04.30
映画についてのあれこれ。
あなた、映画のドライブシーンを見ていて、
「???」
と思ったことはありませんか? 私はよくあります。
自動車が発明されて以降の時代を背景にした映画には必ず自動車が登場します。人が移動しなければドラマは始まりませんから、お約束のようなものです。
「よくこんな古い車があったものだ」
といいたくなるクラシックカーも結構登場し、昨夜見た映画には古いマゼラッティ、メルセデス・ベンツ、ロールス・ロイスなど見ることができました。ベンツ、ロールス・ロイスはあのエンブレムですぐに見分けがついたのですが、マゼラッティのエンブレムはうろ覚えで、
「見たような気がするが……」
と欧州車のエンブレムをネットで検索してやっと
「へえ、マゼラッティって、こんなに低く、幅の広いスポーツカーを作ってたんだ」
と納得した次第です。
ま、それはそれとして、車が出てくれば、必ず車を運転するシーンが出て来ます。ドライバーが大写しになるシーンは、ほとんどが大きなスクリーンに、恐らく車から撮影した街の風景を写しながら、その前にセットした車のドンガラで俳優さんが演じているんだな、と分かります。俳優さんと背景の街の風景の解像度が違うからです。
分からないのは、その時の動作なのです。ほとんどの場合、ドライバーは両手で持ったハンドルを細かく左右に動かし続けます。それを目にすると、私は
「???」
となるのです。
車がカーブに差し掛かったのなら、ハンドルを切るのは当たり前です。ところが、いま目の前で見ている車は直線道路を走っています。それなのに、ドライバーはハンドルを左右に動かし続けます。
ねえ、直線道路を走るときに、貴方はハンドルを左右に動かし続けますか? もちろん、ハンドルにはある幅の遊びがありますから、細かく左右に動かしても、車の進路が変わることはほとんどありません。でも、直線道路を走るときは、ハンドルは動かさないのが普通ではないですか? 例えカーブに来たとしても、ハンドルを少しだけその方向に回すのが当たり前で、左右に細かく動かすことはないでしょう?
何の必要があって、ハンドルを細かく左右に動かし続けなければならないのでしょう? 前輪の調整が狂っていて、ハンドルを固定していると車が右左に細かく方向を変えてしまうから、ハンドルを動かし続けて直線を保っているのでしょうか? でも、ベンツやロールス・ロイスを、その程度の整備もせずに運転することってあり得ますか?
だから、そんなシーンに出会う度に、
「この俳優さんは、自分で車を運転したことがないのだろうか?」
「この映画を撮った監督さんは、自分で車を運転したことがないのだろうか?」
「この映画に関わったスタッフたちは、自分で車を運転したことがないのだろうか?」
という疑問に駆られてしまいます。自分で運転したことがあれば、あの動作の不自然さはすぐにわかると思うのです。
映画が作り物であることは重々承知しておりますが、それでもこんな不自然な動作を見せられると、
「もう少し細部にまで気を使ってよ」
といいたくなる私であります。
そんなことを書きたくなったのは、いま、自分で書いた「シネマらかす」を読み返しているからです。普通、自分で書いた原稿は排泄物と同じで2度と見たくないものなのですが、何となく読み始めたらそれなりに面白く、加えて、小さな間違いが目に着くものですから、その修正もしなければ、と読み続けております。
その作業が今日、たまたま「皇帝のいない八月」まで進んだのです。この映画を、私は
「あきれてしまった映画」
と罵っておりますが、まあ、それはさておき、その罵りたくなった要因を、映画の冒頭2分間について列挙しています。どれもこれも、映画制作者の怠慢というか、杜撰さというか、とにかく、細部に神経が行き届いていない事実に私はあきれかえっているのです。その部分を読み返しながら、
「そういえば、無神経さはこの映画に限らないな」
と思いつき、ドライブシーンの不可思議な動作に思いが及んだのでありました。
新聞記事は
「神は細部に宿る」
と教わってきました。細部とは記事を構成する一つ一つの事実のことでしょう。お前は取材に力を尽くし、この記事を構成する事実をどれほど幅広く集めたか、その一つ一つについて裏付けはきちんと取ったのか、その事実を組み合わせる論理構成に誤りはないか、その事実を、読者の関心を最大限に惹きつけられるように構成したか。そんなことをいうのでしょう。
記者時代、細部には気を使ったつもりではありますが、さて、神が宿る記事をどれだけ書けたかとなると、穴があれば入りたい気分になる私ではありますが。
とにかく、記事を構成する事実に1つでも誤りがあれば、その記事は誤報となってしまいます。説得力を持つはずはなく、逆に不信を招きます。従軍慰安婦問題はそこから発生しました。
という前職からでしょうか、ハンドルを細かく左右に動かすシーンに出くわす度に、何となく力が抜ける私なのであります。
私の映画の整理作業、やっと外国映画を個人で分類したところに行き着きました。アラン・ドロン、アル・パチーノ、アンソニー・ホプキンス、ウディ・アレン……と続きますが、いまはやっとアラン・ドロンを手がけたところです。
「太陽がいっぱい」は、やっぱり最上級のサスペンスでした。「地下室のメロディ」もなかなかよろしい。「冒険者たち」は、最後にアラン・ドロンは死んじゃいますが、それでもさわやかな青春群像を描いた秀作だと思います。
でも、こう並べていくと、俳優という仕事も運に恵まれなければ芽が出ないのだなあ、と思います。彼が「太陽がいっぱい」という名作映画に出会わず、私が廃棄処分にした「危険がいっぱい」「テキサス」「サムライ」などという凡作に出続けていたら。あれだけの美男子であってもただいい男というだけのことで、これほどの世界的なスターになることはなかっただろうなと思うからです。
スターが作品を作り、作品がスターを作る。ひょっとしたら、美貌にも演技力にも恵まれながら、作品に出会う運がなかったばかりにいつの間にか忘れ去られてしまったスターの卵たちがたくさんいたのではなかろうか?
毎度つまらぬ話でお目汚しでした。それでは、また。