2022
01.22

年末年始と仕事の話です、の番外編

らかす日誌

「年末年始と仕事の話です」と称して、私とトヨタ自動車にまつわる事を書いてきた。年末年始に新聞記者というものが何をしているかの一例をご紹介するように筆を進めたつもりだが、もし自慢話めいた臭いを嗅ぎ取られた方がいらっしゃったとしたら、筆の至らなさをお詫び申し上げる。年末年始という時にかかわらず、情報乞食とも呼ばれる新聞記者は、年末年始にも心はなかなか安まらないのである。

さて、ということでトヨタ自動車と私の関わり合いを書いたついでに、もう少しトヨタ自動車との付き合いで知ったことを書いてみたい。

取材記者と広報担当者。取材する側とされる側。立場は異なり、時には対立せざるを得ないことも生じるが、それでも胸襟を開いて付き合っていればお互いに心を許しあい、

「えっ、そんなことを私に言っていいの?!」

と驚くような話も飛び出す。

「不思議なことに、会社によって記者さんも違うんですね」

と話したのは、あるトヨタ広報マンだった。

「どうしました?」

と問い返すと、

「いえねえ、記者さんによって取材先企業との間の取り方が違うんですよ」

何のことだろう?

「私たちは仕事として、記者さんと夜のお付き合いをします。広報予算で皆さんにご馳走するわけですが、こちらがご馳走すると、必ずご馳走し返してくる記者さんと、ご馳走されっぱなしの記者さんがいらっしゃるんです。それも、会社によってきっちりと分かれているのが不思議なんです」

「へえ、そうなんですか」

「きっちりと返してくるのは、大道さん、あなたを含めた朝日の記者さんと、あとは日経の記者さんぐらい。あとはご馳走のしっぱなしなんですよ」

へえ、世の中はそういうものなのか。私は先輩から、ご馳走されたら、少なくとも3回に1回はご馳走し返せ、と教わった。そうしなければ取材先と対等な付き合いができないと思う私は、当然のこととして実行しているだけである。

私が入社する少し前まで、新入社員の研修で必ず出て来る話があったそうだ。

「君たちね、記者として取材していれば、取材先から誘われてご馳走になることが必ず出てくる。昼間とは席を変えて君と交流しようとしてくれるのだから必ず付き合いなさい。昼間では聞けない話もそんな席では出るものだ。だけどね、ご馳走されたら必ずご馳走し返しなさい。朝日新聞に交際費はないが、ご馳走し返すことができる程度の給料は、朝日新聞は君たちに渡す」

なるほど、という話である。この話をしてくれた先輩は、

「だけどな」

とつけ加えた。

「いまでも、趣旨だけは同じ話が繰り返されているそうだが、最近は一番最後の部分がなくなったんだよな」

一番最後の部分は

「朝日新聞に交際費はないが、ご馳走し返すことができる程度の給料は、朝日新聞は君たちに渡す」

である。何となく納得した。だから私の財布はいつも軽かったのか。悪い時代に記者になったものである。
しかし、胸をはって

「私は朝日の記者である」

と口にするための費用をケチるようでは、記者の名刺を返上した方がよろしい。

それにしても、記事の内容から取材先との癒着を疑われる事が多い日経の記者が、きっちりとご馳走し返す組だとは意外だった。疑われやすい立場にあるから、人一倍気を使うということか。
でも、である。ご馳走になりっぱなしとは、癒着の別命でもある。2社以外の記者たちは、何を思っているのだろう?

広報部というセクションのものの考え方の一例は、「年末年始と仕事の話です、の2」で松下電器を例にとって述べた。トヨタ自動車に別の例を求めると、こんな話になる。

「私たちはね」

と語ってくれたのは、やはりトヨタの広報マン氏である。

「記者さんたちのランク付けをしていまして」

というのである。
記憶によれば、当時のトヨタ自動車は朝日、毎日、読売、日経をランクAとして一番上に置いていた。ランクB以下がどう分けられているのかは聞かなかった。
しかし、ランク付けをしてどう使うのか?

「例えば、ですね。私が大道さんとバーで飲んでいるとする。そこに同じAランクの日経さんが入ってきたら、軽く目と目で会釈をしておしまいです。私はずっと大道さんと同席します

なるほど、付き合いとはそういうものだろう。場合によっては、日経さんを交えて飲むことになるかも知れない。

「でもランクB以下の記者さんが来たら、私はあなたに断った上で、しばらく彼の席に行きます。2,30分話したら貴方のところに戻ってきます」

日経の時は席を離れずに、ランクB 筏と席を立つ。どうして?

