2022
01.19

年末年始と仕事の話です、の5

らかす日誌

前回、私が招き入れられたのはガラス張りのテラスハウスだと書いた。しかし、いま思えば、ガラス張りのサンルームという表現が適切だったと思う。
いずれにしても、外は年末の寒気に包まれているにもかかわらず、中はガラス越しに日が降り注いで暖かかった。

「君、朝飯は食ったのかね」

「ええ、こちらに来る車の中で握り飯を食べました」

「そうか。でも若いんだから、少しなら俺に付き合えるよな」

間もなく、新鮮な野菜サラダと食パンが運ばれてきた。これが、私の最後の頼みの綱の朝食らしい。案外質素である。お腹はすいていないが付き合わねばなるまい。
塩味がほとんどしないサラダだった。塩分を極力減らす。高齢者食の常識である(にしては、私はいまだに塩分制限をしていないが)。私には物足りなかった。

2人で食べ始めると、最後の頼みの綱の口が開いた。

「ところで、何の用かね」

この日所で会話は自然と進む。

「はい、こんなに押し詰まって私が来るのですから、おわかりでしょう?

ダイレクトな会話はしない。私はインテリジェンスの持ち主だ!

「ああ、あれか」

察してくれたようである。私の最後の頼みの綱も優れた知性の持ち主である。

「あれならなあ、分かれているメリットがなくなったな」

えっ! 思わず我が耳を疑った。分かれているメリットがなくなった? 分離しているメリットがあるから分かれているとは、金太郎飴諸氏の常套句あった。それが、分かれているメリットがなくなった、と! これは合併することを認める一言ではないか!!
思わず絶句してしまったのは、私の若さゆえだったろうか。いま、私は、聞けるはずがないと思い込んでいた一言を聞くことができたのである。トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併する!!!

気を取り直さねばならない。次の質問を発して、いま聞いたばかりの話を固めなければならない。

「そうなんですか。では、合併期日はいつですか?」

「決まってない」

「合併後の会社の名前は?」

「決まってない」

「誰が社長になるんですか? 章一郎さん?」

「決めてない」

「合併後の本社所在地は、豊田市ですか、それとも名古屋市?」

「それも含めて、細かなことは何も決まっていないんだ」

さて、合併取材で他に聞くことがあったろうか? 何しろ、合併の取材をするなんて生まれて初めてである。何を質問したらいいのか、私の中ではネタが尽きてしまった。いま思えば、合併比率、合併後の戦略、合併することによるメリット、分かれていることのメリットは何故消えたのか、逆に合併することのメリットは、などいくつもの問を思いつくのだが、当時の私には無理な話だった。当時の私の頭は、その程度の熟成度だったらしい。

しかし、両社が合併することだけは確認できた。私の手には、いま最大級のスクープがある!

出していただいたサラダと食パン、それに牛乳(だったと思う)を大急ぎで飲み下すと、私は挨拶もそこそこに待たせていたハイヤーに飛び込んだ。向かうのは宿舎である妻女殿の実家である。

帰り着いたのは8時前だった。まだ朝日新聞には誰も出社していない時間である。私は、東京行きを願い出たデスクの自宅に電話した。

「おう、どうした、こんなに朝早く」

「あ、お休み中でしたか。申しわけありません。でも、大変なんです。取れたんです、確認が。トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併します。確実な話を聞くことが出来ました」

「何、本当か、大道。うん、直ぐ帰ってこい。俺もできるだけ早く会社に行ってるわ」

その足で東京駅に駆けつけ、一番早い新幹線で名古屋に戻ったのはいうまでもない。

「おう、大道。ご苦労さん。で、どんな話だった?」

私は、最後の頼みの綱から聞いた話をそのまま伝えた。

「うん、それだったら間違いないな。よし、原稿にしろ」

「えっ、原稿にしろって……。合併の原稿ってどう書けばいいんですか?

