2020
09.06

BMWが届いた。

らかす日誌

あのO氏が発注していたBMWが昨日届いた。夕刻からえびす講がらみの飲み会があり、山の上から下界に降りねばならない私をO氏は迎えに来てくれたのだが、真新しい中古のBMW 320dでお見えになった。いわば、新しい中古車の披露公演である。

「どう、俺に似合ってるだろ?」

というのは、BMWのデザインの秀逸さに心が浮き立っているから発した言葉か。

「いいよねえ、これ。いい車だよ」

とおっしゃったので、

「いままで乗ってたマツダよりいいでしょ」

と申し上げたら、

「いや、マツダもいい車だよ」

と、ポイ捨てした旧女房を擁護された。だったら、BMWに乗り換えるることもなかったのではないかと愚考した次第である。

飲み会では、近くの人を捕まえて

「今日車が来たんだよ。ヌマタヤで落としてもらった中古車でねえ。これがいいんだよ」

とにこやかに自慢され、

「あれ、ヌマタヤの入札代行料は5万5000えんだっけ、5万円だっけ?」

と私のご下問があったので、5万円であると正確な答えを返しておいた。

色は白。見たところ、どこにも傷はない。なかなか程度のよろしい3年落ち、2万㎞の新しい中古車である。これまでの平均燃費を見たら1リッターあたり19㎞。これまで乗っていた人は高速道路を中心に走っていたらしい。この車が200万円ではちと足りないが、250万円だとそれなりにお釣りがくる価格でO氏のものとなった。

これで、私の影響力の元でBMWの新しい中古車を買ったのは、H、M、T氏に続いて4人目となった。私はなかなかのインフルエンサーである。

予告した「選択」だが、見出しほどの中身がある記事は見いだせなかった。
ただ、

・検証「コロナ報道」

ではちと考えさせられた。日本のメディアのレベルの低さを嘆いた記事である。
一言でまとめれば、日本の現場にいる記者たちのレベルの低さがコロナ報道で露呈されたと指定している記事、といえるだろう。

1)「ネイチャー」「ザ・ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」など英語で書かれた専門誌を読みこなせる記者が日本にはほとんどいない。

2)そのため、新型コロナウイルスについての知識がほとんどないまま取材に走り回り、結果的に取材した専門家の考えによって記事内容が決まった。専門家にはそれぞれの立場、考え方の違いがあり、それがてんでんバラバラな報道という結果につながった。

3)取材を受けた専門家は、その多くが厚労省が設けた専門家会議のメンバーである。このメンバーたちはほとんど新型コロナについての論文を書いていない。海外の専門家が競うように新型コロナに関する論文を発表している(8月15日現在で4万3795編)ことを考えれば、不思議なことである。

4)海外メディアはこうした論文をわかりやすく一般読者向けに紹介しているが、日本のメディアでは数少ない。

5)新型コロナウイルスに関する報道であるにもかかわらず、それぞれのメディアの立ち位置に合わせたとしか思えない偏りがある。日本経済新聞は経済優先を唱え、富士フイルムのアビガン(一時、新型コロナウイルスに効果ありと取り上げられた)を推しまくった。だが、インド、中国での臨床試験では有効性を証明できていない。朝日新聞は、政府と対峙するような姿勢をとった小池百合子の尻馬に乗って政府攻撃をした。東京都がシングな多コロナを押さえ込めなかったのは明らかなのに、である。

まあ、ざっとこんなところか。

この記事を読みながら考えたのは、私がいま、取材の一線にいたら、何を考え、何を書いただろうか、ということである。
記者とは不思議な仕事だ。企業経営などしたこともないのに、経営者に会って話を聞き、経営についていっぱしの記事をまとめる。人を殺すことと無縁の暮らしをしながら殺人犯の話を詳細に書く。いってみれば、あらゆることについて、素人であるにもかかわらず専門家みたいな顔をして記事を作る。持っている専門性とは、聞いた話をわかりやすい文章にまとめることぐらいでしかない。

とはいえ、記者は取材の過程で知識を蓄える。といっても、新しいことを取材するのだから、基礎知識ゼロからの取材で、相手に失礼になることも顧みず、質問を繰り返す。こちらの不出来な頭で話の中身を理解できるまで質問するのだから、取材を受けた方は呆れてしまわれるかも知れないが、これも仕事と割り切って事を進めるしかない。なにしろ、自分で理解する、あるいは理解できたと思い込むことが文章にまとめる最低条件なのである。
そして、担当分野でこれを繰り返せば、いつしか雑談程度なら専門家と交わすことができるようになる。
といっても、その分野の専門家になったわけではない。大雑把な地図を手に入れた程度だから、いざ記事を書くための取材をする際は、再び延々と質問を続けることになるのだが。

