ、局地戦を展開する相手国は中国だったはずである。ところが、映画では違う。台湾の近くに架空の国をわざわざ設け、その国が急速に軍事大国化して日本国土の侵略を企てるのである。

おいおい、相手国が中国というリアルさが、習近平政権の振る舞いと相まって読者の関心を引いたのが漫画「空母いぶき」ではなかったのか? 映画になると、どうして中国が引っ込み、架空の国が登場する?

恐らく、制作者がビビったのである。中国を敵国とすると、習近平政権を刺激する。国際関係上まずいんじゃない? 場合によっては中国、日本の両政府から有形、無形の圧力をかけられるぞ。それはありがたくない。怖い。ここは中国にはご退場いただいて仮想の国にした方が安全なんじゃない?

この映画を貫くのは、このビビリの精神である。表現者は表現の自由を尊ぶ。何かあると伝家の宝刀のごとく、表現の自由という剣を抜く。ポルノ映画でも主張されることが多い「表現の自由」の精神を、彼等はどこかにおkぃわすれたらしい。
だが、原作である漫画「空母いぶき」では、きちんと表現の自由を行使している。堂々と中国が登場させている。それなのに映画で中国を消し去ったのは

「漫画より映画の方が偉い。影響力が違う」

とでも勘違いしているのではないか。黒澤明や小津安二郎が現役だった時代ならいざ知らず、いまの日本映画にそんな力があると本気で信じているとしたら極楽とんぼもいいところだろう。それに、原作は漫画ではないか。漫画に頼らねば作れない映画を作っておきながら、漫画を見下すか?
おっと、これは私が勝手に妄想したことをもとにこの映画を批判している。ルール違反であろう。謝罪する。

漫画は、尖閣諸島周辺の日本領海への侵犯を繰り返したり、戦闘機で自衛隊機にニアミスをしたり、中国のあからさまな挑発行為が繰り返されている日常を背景にしたから、あるかもしれない近未来の話としての膨らみを持てた。架空の国との架空の戦闘なら誰でも想像できる。中国抜いてアジアのきな臭い空気を空気清浄機でサラサラにした「空母いぶき」なんて、気の抜けたビールのようなものである。

基本的な構造が気の抜けたビールだから、後は推して知るべしだ。空母いぶきにはなぜか2人のジャーナリストが乗っている。まだ新人記者と思える女性と、中年のオヤジである。オヤジの方はまだ理解できる。しかし、こんなポッと出の若手を自衛隊の新鋭空母いぶきに乗船させて取材させる上司なんているか? 通常、新人記者とはどうでもいい記事を任せられるものであり、大事件になれば先輩の手足となって雑用をこなすものである。そんな下積みをこなして力をつけ、重要な取材を任されるようになるのが普通ではないのか。

挙げ句の果ては、情報統制が当然であるはずの戦地から、この女性記者が発信した映像が戦闘を終結させる。捕虜にした相手国のパイロットが空母いぶきの艦上で自衛隊員を射殺するのだが、怒りに燃える乗組員を艦長がなだめ、捕虜の安全を守る映像が国際配信されたためらしい。よくある

「国際世論を味方につけた」

という論である。
一見美しいこの論が頼りにならないのは、最近の香港を見ていれば一目瞭然だと思うが、いかがだろう?

この映画、腰が据わらないことおびただしい。それとも、

「これは娯楽映画。そこまで神経質にならなくても」

って?

自衛隊が経験したことのない戦闘行為を描いた映画を、中国の軍事的圧力が続く中で公開する以上、それはないだろうと思うけどねえ。

もう1本は

ベン・ハー

である。といっても、チャールトン・ヘストンが主演し、作品賞をはじめとしたアカデミー賞を総なめしたやつではない。2016年に公開されたリメイク版である。

「ベン・ハー」は迫真の戦車競技場面が有名で、このリメイク版でも迫力は満点だ。壁に顔をこすりつけられる競技者、戦車が転倒し、他の戦車に巻き込まれる競技者、ベン・ハーだって戦車から落ち、手綱1本で引きずられてあわや後続の戦車に曳かれかける。
だが、この映画の本質はキリスト教の宣伝映画だと私は思う。大工のイエスが登場し、捕虜として引き立てられるベン・ハーに水を飲ませてやる。キリスト精神の現れか。追放されて隠れ住むベン・ハーの母と妹が業病がかかっていた業病を奇跡で治癒してやるのはキリスト教のお約束である。こんなあんなで、ユダヤ人であり、ユダヤの戒律で身を律してきたベン・ハーが妻に導かれてキリストに帰依し、一時は奴隷の身に落ちながら自宅に戻るのだから、あれもこれもキリスト様々である。そのキリスト教臭さ、宣伝臭の強さがHDから消し去った最大の理由だ。

しかし、世界的にはキリスト教の信者は減りつつあると読んだことがあるが、欧米にはキリスト教の宣伝映画としか思えないものが結構ある。イエス・キリストの生涯を描いた「サン・オブ・ゴッド」はべつにしても、

「神も仏もある」

と、キリスト様のご威光を讃える映画は数え切れない。

しかしなあ。と門外漢の私は思う。ヨーロッパの歴史なんて、十字軍を始め、「愛と平和」を説くキリストの名の下に数多くの戦闘と虐殺が繰り返されたではないか。

それだけではない。中世、世の中の富を独占したのは教会だった。沢山の土地を所有して農民を締め上げ、それでも足りなかったのか、

「金をくれたらあんたの罪は許されまっせ」

と贖罪符を販売する詐欺罪まで犯しのもキリスト教会で会った。
加えて、高位聖職者になると妾を持つのは当たり前。貧困にあえぐ信者をよそ目に、キリスト様のご威光で我が世の春を謳歌し尽くした聖職者の数も、恐らく数え切れまい。

それでも、キリスト教? 何がそんなにいいわけ?

日本で宗教が絡んだ戦争といえば一向一揆か。しかし、こちらは地侍層が領主に反抗する拠り所として一向宗(浄土宗の僧、一向俊聖が始めた)があった過ぎない。彼等が掲げた

「厭離穢土 欣求浄土」

の方が、「愛と平和」より親しいものに感じられるのは私が日本人だからか?

感染者1000万人、死者50万人。とうとう新型コロナウイルスが大台に乗ってしまった。28日の新規感染者数は16万3172人だからなにをか言わんやである。アメリカの死者数は間もなく13万人。アメリカって、最先端の近代医療技術を備えた先進国ではなかったのか?

しかし、新型コロナウイルスがあぶり出したものもある。トランプの本性。安倍政権の力量。どちらも、文字通りlame duck(足が悪くてヨタヨタとしか歩けないアヒル。転じて「死に体」の政治家)になってしまった。

テレワークを始め、間もなく新しい時代が始まってくれるのかな?