01.21
年末年始と仕事の話です、の7
やっと私の原稿が組み込まれることになった1981年12月30日、私は約束があった。麻雀である。
「30日の夜に、ちょっと囲みませんか」
と誘ったのは、トヨタ自動車の、記憶によると販売の広報の面々だった。
私が麻雀を覚えたのは朝日新聞に入ってからである。学生時代はアルバイトと読書に忙しく、麻雀如きに割く時間はなかった。もともと賭け事がそれほど好きでなかったのも麻雀に手を染めなかった理由の一つである。
そんな私に、津支局の先輩が
「記者必須のゲーム」
として麻雀を教え込んだ。待ちには雀荘が建ち並んでいたことからも分かるように(いまでも雀荘ってあるのかな)、やり始めれば面白くないことはない。とうとう点数の数え方までは覚えなかったが、牌を並べる程度のことは出来るようになっていた。
取材先の広報からの誘いは受けねばならない。
そして、誘われたのは私だけではなかった。何を考えたのか、日本経済新聞のトヨタ担当記者もその席に連なったのである。
その日、トヨタの広報には
「明日31日の朝刊に工・販合併の記事が載る」
と通告してあった。朝日新聞に
「トヨタ工・販、合併へ」
という文字が躍れば、広報の方々は他社からの取材への対応に追われることになる。突然喧噪の中に放り込まれるより、事前に心の準備をしておいた方が助かるだろうと思ってのことである。取材先に掲載前の原稿を見せないのは記者のイロハだが、この程度の心配りはする。
だが、麻雀卓を一緒に囲む日経の記者が、翌朝の朝日新聞に、工・販合併の記事が出ることを知るはずはない。つまり、雀卓を囲む4人の中で、翌朝起きることを知らないのは日経の記者だけなのだった。
「ああ、何も知らずに私とチー、ポンとやりとりして、なんだか気の毒だな」
とは思うが、教えてやるわけにはいかない。それが記者という仕事である。その日、私が勝ったのか負けたのか、日経の記者が勝ったのか負けたのか、は記憶にない。親善のための麻雀だからレートは低く、勝っても負けてもそれほど財布に響かないこともあるだろう。しかし、目は目前の麻雀パイを追いながら、頭では
「やっと明日出るぞ」
とワクワクしながら、一方で
「この日経の記者、明日の朝はどんな顔をするんだろう」
とやや同情めいた思いも抱いていたからではないか。
もっとも、勝った負けたは勝負の常である。工・販合併では私が勝っても、いつ復讐されて私が青くなる側になるか、解ったものではない。現にそれから3ヶ月後、私は
「トヨタ、GM提携へ」
という、これも超弩級のニュースを日経にすっぱ抜かれ、早朝6時半に真っ青になってしまうのだが、これはまた別の話である。ただ、このニュースは雀卓をともに囲んだ日経の記者が書いたのではなく、東京の日経記者が書いたと後に知った。雀卓で一緒だった日経記者は、とうとう私に復讐できなかったようである。
翌朝、私は妻女殿、3人の子供たちを、当時の愛車、フォルクスワーゲン・ビートルに詰め込むと、東名高速を東に走った。正月を妻女殿の実家で過ごすためである。私の大スクープが掲載された朝刊を携えたのはいうまでもない。久々に、仕事を忘れて過ごす年末年始であった。さてこれで、私の年末は終わった。
明けて1982年1月。仕事始めは4日だった。念の為に、1月1日以降の他社の新聞に目を通す。工・販合併を書いている新聞は1紙もない。私の記事を見て取材に走らなかったはずはない。大ニュースを抜かれたら、盆だろうが正月だろうが、取材先の迷惑顔に気を配りもせず、取材に駆けつけるのが新聞記者の習い性である。今回は、たまたま私はその難を逃れただけだ。
しかし、あの日経記者を含めて他社の記者は大変だったろう。年末も年始もなく、悔しさをバネに飛び回ったはずだ。ただ、どこも確認を取れなかったようである。
そして数日ぶりに、他社の記者たちと顔を合わせた。日頃仲の良い毎日新聞の記者が寄ってきた。
「大ちゃん、やられたわ。俺さあ、工・販合併は絶対に取材できないと見切りをつけて30日に横浜に帰っていたのよ。そしたら31日の朝刊だろ。泡食って名古屋に引き返したんだわ。いや、ホントにやられた。この恨み、晴らさでおくものか、ってか?」
最後の部分は、多分彼のジョークである。幾分か本音が含まれていたかも知れないが……。
松が明けるか明けない頃、トヨタ自動車工業会長だった花井正八会長を音羽町(いまは豊川市)の自宅に訪ねた。勿論夜のことである。
応接間に上げてもらい、年賀の挨拶とともに、私の書いた記事についてお礼を述べた。
「おかげまで工・販合併の記事を書くことができました。ありがとうございました」
といっても、最終確認をしてくれたのは花井会長ではない。この方は、何度問いただしても
「いまは考えてない」
という答を繰り返した金太郎飴の一員である。お礼を述べたのは社交上のことに過ぎない。
花井会長はいった。
「記事は読ませてもらった。君は、あんな記事を書いて嬉しいかね?」
「まあ、私も記者ですから、はい、嬉しいですね」
「私たちは困っている。非常に迷惑している。なんであんな記事を書いたんだ?」
「記者ですから、追っかけていたニュースの確認が取れれば記事にします。記事にも書きましたが『分かれているメリットがなくなった』という話をして下さった方がいらっしゃったので踏み切りました。それとも、私の書いた記事のどこかが間違っていましたか? 間違った所があったらおっしゃって下さい。次の記事で訂正します」
「ほう、新聞記者というのはそんな言い方で取材するのかね。そんな話ができるわけはないだろう!」
なかばけんか腰のやりとりだった。どうしてあんな言い方をされなくてはいけないのだろう。そんな思いを引きずりながら名古屋に戻った。
その後、記憶によると1月18日に地元の中日新聞が工・販合併を報じた。
トヨタ両社が記者会見を開き、
「合併します」
と発表したのは1月25日のことである。トヨタ担当記者仲間の年末年始が、この日終わった。
一つだけ腑に落ちない事件が、しばらくして起きた。週刊現代に掲載された工・販合併の記事である。
その記事は、工・販合併を他に先駆けて報じたのは1月18日の中日新聞だと書いた。おい、ちょっと待て。講談社は、週刊現代編集部は、この記事を書いた記者は、朝日新聞を取ってないのか? 読んでないのか? 12月31日の朝日新聞は配達されなかった?
読んだ瞬間は頭にきた。編集部に私の記事のコピーを同封した抗議文を送りつけようかとも考えた。が、それは瞬時のことである。まあ、いい。週刊現代とは、その程度の取材で記事をまとめるメディアだと思っておけばいいじゃないか。
結局私は、この誤報については何もせずに今日に至っている。そして、取材の経緯をこれほど詳細に表現したのも、これが初めてのことである。