2022
05.09

休み惚けは大丈夫ですか?

らかす日誌

破竹の10連休も昨日で終わり、今日から再び日常が戻った。10連休を取れた皆さん、休み疲れは取れましたか? 休み惚けはありませんか?

私の場合、平日も休日もほぼ差がなく、仕事があれば働き、なければないなりに過ごす毎日だから、休み疲れも休み惚けもありようがない。今日は昨日の翌日というだけのことである。

だが、私の場合も仕事の相手は世間のリズムでお暮らしだから、人に会うことが仕事の基本である私も連休の影響は被る。というわけで、私も今日も、連休明けの最初の取材に出かけてきた。とある市内企業の「勉強会」をWebで公開する原稿にするのである。毎月1回開かれる勉強会をまとめるのだが、私が関わる1年半ほど前にスタートした勉強会だから、過去に遡って取材をしなければならない。今日は昨年5月に開かれた9回目の勉強会の話を聞いた。

テーマは「主体性」。30人ばかりの中堅企業だが、取り上げるテーマは本格的である。これまでも「社会性」だとか「0から1」、「言葉の達人」だとか、取材する私の頭がクラクラするようなテーマが並んでいた。いってみれば、取材者泣かせの仕事である。

取材とは、単に相手の話を聞くだけの仕事ではない。奥行きのある原稿にするには取材先が予期していなかったところに突っ込みを入れ、時には

「貴方はそう言うが、私はこう考える」

と己を開陳しなければならない。そうやって議論を深め、取材先との間にある溝を出来るだけ埋めなければならないと私は思う。

今日もそういう場面があった。
「主体性」のテーマで取材先が用意した勉強会用のレジュメが実に詳細で、それだけならまだしも、極めて難解だったのが原因である。さて、これだけ難しいテーマで、これだけ難しいレジュメを元にした勉強会で、果たしてどれだけの成果が得られるのか? 本当にみんなに浸透したのか?

ふと思いついて、昔話をした。新聞記者に成り立ての時のことである。

初任地は三重県津市であった。担当は察周り。管内の警察署を回って事件、事故を取材する。朝1番に津署に顔を出し、広報担当である副署長に挨拶をする。

「お早うございます。昨日は何かありましたか?」

何か、とは警察が処理しなければならない事件、事故を指す。記事にしなければならない事件、事故が起きていれば夕刊用に原稿にしなければならない。

だが、ほとんどの日々は平穏であった。

「ああ、朝日さん、お早う。何もなかったよ」

何もなかった。世の中は平穏無事であった。本来は喜ぶべきことだが、記事を書きたくて記者になったブン屋には正常な神経はない。

「何? それじゃあ記事が書けないじゃないの!」

治にいて乱を求める。新聞記者とは人非人の別称でもある。

当時の私は大学出たて。世間の人付き合いのテクニックなど持ち合わせてはいない。加えて、警察官とは、つい先頃までは警棒と楯で我ら学生を追い回していた憎っくき敵である。
人付き合いになれない人間が、心の内では憎っくきていと思っている相手と世間話などできようはずがない。

「何もなかったよ」

といわれれば、それから先、何を話しかけたらいいのか全く見当が付かない。

「ああ、そうですか」

というと、そばのソファーに座り込み、新聞をめくるぐらいしかやることはない。20分もめくって見出しをざっと見終われば、もうお手上げである。警察担当なのだから、事件、事故が発生するまでそこにじっと居座るという手もあるが、警察とおいうところろはどうも居心地が悪い。

「じゃあ、また」

と、コソコソと警察を出るのが当時の私であった。

ところが、なのだ、お立ち会い。そんなスタートだったにもかかわらず、2週間もすると副所長さんと何となく雑談をするようになり、刑事部屋にずかずかと入り込み、鑑識担当官と何となく仲良くなるのだから、人間とは不思議なものである。

