2020
12.30

2020年も残り少なくなりました。

らかす日誌

コロナ、コロナで明け暮れたような2020年も残すところ1日とわずかになった。
予定では、2020年は東京五輪が開催されたはずだった。いまの五輪に根本的な疑問を持つ私は、招致計画段階から

「東京に五輪は必要ない」

と主張し続けたが、私なんぞのいうことに耳を傾ける人はほとんどおらず、様々な問題を抱えたままで東京五輪計画は着々と進んでいた。当然のことながら、東京五輪にあやかって巨額の利益をものにしたいという思惑も、あちこちで進んでいたはずである。

それをぶち壊したのが新型コロナウイルスであった。とんでもない病原体が瞬時のうちに世界中に広がり、いまは第3波が拡大し続けている。
東京五輪が先送りされたことには快哉を叫びたいが、しかし、その原因が多くの人の良識ではなく新型コロナウイルスという病原体であったことはその喜びを帳消しにするだけでなく、マイナスにまで引き下げた。

とにかく、2020年は新型コロナウイルスの年であった。
今日現在の日本国内の感染者数は22万3120人、命まで奪われた人は3306人。幸い、わがファミリーも友人諸氏も、いまのところこの数字に加わっていない。2020年の年末に胸をなで下ろせるといえばそれぐらいか。もっとも、年が変わればどうなるかはわからないが。皆様はいかがだろう?

2020年を振り返るとき、もう一つ忘れてならないのは安倍っちのお坊ちゃまぶりが白日の下にさらされたことである。
初めて人類が遭遇した新型コロナウイルスが日本に上陸したときに首相であったことは、安倍っちのツキのなさであろう。
理由が分からぬ高い支持率と野党のふがいなさに支えられ、モリカケ問題も桜を見る会問題もまともに答えることなく質問をはぐらかし続け、いわば勢いで突っ走って歴代最長政権を達成したのに、コロナウイルスでミソをつけた。
アベノマスクが全国のブーイングを浴びると、

「僕ちゃん、またポンポンが痛い!」

と言い出して政権を再び投げ出した。当初はコロナのストレスで持病の潰瘍性大腸炎が再発したかと思っていたが、首相を降りると日を置かずして元気な姿で動き回り、

「安倍氏は、3度目の首相の座を狙っている」

と警戒感を呼ぶ始末。桜問題で検察庁の事情聴取を受けたのは、安倍っちの復活を嫌ったガースーの仕業、と一部で取り沙汰されたのも記憶に新しい。
そうなのである。安倍っちの行動は、お金持ちの子どもだからみんなから祭り上げられてリーダー面しているのに、難題に直面すると最初は指示を下すものの、ますます事態がこじれて訳が分からなくなるとトットといち早く逃げ出し、しばらくすると周りの様子をうかがいながら

「やっぱり僕がリーダーなんだよね」

とのうのうとリーダー面をして戻ってくるお坊ちゃまそのものである。悪いことに、お坊ちゃまに美味しいお菓子をいただいたことが忘れがたく、

「もう一度あのお菓子をもらいたい!」

というごますりがまだ残っているのが面白いといえば面白いが……。

さて、ガースー政権である。先日、早くもポスト・ガースーを探る時代か? と書いたが、昨日届いた「選択」1月号では、ポスト・ガースーの候補として、石破氏野田聖子さんが挙がっていた。えっ、派閥の長を降りた石破氏は総裁選から離脱したのでは? と思ったが、まだ中身は読んでいないのでよく分からん。とにかく、私とはまったくレベルが違う専門の政界ウォッチャーがそう書くのだから、ポスト・ガースーの動きはすでに始まったのだろう。
2021年、私たちは誰を「総理」と呼んでいるのか?

 

さて、

「何をしようか?」

と迷っていた年末年始。一昨日食事をした大澤さんに暇つぶしの極意ともいうべきものをいただいた。「漢字館」である。以前1冊、同じ大澤さんからいただいて、解き進むのに苦労をしたことは書いた記憶がある。あのイライラ感はあれで終わりと思っていたら、思わぬ再会を果たすことになった。

これ、イライラする。が、イライラしながら手放せない。実に憎むべきパズル誌である。何で俺、手元にあると何となく解こうとするのだろう? そんなにイライラするなら捨てちまえばいいのに、と思わぬ訳でもない。しかし、気がつくと

「私は三流かも知れないが物書きである。物書きはできるだけ語彙を増やさねばならない。増やした語彙をいつでも記憶の底から呼び出さねばならない。それには格好のパズルではないか!」

と弁解に努めながら解こうとしている私がある。ほとんど病気である。

だが、なのだ。このパズル、

「こんな言葉はあるのかよ?」

と憎々しくなるパズルでもある。

例えば「▢非▢直」は「理非曲直」であり、「疑▢▢▢」は「疑心暗鬼」であろうことぐらいは何となく分かる。何となく分かるを続けていると、突然「「大度」などという熟語が出来上がる。「工業簿記」「工手間」などとい見知らぬ言葉も出てしまう。

「こんな熟語、日本語にあるのかよ?」

とパソコンで検索してやっと

へーっ、あるんだ」

と納得することになる。
ちなみに、「大度」は「たいど」と読み、広くて大きい度量のこと、とある。「工業簿記」とはそういう資格があるらしく、「工手間」は「くでま」で、大工や職人がものを作る手数や賃金のことだそうだ。日本語って奥が深いね。

「しかし」

とへそ曲がりの私は、もいう一度論理をひっくり返す。

そもそも言葉とは、あるイメージを人から人へと伝えるための道具である。そのためには、1つの言葉を、発する人と受け取る人の両方が同じイメージで持っていなければならない。食事をする台を1人は「テーブル」といい、もう1人は「いす」と表現するのなら、意思疎通はそもそも成立しない。テーブルを見たことも触ったこともない暮らしを続けている人に「テーブル」といっても意味内容は伝わりようがない。

熟語だって同じではないか。「工手間」と書こうと、「くでま」と発音しようと、その意味内容を知らない私のような人間には何も伝わってこない。

「何、それ?」

というばかりである。
とすれば、だ。こんな言葉、生き残る必要があるか? 使われなくなった言葉は死語となり、分厚い辞書の中でひっそりと余生を送っていればよいのではないか? そもそも、こんな言葉を出題すること自体、出題者の不見識ではないのか? いや、単なる意地悪かも。それとも、

「俺、こんな言葉も知ってるもんね。あんた知らない? あ、そう」

という自己満足というべきか。

とあれこれ並べたが、明日もまたやるんだろうなあ、「漢字館」。ひょっとして俺、やっぱり何かの病気なのかなあ。