01.16
年末年始と仕事の話です、の2
私がトヨタ担当になった1981年も秋を迎えた。記憶はすでにおぼろだが、10月だったと思う。東京でモーターショーが開かれた。
トヨタ自動車担当ということは、自動車業界担当ということでもある。自動車各社が製品力を競うモーターショーは必見である。私は上司の許しを得て東京に出張した。
東京までの足は新幹線である。私は名古屋駅の新幹線ホームに歩を進めた。朝日新聞社の規定で、新幹線は指定席しか使えない。もっと偉くなればグリーン車も認められるのかも知れないが、偉くなったことがないので分からない。
待っていた車両が到着し、乗り込もうとした時だった。ホームの一角に、見慣れた記者仲間の群れがあった。
「へえ、たまたま同じ新幹線で行くのか。だけど、なんであんなにみんな一緒なんだ?」
疑問を持った私は、さらに観察を続けた。
「あれ? トヨタ自動車販売の広報マンも一緒だぞ? なんで?」
トヨタの広報マン氏はまるで団体旅行の添乗員である。なんで彼まで一緒なんだろう?
見ていると、その一行はグリーン車に乗り込んだ。ん? グリーン車? 朝日新聞は指定席しか認めないのに、読売新聞も毎日新聞も中日新聞も共同通信もグリーン車での出張を認めるのか?
いやいや、それはないだろう。ということは……。
まあ、いい。東京まではわずか2時間である。指定席もグリーン車も変わりあるものか。
私は指定席に陣取り、いつものように読書を始めた。それから10分もたったろうか。
「大道さん」
と声をかける人がいる。顔を上げると、先ほど添乗員さながらに記者の一団を率いていたあの広報マン氏である。
「ああ、こんにちは。たまたま同じ列車になったんですねえ。偶然ってあるんだなあ」
広報マン氏はぐっと顔を下げた。
「申しわけありませんが、グリーン車に移っていただけませんか? あなたが指定席にいると、ほかの記者の皆さんが気詰まりなようで」
「いや、皆さんと雑談しながら行けるのは楽しいかも知れませんが、朝日新聞は指定席しか認めないのでここでいいですよ」
「いや、それは……。グリーンの料金は当社で負担しますので、なんとかお願いできませんか?」
ああ、やっぱりそういうことか。それなら尚更受け入れられないではないか。しかし、この広報マン氏にはこれからも何かとお世話にならねばならない。ここは丁重に。
「いや、いいですよ。ここ1人本を読みながら行くのもいものですから」
「どうあっても移っていただけませんか?」
「申しわけありません。私は指定席で行きます。東京に着いたらお世話になりますから、よろしくお願いします」
私の説得を諦めて引き上げていく広報マン氏のその時の表情をどう表現したら良かろう。決して
「頑固なヤツだな」
という表情ではなかったことだけは確かである。
いや、私が職業倫理を守る潔癖な記者だったということを書きたいのではない。記者を続けていいれば、取材先に様々な形でお世話になるのは避けられないことである。清濁併せのまねばできない仕事なのだ。
現にその日、私を含めた名古屋からの記者一行は、東京でトヨタ自動車販売に接待を受けた。食事だけでなく、赤坂まで出かけての2次会付きである。私も、決して偉そうなことはいえないのだ。
翌日、私はある広報担当を昼食に誘った。接待を受けっぱなしにするのは記者倫理にもとる。社費で接待してくれる相手に対し、こちらは身銭を切ってご馳走を仕返す。金額から見れば、受けた接待の5分の1、10分の1にすぎないかも知れないが、これだけはやっておかねば胸をはって仕事ができない。
さて、昼食をご馳走する。費用で平等になるのが不可能なら、質でお返ししなければならない。自分の金で払える限度内で、できるだけ美味しいものを食べていただく。それが私のやり方である。
ところが、当時の私は、東京にはまるで不案内だ。名古屋なら多少は店を知っていたが、東京となると何処でうまいものが食えるのか、まるで見当が付かない。うーん、何処に案内しよう?
