05.05
どうするのかねえ、東京オリンピック
さてもさても、計算してみると、東京オリンピックの開会式をやることになっている7月23日まで、5月が残り26日、6月が30日、7月が22日と計算すると、80日を切っている。それなのに、オリンピックをやるのかやらないのか、はっきりした結論が出ていない。
もともと東京オリンピックは開くべきではないと考える私にとってはどうでもいい話だが、しかし、それでも
「大会関係者は無責任極まる」
と思う。
連中にいわせれば
「中止するとはいっていない。ということは開催するということだ」
ということかも知れないが、今の世の中を支配しているのは新型コロナウイルスである。現在、東京は緊急事態宣言下にあり、小池のおばさんは
「東京から出るな。東京に来るな」
と叫んでいる。
大阪にいたっては
「緊急事態の延長を」
といっている。
こんな状況下で、オリンピックをまともに開けると思っている人がいったいどれだけいるのか。開催都市の東京では、都民がコロナで落ち着かない暮らしをしている。こんな中でオリンピックを強行するなんて、都民からすれば迷惑至極なのではないか? 私なら、
「出て行け、オリンピック!」
と叫びたくなるところだ。
それでも開催を強行しようという姿勢をとり続ける連通も、腰は定まっていない。海外からの観客はお断りするそうだから、何のことはない。コロナ下で開かれる運動会、体育会が
「父兄の応援は自粛していただく」
といって寂しい運動会、体育会を開くのと同じである。
日本人観客をどうするかは記憶にないが、大規模な集会を控えるようにいわれ続けているなか、
「オリンピックだけは例外」
というわけにはいかないのではないか? プロ野球のように、客席を間引きして売るのか。各国代表のアスリートたちはガランとした観客席を眺めながら黙々と競技するのか。
そもそも、こんな状況下でオリンピックを開く意味が何処にあるのだろう? 一時は
「人類がコロナに打ち勝った象徴として」
と口走っていた我らがガースー首相もさすがにそうは言わなくなった。周囲を見ればとてもそんなことをいえるはずもなく、
「打ち勝った」
という状況は7月までには到底実現しないことはだけは認識したらしい。
それでも
「やーめた」
とはいわない。なかなかしぶといおじさん、おばさんたちである。
大本の国際オリンピック委員会(IOC)が諸悪の根源だといわれる。
IOCだって組織である。事務所費もかかるし、交通費、交際費も必要だろう。なかでも人件費は相当額に上るはずで、いずれにしてもかなりの収入がなければ運営出来ない。そしてIOCの収入は、大会開催に伴うスポンサー料、放映権料、入場料(ん? これはIOCに行くのかな? それとも開催都市のもの?)などしかない。つまり、大会が開けなければ、無収入に陥ってしまう。
だからだろう。世界に新型コロナウイルスが蔓延する中で、頑なに開催すると言い続けるのは、つまるところ、自分の暮らしを守るためではないのか? そんな観点から見ると、国境を越えての移動に加え、現地、つまり東京での集団生活という感染リスクが極めて高い行動をオリンピックの出場者に求めるのは、国際的なアスリーも、彼らの目には単なる飯の種にしか見えていないのではないか、と思えてくる。
「いや、選手たちにはチャーター機で来日していただく」
という話もあるそうだが、世界をながめれば豊かな国ばかりではない。チャーター機での選手輸送なんてとてもとても、という国もあるはずだ。
アスリートたちに犠牲を強いてまで開催する。いまやアスリートは、IOCの奴隷に貶められたようにも見える。
そうそう、古代ローマで人気を誇った剣闘士たちの命が、実は観衆のための楽しみの種にしか過ぎず、その命なんて誰も気にしなかったのは映画「グラディエーター」を見れば解る。いまや、各国を代表して晴れの舞台に立つオリンピック・アスリートたちは2000年前の剣闘士と同じ位置に置かれているのではないか。参加することに意義があるのではなく、開くことに意義があるオリンピックの正体がなんだか見えてみたような気がする。
