2022
01.21

年末年始と仕事の話です、の6

らかす日誌

12月28日に記事が完成したのだから、普通なら12月29日の朝刊に掲載されるはずである。ところが、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併へ、という記事が紙面を飾ったのは12月31日だった。これには訳がある。

トヨタの工・販が合併する。これはすこぶる付きの大ニュースである。掲載される場所は1面トップしかありえない。1面トップとは、その日報じる記事の中のNo.1、これぞ本日のお勧め、という記事が占める場所である。

12月28日、デスクは東京本社と打ち合わせを始めた。このニュースを1面トップに持って行けるかどうかの相談である。

「えっ、ああそうか、今日はそれがあるのか」

なんだか怪しい雲行きである。

「おい、大道、1日待てるか。今日は予算の大蔵原案があるんだって。無理に載せたら、1面には行くだろうが、トップは難しい。原稿もかなり削られるだろう。どうする?」

翌年度の国の予算の原案となるのが、当時の大蔵省が各省庁と丁々発止の駆け引きを繰り返してまとめる大蔵原案である。毎年この時期になれば必ず出てくるものだが、何故か新聞各紙はこれを1面トップで報じ、政治面や経済面、特集面で詳しく解説するのがならいだった。予算原案を報じることにどれだけの意味があるのか、毎年繰り返されることなのに、1面トップの価値があるのか。そもそも、そんな記事を読む読者がどれだけいる? 疑問は数多い。
しかし、個人も組織も、長年繰り返してきた習慣を変えようとは、なかなかしないものである。役所の前例踏襲主義を批判するメディアも、実は己が前例踏襲主義に陥っている。

とは思うが、私の力では何ともすることはできない。

「はあ、他紙は今日まで書いてないのだから取材できていないのでしょう。大丈夫だと思いますよ」

こうして、私の記事の掲載は1日見送られた。29日朝刊は逃したが、30日朝刊には載るはずだ。私はそう思っていた。

「おい、大道。今日も1面トップが埋まってるんだっていってきたぞ」

29日夕、デスクは私にそう伝えてきた。

「どうしたんですか?」

「うん、ビデオの8㎜規格がまとまったのを数値が特ダネで出すんだって。ところが他社もかなり取材を進めていて、今日組みでやらないと特ダネにならない恐れがあるというんだ。どうだ、もう1日待てるか?」

全く何という回り合わせであろう。せっかくスクープらしいスクープをものにしたのに、紙面掲載を引き伸ばされるとはどういうことだ? 8㎜ビデオの規格? トヨタ工・販の合併ほどの意味があるのか? そもそも、今日組まなければ他社に追い付かれるとは本当か? 自分が書いた記事を先に出したいために、その記者が口から出任せをいってるんじゃないか?
気持ちは煮えくりかえった。しかし、これも私の力では何ともできない。

だから、私はこう答えた。

「多分大丈夫だと思います。でも、明日30日は必ず組み込んで31日朝刊に出るようにして下さい。あと1日遅れると1月1日の朝刊になります。そうなると、きっとどこかが、確証は取れないままの見通し原稿を打ってくると思います。中身ではコンファームできた私の完勝ですが、形としては並ばれたようになってしまう。それは嫌です。だから、明日組みを約束してくれるのなら、はい、1似ちまっても大丈夫だと思います」

こうして私のスクープは、1981年12月31日、大晦日の朝日新聞1面を飾った。名古屋本社で発行する新聞は、勿論1面トップである。確か、九州も大阪も、1面トップだったと思う。だが、東京本社の紙面は違った。1面の中程に4段見出しで掲載されたのである。

バカヤロー、こんな超弩級のニュースが、なぜ1面トップじゃないんだ! 東京はどうかしてる。まっとうな価値判断能力に欠ける。どうなってるんだ、朝日新聞東京本社は!
頭にきた、という言い方がその日の私には最もピッタリくる。が、時間とはたいしたもので、いまではそれほど怒っているわけではない。冷静な頭で考えると、いけなかったのは両者社長のコメントではなかったか、と思えてきたのだ。本文では

「合併する」

と断言しながら、両社所長はそろって

「いまは考えていない」

とコメントしている。1面の編集者は

「おい、何だこのニュースは? 合併するのかしないのか、はっきりしろよ」

と考えたのに違いない。はっきりしない以上、1面トップにはできない。しかし、ことの重要性を考えて1面には出しておく。
と編集者が考えたとすれば、そちらの方がまっとうな判断である。つまり、東京で確証をとってきた私に、両社社長のコメントを取らせ、取ってきた確証とは正反対のコメントであるにもかかわらず記事に組み込んだ、名古屋本社のデスクの判断ミスである。

かくして、トヨタ工・販合併の記事は、1981年12月31日の朝日新聞1面を飾った。
1年は365日。休刊日もあるから、新聞の1面トップは、1年間に350ほどの記事しかない。当時、朝日新聞には3000人ほどの記者がいた。3000人が1面トップの記事を書きたいと取材を重ねるのだが、350本の1面トップの記事がすべて違う記者の書いたものだったとしても、1面トップを書けるのは10人に1人の狭き門である。
加えて、ニュースによっては何が何でも1面トップに据えざるを得ないものがある。3.11の大災害は、抜いた抜かれたの問題ではない。そんなことを抜きにして1面トップに据えなければならないニュースである。
それに、先に書いた予算の大蔵原案も、何故か各紙1面トップに置く。そんなものを除けば、スクープで1面トップを飾るのニュースは数えるほどしかない。それこそ、10人に1人どころではない。記者として、持って瞑すべき名誉なのである。

と考えれば、まあ、そこそこの仕事したなあとは思う。そこそこの仕事をしても、その後の待遇にはあまり関係がないのだなあ、と思い知ったのは後日のことになる。

というわけで、私の超弩級のニュースについては語り終えた。だが、語り終えたところから、タイトルの

「年末年始と仕事の話です」

が始まる。さて、1981年の年○から1982年の年始に書けて何が起きたのか。話はいよいよ佳境に入るのである。