文章を書く。それは慣れの問題である。私が朝日新聞で最初に書いた記事は交通事故だった。確か6ヶ月の重症、という中身で、たかだか20行足らずの短いものだ。
初めて書く新聞記事。力を入れたのはいうまでもない。よし、これでいい、と判断した私は支局のデスク(最初に配属されたのは、三重県津市の支局で会った)に提出した。
デスクは難しい顔をして私の原稿に青ペンを入れ始めた。原稿を修正する時に青ペン(確か、青のフェルトペンだった。それとも青鉛筆だったか?)を使うのは朝日新聞の習いである。

「こんな所でいいか」

原稿が私の手元に戻ってきた。直した原稿を記者に戻して読ませるのは、データの最終確認とともに、記者に完成原稿を読ませて原稿の書き方を教え込む狙いもあるのだろう。
戻ってきた原稿を見て唖然とした。ほとんどが青インクで消し去られ、デスクの書いた文章と置き換わっている。残っているのは、発生日時と場所、事故を起こした人の名前、住所、年齢程度である。つまり、ここのデータしか残っていない。データを繋ぎあわせる文章は一切残っていない!
記者経験者がそこそこの文章を書けるのは、こうした屈辱の体験を繰り返すうち、知らず知らずに文章の基本的なパターンを覚えるからだろう。

私は入社4年半で経済担当記者になった。経済記事は、支局で書く記事とは取り扱う中身が違うため、文章のパターンにも違いが出る。経済部員になった当初は戸惑ったが、それでも原稿を書くうちに、いつの間にか新しいパターンをのみ込んでいった。いっぱしの経済記事を書けると思い込んでいた。
だが、合併の記事なんて書いたことがない。合併記事の文章パターンは私の中にないのである。だから、思わず出た一言が

「どう書けばいいんですか?」

だったのだ。相手は、記者歴は私よりずっと長く、記者の原稿を手直しする権限を持つデスクである。ここで指導を仰ぐのは当然である。
だが、デスクの口から出たのは思いも寄らない言葉だった。

「あ、合併記事? そうだな、どう書きゃいいのかな? 俺にも分からんわ。ウーン、どうする? そうだ、昭和40年代の半ばに八幡製鐵と富士製鐵が合併して新日鉄ができたんだ。調査部(新聞の過去の記事をスクラップしてテーマ別に整理しているセクション)に行ってあの時の記事を持ってこい。あの時は朝日は抜かれたんだよな。そういえば、朝日新聞で合併を抜いたなんてことはなかったんじゃないか? とにかく、行ってこい!」

このデスクありてこの記者あり、とまではいうまい。分からないことは誰にでもあるのである。私が分からないことを、たまたまデスクが分からなかったとしても何の問題があろうか。

私が持ってきた切り抜きを見て、デスクはいった。

「おう、そうか、合併の記事にはこんなデータがいるのか。だけど、合併期日も、合併後の社長も社名も何も分からないんだよなあ。分かっているのは『合併する』ということだけか。うーん」

こんなすったもんだの末、何とか100行あまりの記事が出来上がった。

「おい、大道。こうなると両社の社長コメントがいるな。いまから取ってこい」

「いや、これまでの記者会見からすると、合併するなんてコメントは出て来るはずはありませんが」

「それでもいい。合併記事には両社の社長コメントがどうしてもいるんだ。行け!」

トヨタ自動車工業の社長は当時、豊田英二氏。自宅を訪ねた。玄関を出て来た英二氏は、自宅前の田んぼに私を誘い、

「どうしたんだね」

と私に問いかけた。

「実は、自工と自販が合併に踏み切るという確証を得ましたので記事にします。ついては、自工社長としてのコメントがいただきたいのですが」

「ん? 合併か。いまは考えてないなあ

名古屋市八事の章一郎氏宅も襲った。

「合併ですって? いまは考えていませんよ

両氏ともに、想像通りのコメントである。
結果を見れば、両社は1982年7月1日に合併した。つまり、私がコメントを求めた時、この方針はすでに決まっていたはずである。それなのに、私に向かって

「いまは考えていない」

と口にした2人の心の内はどんなものだったのだろう?
ま、

「考えてない」

のではなく、

「いまは考えていない」

なのだから、

「明日は考えるかも知れない」

ということではある。私は、

「いまは」

という言葉に、お2人の、嘘はつかない正直さを感じている。

2人のコメントは、先に書き上げた原稿に付け加わった。本文は

「合併する」

と断定しながら、両社の社長は

「いまは考えていない」

と否定するコメントを出している不思議な記事が出来上がったのは確か、12月28日ではなかったか。

「私のスクープ記事が明日の朝刊に載る!」

私は浮き立った。