オリンピックを飯の種としか見ていないのは、日本のガースー首相も同じらしい。
何が何でもやる、という強気の姿勢は、やれなければ首相の座から追い立てられるという恐怖感に駆られてのもの、というのが最近のメディアの見立てである。確かにガースーさん、首相に就任してからヒットが一つもない。コロナが蔓延し初めての着席だったことには同情もするが、
「コロナ対策を最優先に」
といいながら、やることなすこと当たらない。もういいだろうと経済活性化に舵を切ったGo to キャンペーンは、開始当初から感染者の急増に直面し、早々と息の根を立たれた。最近は、Go to キャンペーンに絡んだ疑惑まで浮上しかかっているらしく、踏んだり蹴ったりである。
治療薬アビガンも、その後
「あまり効かないみたい」
と評価が急落。ワクチンの開発ではアメリカ、イギリスだけでなく、中国、ロシアにまで先を越され、やむなく大量輸入を手がけたものの、なかなか必要量が手に入らない。ワクチン接種体制も目を覆いたくなる惨状で、ここ桐生でも、75歳以上の接種受付を始めたとたんに受付電話がパンクする有様だ。私なんぞの年齢では、当初の知らせで間もなく受付を開始するはずだったのが、どうやら8月、9月にずれ込むらしい。
無論、国産ワクチン問題は歴代政権が研究・開発費を削りに削ってきた付けがここに来て出て来た一面もある。ワクチン種体制は厚生労働省の体たらくが招いたことである。しかし、どのような故事来歴があろうとも、失態が明らかになったときの最高責任者が責任を問われるのは当たり前のことである。それに、厚生労働省の体たらくは、「政治主導」の名の下、官僚の人事権を官邸が握り、官邸にごまをする官僚かりを引き上げてきたことの結果でもある。ガースーさんも、官房長官としてその一翼を担ってきたはずだ。
政争は政権に付き物である。首相に失態が目立ち、国民の支持率も落ちたとなると、うごめき出すのが政治家というものである。ガースー首相もそんな雑音は重々承知のことだろう。
「俺が仕切っている役所」
と自負している総務省から大量の高額接待の不祥事が噴出したのも
「誰かが俺の足を引っ張るために情報を流している!」
と危機感を強める材料になっているのかも知れない。
つまり、どう見ても落ち目のガースー首相が、最後の綱としてしがみついているのが東京オリンピックらしい。コロナにも負けず、立派にオリンピックを開いたぜ! という実績で国民人気を煽り、その勢いで衆議院選挙に打って出て政権の基盤を固めるのだそうな。
だから、オリンピック・アスリートの5人や10人がコロナに感染してもかまうものか、開かねば俺には明日がないのだ、となる。
何のことはない。剣闘士の50人や100人が死のうと気にもせず、
「パンと見世物を」
と叫ぶローマの民衆に娯楽を与えねば、皇帝の座も安泰ではない、と考えたローマ皇帝たちと同じ頭脳構造なのではなかろうか?
ローマでは、こうした皇帝の施政を民衆が歓迎した。
さて、私達はローマの民衆と同じでいいのか? やっぱり何が何でも東京オリンピックを開いてもらいたいと願うのか?
我らがガースーは4月、バイデン大統領と会談すべく、ワシントンに飛んだ。会談後の共同記者会見で
「公衆衛生の専門家も『日本は五輪ができる状態にない』と言っているのに推し進めようとするのは無責任ではないか」
との質問が記者の1人から出たそうである。東京オリンピックの問題だから、ここはバイデン大統領が答える筋合いではない。当然ガースー首相が答えるべきなのだが、彼は無視し、
「じゃ、日本側から」
と勝手に日本人記者を指名したらしい。後にガースー君は
「私への質問だとは思わなかった」
と弁解したそうだが、語るに落ちるとはこの事だ。
嫌な質問は無視する。官房長官時代のガースー君が乱用した手法である。それを国際舞台でもやっちゃうとは、これ、国辱ものではないか? 日本はそんな国、と見下されたら、あんた、責任とるのか?!
東京オリンピックを中止し、ガースー内閣も中止する。事態がそのように進めばよいなあ、と願う。
しかし、願いが叶ったとき、次の首相は誰なんだ? ふむ……。