「お前がその程度の軽薄な人間だからだよ!」

って? うむ、それを否定する論理を私は持ち合わせていないのが寂しい。

前置きが長くなった。取材先に離したのはその当時の話である。

私が最初に書いたのは、交通事故の記事だった。昼間に起き。確か6ヶ月の重症、という事故だった。原稿の行数は20行あまり。当時は1行15字だったから、300文字ほどの短い文章である。いつ、何処で、誰が、何をした、どういう風位に、どうして、という5W1Hが記事の基本である。いまならスラスラと書けるだろう記事である、多分

交通事故の記事を書きたくて記者になったわけではないが、とにかく、記事が書きたくて記者になったのだ。支局に戻ると全身全霊をこめて記事を書き始めた。初仕事である。
当時は、印刷されていない新聞用紙を葉書大に切りそろえ、一番上を糊で無線綴じしたものが原稿用紙だった。輪転機にかけた新聞用紙のロールは、用紙を最後まで使い切ることが出来ない。必ず余り紙が出る。新聞社はそのその余り紙を捨てずに活用したのである。森林を切り倒さなければ商品が作れない新聞社の、せめてもの良心ともいえる。この原稿用紙1枚に1行分の文字、つまり15文字書く。20行の原稿だと20枚の薄っぺらい束になる。

「書きました」

張り切って支局長に提出した。記者が書いた記事は、支局長、あるいはデスクと呼ばれる次長が必ず目を通し、添削するのが新聞社である。
さあ、どうだ。これが、私が全身全霊を込めて書いた記事である。至高の作品である。心して読みなさい!

間もなく、

「おい」

と支局長に呼ばれた。

「直したから目を通せ」

戻ってきた原稿をめくり始めた。えっ!

青ペンだらけである。原稿の添削には青ペンを使うのが朝日新聞流であった。全てのページが、それこそ真っ青なのである。修正だらけなのだ。

最後まで読み通した。私が書いた原稿で生き残っていたのは固有名詞だけだった……。

そんな話を今日の取材先にした。

「力が入りすぎたんだね。力が入ると、どうしても原稿が固くなる。例えば『バイクと乗用車がぶつかった』と書けば済むところを『バイクと乗用車が衝突する交通事故が発生した』なんて書いてしまう。スラッと、日常語で書いてしまうと何となく軽薄な文章になるんじゃないかと思っちゃうんだね。自分を重々しく見せるためにやたらと込み入った文章を書く。漢字の熟語を多用する」

「人には誰しも、見栄というものがある。馬鹿にされたくない、いっぱしの知性を備えた人間としてみられたい。私を含めてみんなそんな思いを持っている。当時の私もそうだったのだと思う。勉強会のリーダーも同じで、レジュメをまとめる時についつい見栄が出て、固い言葉のオンパレードになる。やむを得ない一面もあるけど、それで伝えたいことが伝わるかな? 固い言葉、硬い文章が目の前に出て来たら、まず『読みたくない!』って拒否反応を起こすのも人間の属性じゃないかな?」

「自分で理解したことは、誰でも理解できる日常語で表現できる。日常語に変換できず、本に書いてあった固い言葉をそのままレジュメに引用するのは、あなたの理解不足じゃないか? 自分が十分理解していることは、日常語だけで説明できるはずなんだよね」

要らぬお節介かも知れない。しかし、老い先が短くなった人間は、若い人に何かを残していきたくなる。自分が人生で身につけたと思うことを、彼らにはもっと短時間で消化して、私が勧めなかった地平まで歩いて行って欲しいと願う。年寄りがついついお説教調のはなしをするのはそのためではないか?
私も立派なお年寄りなのである。

取材先の目が輝いたように思ったのは、私の思い込みかも知れない。本当は

『偉そうな口をきくじゃねえよ、この爺!」

と心の内で叫んでいたのかも知れない。
が、まあ、どちらでもよろしい。高齢者の言に耳をそばだてるか、年寄りの繰り言と切って捨てるかは相手の自由なのだから。
それでも、言っておきたいことはこれからも言っちゃうんだろうな、と開き直る私であった。