「その記者は、私が朝日さんとの席を立って自分の所に来てくれたといって、喜びます。まあ、自尊心を満足させるともいえます。大道さんは、向こうが日経さんだったらメンツを傷つけられたと思うかも知れませんが、Bランク以下なら全く気にしないはずです。それで三方丸く収まるというわけです」

私は、入ってきた記者が何処だろうと、一緒に飲んでいた広報マンが席を立とうと立つまいと、一向に気にならない。席を立たないのは私との話が続いているからだろうし、席を立つのは、きっとその相手に何かいっておかねばならないことがあったのだと思う。だから、私に関する限り、この広報マン氏のノウハウは全く役に立たない。
が、広報というセクションではこの手のメディア戦略が、あの手この手と練られているのだろう。

ともすれば新聞記者は、自分は一方的に相手の品定めをする立場にいると思いがちだ。しかし、こちらが品定めするのと同じように、相手はまずは所属メディアでA、B、Cなどとランクわけし、その上でじっくりと個人別の品定めをしているていることを忘れてはならないのである。

いや、別に

「広報とはとんでもない仕事だ」

といいたいわけではない。いい仕事をしようと思えば、それぞれの立場によって工夫を重ね、システムを組み上げるはずである。車外に向けた窓ともいえる広報とはそのような仕事なのである。

私は1982年4月、東京経済部に転勤した。トヨタ担当はわずか8ヶ月という短い期間だった。この間、工・販合併をスクープし、トヨタ—GM(ゼネラル・モータース)提携の記事を日経に抜かれた。わずか8ヶ月にしては、大きな出来事に恵まれた。
トヨタ担当を離れて東京勤務となったから、トヨタ自動車との縁は切れたと思っていた。しかし、世の中とは面白い。違った形で、再びトヨタを担当することになるのである。
豊田章一郎氏が経団連の会長になった。それを追うように、私は財界担当になった。再びトヨタ自動車と付き合うことになった。

その間、章一郎・経団連会長の話を痛烈に批判した記事も書いた。確か、経団連として経済的な規制の緩和を求めながら、自動車の車検については

「安全のために必要な規制」

といった章一郎さんに

「二枚舌(という言葉を使ったかどうかは忘れたが)ではないか」

と噛みついたのである。

しかし、

「ああ、トヨタ自動車とは、豊田章一郎とは凄いなあ」

と感心したことがあった。

どこだか忘れたが、大きな会社で不祥事が起きた。不祥事の中身も、申し訳ないが記憶にない。
その直後、財界団体のトップが勢揃いして記者会見する場があった。その場で、財界団体トップとしてこの不祥事をどう受け止めているのか、再発防止策はあるか、という質問が当然のように出た。居並ぶ財界首脳全員に答を求めた。
他の首脳たちの解答は全く頭に残っていない。だが、章一郎氏の話だけは明瞭に記憶にこびりついている。

「トヨタ自動車では、ラインオフした車の検査はしません。ラインオフした車を点検して不良品を取り除く所もあるやに聞きますが、トヨタの場合は生産ラインを離れた車はそのままお客様に渡せる品質に仕上がっています。生産ラインの各段階で、その段階が終わったら必ず県債をして問題がない車両だけを次の工程に送るから、不良品がラインオフすることはありえないのです。企業内の不祥事も同じではないでしょうか? 不良品がラインオフしないシステムを作り上げるのと同じで、起きた不祥事をもとに再発防止策を練るのではなく、不祥事が起きない、起きえない社内体制を作ることが必要だと思います」

この話に、私は脱帽した。脱帽したから、この章一郎氏の話を記事にまとめた。

翌日、

「あの記事、ありがとうございました。他はどこも章一郎会長の話に反応したところはありません。トヨタ自動車の事をよく理解しているあなただから、会長の話を理解していただけたんだと感謝しています」

という電話を広報マン氏からもらった。
これは、私とトヨタ自動車の癒着だったろうか? 章一郎さんの話、その裏付けとなるトヨタ自動車で日々行われていること(それがなければ、こんな話はできないでしょう)の持つ意味の大きさに脱帽したから記事にしたに過ぎないのだが。

私は、トヨタの作る車は嫌いである。何となく決まらないドラポジ、思った通りにふけ上がらないエンジン、違和感のある足回り。だから乗りたくないから、乗らない。誰かにプレゼントされても、きっと誰かに譲ってしまう。
その私が書いた記事だから、癒着ではありえないと思うのだが、いかがだろう?