という話は、取材先が特定分野についてかなりなところまで理解している条件下でのことである。いまでも、現場の記者たちはそんなことを繰り返しているはずだ。
ところが、今回の新型コロナでは、このウイルスを理解している専門家がいない。一般的なウイルスの知識があっても、初めて出会う新種のウイルスについては分からないことばかり。
こうして、素人の記者が、新しいウイルスについては知識がない専門家に取材をする。こうした状況では、ついつい権威=厚生省という国の機関が選んだ専門家に頼りたくなるのも分からないことではない。口を開けば霞ヶ関を攻撃する習癖のある方々が、いざとなると霞ヶ関を頼る。
うむ、こう考えてくると、なかなかに情けない仕事ではある。

さて、私ならどうしたか。

1)に関しては、私もその1人である。英語で書かれることが多い専門的な記事を読みこなせるはずがない。

2)もやってしまいそうだ。とにかく、締め切り時間までに記事をまとめなければならない。自分に予備知識があるかどうかなんていってられないのだ。だから3)もあり得る。どこに行ったら専門家がいる? そうだ、厚労省に聞けばいい! 他に頼るところがなければ、そうせざるを得ない。

私の場合はそれと同時に、大型書店に駆け込んでいたのではないか。そこでウイルス関連の書籍を買い込む。的はウイルスである。であれば、ウイルスとは何か。初歩の初歩だけでもいいから頭にたたき込んでおかねば、何を取材したらいいかすら分からない。これは、福島原発の事故の後、桐生市を担当していた私がやったことである。放射線障害とは何か? 放射線はどのように人体に働き、どのような悪さをするのか。その概略地図が頭になければ、何を取材してどんな記事にまとめればいいのか皆目見当がつかなかったからである。オオカミ少年になってはいけないとは記者のイロハのはずなのだ。
そしてもう一つ、それまでに蓄えた人脈を整理する。信頼できるウイルス専門家はいないか? 間に5、6人を挟めばだれでもアメリカ大統領にたどり着くことができるとは様々な学者が実証していることだ。かかりつけの医者、大学の教授、いろいろな人のネットワークを頼りながら、政府のお墨付きが着かない専門家を探し出そうとしたのではないか。

5)については何ともいえない。恐らく、個々で指摘されている記事を書いた記者にしてみたら、それまでの人生で培ってきた考えに基づいてそのような記事を書いたのだろう。ということは、築き上げてきた哲学が、新型コロナ騒動の中では役に立たなかったということである。これを自力で克服するのはなかなか難しい。
ただ、コロナの政治利用と採られるような記事はできるだけ避ける努力はしただろうと思う。全員が初体験なのだ。政府だって間違う。都知事だって間違う。それをいちいち取り上げて責任を問うのは緊急事態の中でやるべきことではない。手探りで新型コロナとの戦い方を模索する記事に力を注いだと思う。

やや番外編になるが、名古屋経済部にいたとき、会社そばの居酒屋で当時の経済部長と議論したことがある。
私は、記者はまず評論家であるべきだと主張した。いま起きている問題について鳥瞰図を描くことができ、その鳥瞰図の中で目の前の事象をどこに位置づけたら正しい理解が得られるのか、を指摘するのが私のいう評論家である。そのような軸がない記事は要らざる偏見を読者に与えかねない。だから記者は自分の担当分野を深く学ばねばならないし、ある程度学習が進むまでは踏み込んだ記事を書くべきではない。
一方の部長さんは、私の主張を一蹴した。記者は目の前の事象を記事にするのが使命である。分析や評論はどの道の専門家に任せればよい、というのである。
議論に結論はなかった。いや、力関係からすれば私の敗色が濃かったか。しかし、議論で敗北することと、自分の考えを変えることは別である。私は今でも、私の主張の方が正しかったと思っている。

今回も、ウイルスについての専門知識を持った記者が各社にいたら、少なくとも専門家と呼ばれる人たちと対等に近い立場で議論を交わすことができ、それが記事に反映したはずである。英語を楽々と読みこなせる記者が数多くいたら、英語の専門誌から事実を拾うこともできたはずである。

まあ、今日は「選択」を読みながら、こんなことを考えた。とすれば、1冊1000円は高くないか?