2020
12.26

松井ニットの松井智司社長が亡くなった。

らかす日誌

松井ニット技研の松井智司社長が亡くなった。82歳。昨日午後のことである。

私が桐生に赴任したのは2009年4月。3月31日に引っ越しを終え、4月1日には住民票も桐生に移して市民の一員となった。
新しく私の町となった桐生の第1印象は決してよくなかった。町を人が歩いていない。目抜き通りと言われる本町商店街にはシャッターを降ろした店が目立つ。現役時代を都会で過ごすことが多かった私の目には

「地方都市は寂れる一方だと聞いていたが、この桐生の寂れ方は半端じゃないなあ」

数週間後、市役所の広報課長さんにそんな話をしたら、さすがにムッとしたのだろう。

「大道さん、こんなマフラーがこの町で作られていることを知っていますか?」

と、卓上のパソコンのディスプレイを突きつけられた。そこには、これまで見たこともない色の組み合わせがあった。美しい。赤や青といった強い色も使われていて華やかだ。それなのに決してケバケバしくはない。なんだか心が浮き浮きしてくるような調和がある。

「えっ、こんなマフラーを作っているところが市内にあるの?」

マフラー専業メーカーの松井ニット技研との出会いだった。私は一目で魅せられた。

魅せられれば、何とかこのマフラーを記事にしたいと思ってしまうのも新聞記者根性である。私がそう思うくらいだから、これまで桐生で取材した記者も松井ニットの記事はかなり書いていた。さて、新参者の私が書けるネタがまだ残っているのか? こんな時はあれこれ迷う必要はない。とにかく、松井さんに会わねば始まらない。
数日後、私は松井ニットの門を叩いた。

あれからもう11年近いお付き合いである。その松井智司さんが亡くなった。地元紙の記者が今日、親切にも知らせてくれた。

そういえば、1ヶ月ほど前にお目にかかったとき、松井さんは杖をついていらっしゃった。そんな姿は始めてである。

「足が弱っちゃってねえ」

にこやかにそうおっしゃった。
1年ほど前から腎臓透析をされていた。体調が悪くなって医者にかかったら腎臓の機能が衰えているので透析が必要だといわれた。病院に通って透析をすると時間がかかって仕事が出来ない。だから自宅で、寝ている間に透析が出来る機械を借りたんですよ、とおっしゃっていた。マフラー作りにかける意欲は10年前と同じだった。

その話し方が余りにも軽やかだったので、私は余り深刻には受け止めなかった。透析を続けている人は知人にもたくさんいる。彼らは透析を受ける一方で仕事も続けていて健在だ。そんな彼らを見慣れていたから、透析を始めたから1年や2年でダメになるケースは少ない、と思い込んでいた。

それだけに、杖をつく松井社長の姿に驚いた。これは、かなり弱っておられるな。
それでもこんなに急なこととは思いもしなかった。だから昨日、松井社長宛の年賀状もポストに投函していた。

「新年、コロナ騒ぎが一段落したらまた杯を交わしましょう」

その程度の認識しかなかった私は、突然の訃報にしばし呆然とした。

松井社長は経営者であり、マフラーのデザイナーであり、工場の編み機をカスタマイズする職人だった。社長の代わりならいくらでもいる。工場の編み機を調整できる職人さんも探せばいるかもしれない。しかし、様々な色を自家薬籠中のものにして思わず見とれるマフラーをデザインするデザイナーはほかにいない。あの色彩感覚は、松井社長独自のものだった。

松井ニットには押しかけデザイナーがいたこともある。しかし、座敷に積み重ねられているマフラーを見て

「これ、新しく来たデザイナーさんの作ですよね?」

と聞くと、100%当たった。煮たような柄ではある。しかし、ファッションにも色彩にも余り関心がない私が見ても、何となく違いが分かった。松井社長のデザインはそれほど素晴らしかった。

松井ニット技研は毎年、5種類以上の新柄を市場に出し続けてきた。松井社長亡き後、新しいマフラーのデザインは登場するのだろうか? いや、残された人たちが松井社長の衣鉢を継いで新柄を出し続けるかもしれないが、私の目を楽しませてくれた松井社長のデザインに並ぶものが出てくるだろうか?

天下を動かすような巨星が落ちたわけではない。だが、松井社長のマフラーやストールはアメリカ・ニューヨークの近代美術館(MoMA)で5年連続売り上げNo.1を続け、スペインのプラド美術館の売店に並び、ロンドン、コートールド美術館の陳列棚にも並んだ。世界中の美しいものを好む人たちの目を楽しませ、首筋を寒さから守ってきた。恐らく、松井ニットのマフラーを楽しむ人たちの多くは、自分が愛用しているマフラーが、日本国群馬県桐生市にある松井ニット技研の松井社長の美感から産み出されたことなど知りもしないだろう。だが、それでも松井社長デザインの素敵なマフラーを楽しんでいるはずだ。巨星ではない松井社長も、多くの人たちを楽しませた小さな星であることは間違いない。

——次はどこの美術館と取引したいですか?

と聞いたことがある。

「ニューヨークのグッゲンハイム美術館ですねえ」

という答が返ってきた。

——どうして?

との問には、

「あそこね、カンディンスキーの絵を沢山持ってるんですよ」

とにこやかに話された。

グッゲンハイム美術館も、カンディンスキーも知らなかった私は、自宅に戻ってネットで調べた記憶がある。そして、色のマジシャンとでも呼びたくなるカンディンスキーの絵なら、1枚欲しいなと思い始めた。ピカソにもルノワールにもゴッホにも関心がなく、「絵画音痴」を自認する私が、初めて欲しくなった絵である。もちろん、カンディンスキーの絵が買えるほどの財はないから夢物語に過ぎない。これは、松井社長が見させてくれた夢である。

松井社長は

「ええ、私は死ぬまで仕事をしたいと思います。楽しいですよ」

とおっしゃっていた。私は10年先も20年先も松井社長の新しいデザインをこの目で見たかった。いまは早すぎた死を心から悼むばかりである。

なお、松井社長の伝記に近いものが「松井ニット物語」にある。関心をお持ちの方は目を通していただきたい。