ふと思い出したのは、以前東京に出張した際、H先輩にご馳走になったインド料理の店である。「デリー」といって、当時は六本木にあった(いまは銀座にある)。東京でうまい物を食べようとなると、私はここしか知らない。
私は広報マン氏を六本木に誘った。六本木交差点でタクシーを降り、溜池方面に向かって坂を下る。
「ここを曲がったところだったよな」
曲がる。ない。目的の「デリー」がない。
「あれ、曲がるところを間違ったみたいでごめんなさい」
スマホがなかった時代である。「デリー」に行き着くのに頼りになるのは記憶だけである。
次の角を曲がった。ない。その次の角も、ない……。
「あのー、ごめんなさい。ここだと思ったんだけど、見付からなくて。何か違う物を食べましょうか」
おずおずと申し出る私に、広報マン氏は同情したのに違いない。
「いいよ、分からないんだったら。そうしたら、コーヒーでもご馳走になろうかな」
こうして我々は、六本木交差点の「アマンド」に入ってコーヒーを注文したのであった。
それだけなら、記者としての職業倫理を守ろうとした私の失敗単に過ぎない。ところが、である。私のトヨタ合併話の取材は、この「アマンド」から始まったのだ。
「ねえ、大ちゃん」
テーブルをはさんでコーヒーを飲む広報マン氏が言い出した。彼は私を「大ちゃん」と呼び習わしていた。
「自工と自販の合併話、どう思う?」
前回も書いたが、両社の合併が何かと取り沙汰されていた時期である。他社の記者は合併のスクープに向けて取材を続けているのだろう。取材を受ける広報マンとしてやはり気になるのか。
「いや、全く無関心です。だって、前任のS先輩は『絶対にない』って断言して東京に行ったので、僕は安心してます」
「ああ、そう。だけどね」
広報マン氏はグッと体を乗り出した。
「いいのかなあ。トヨタの中にいると、あるんじゃないかなあ、という空気を感じるのよ」
「えっ、そんな……」
「ねえ大ちゃん、Sさんがどういったかは知らないけど、取材してみない? 私ねえ、どうせどこかにスクープされるんなら大ちゃんにスクープして欲しいのよ。朝日さんに最初に書いて欲しいんだ」
広報マンとしてはあるまじき発言である。きっと彼は、私のことが大好きだったのだ、と思いたいが、多分違う。
広報とは、自分の会社の社会的イメージを高めるのが仕事である。広報部内では様々な広報戦略が練られているのに違いない。本当かどうか知らないが、かつて松下電器(いまのパナソニック)の広報セクションは、松下電器の記事の面積を毎日計測していたという。そして、その面積を金銭に換算し、毎年の売り上げ目標を立てる。多分、1㎠あたりの単価があり、それに面積をかけて出して
「今年度は売り上げ目標を達成しました」
「目標まであと2億だ。全力を挙げて我が社の記事を売り込め」
なんてことが繰り返されていたのだろう。1㎠あたりの単価が、朝日と読売、毎日、日経など媒体で違っていたかどうかは、私の聞いた話荷には含まれていなかった。
念の為に繰り返すが、以上は私が聞いた話に過ぎない。いかにもありそうだとは思うが、真偽の程は不明である。広報という仕事の一面をご理解いただくため、あえて字にしたものである。
多分「アマンド」で私に合併取材を勧めた広報マン氏も、ある種の広報戦略で
「日経でも中日でもなく、朝日新聞に先に出るのが好ましい」
と考えたのに違いない。ふむ、トヨタの広報戦略ねえ。
しかし、私にとっては驚天動地の話であった。絶対にないと信じていた自工、自販の合併があるって? だとすれば、他社は1年以上前から綿密な取材続けているのに違いない。それに比べ、私はまだ走り出してもいない。どうすればいい?
呆然としてる私に向かって、広報マン氏はいった。
「大ちゃんが取材を始めるのなら、私は全力で協力する。約束するからやってみなさいよ」
こうなれば、否応無しである。ここまでの話を聞きながら、
「合併なんて絶対にない」
と信じる脳天気を続けることはできない。だけど、この取材競争に勝てるか? 勝てるとは思えないけどなあ……。
激しく動き出した弱気の虫を体内に抱えながら、私はおずおずと走り出したのだった。