06.09
私と朝日新聞 津支局の1 名古屋本社で即席研修を受けました。
私の大学には、マスコミ学科などなかった。あったとしても、そもそも弁護士志望だった私が選んでいるはずはない。これまで学生であり、サラリーマンだった男に、突然新聞記者が務まるはずはない。
いまはどうか知らないが、私が入った頃は、4月入社の新入社員には2週間にわたる丁寧な研修が行われていた。しかし、私は繰り上げの9月1日入社である。丁寧な新人研修は半年も先のことだ。
そのため、9月1日付で津支局員となる私は、名古屋市の名古屋本社で3日間の即席研修を受けた。写真の撮り方、現像・焼き付けの仕方が1日。何故か六角形になっている社会部のデスク席に座って原稿の流れを見るのが1日。さて、あと1日はどんな内容だったか、記憶がなくなっている。
新聞記者にカメラは必需品である。入社と同時に
「これを買いなさい」
と1台のカメラを渡された。確か、NIKONのNikomat ELだった。レンズ付きで10万円ほどした。
「仕事に使うのに、どうして自費で買わねばならないのか?」
と聞いた記憶がある。
「あのなあ、職人は自分の道具で仕事をするもんだ」
という返答をもらった。
私はカメラ職人になるのではない。ペン1本で身を立てる記者になるのである。などと反論したような記憶があるが、はねつけられたようである。
「と言われたって金がない」
というと、
「月賦。給料から天引きだ」
新聞社とはそのようなものらしい。ま、いいか。カメラなんて持ってないし、子どもも生まれた。その写真も撮らなきゃならないからな。
カメラの構え方:両脇を締め、カメラがぶれないうようにする。
何を撮るか:趣味で撮る写真ではない。報道写真は人を撮る。
どう撮るか:目線の高さを工夫せよ。立ったまま撮った写真はつまらない。しゃがんでアングルを低くするか、脚立を使って高くするか。意外性のある角度を心すべし。
まあ、そんなことを座学で教え込まれた。それが済むと、
「いまから町に出て写真を撮ってこい」
と数本のフィルムを渡された。
戻ると現像液、定着液を作らされた。何とも言えない刺激臭のある粉末を湯で溶く。出来上がると次は現像だ。カメラから取り出したフィルムを持って暗室に入り、薄いセルロイドのようなフィルムが着いたリールに巻きとる。これを現像液の入ったタンクに放り込む。
「現像液の温度管理とフィルムを漬けておく時間が決め手だ」
と言われたが、数値は記憶にない。20℃の10分だったか?
現像を終えたフィルムを定着液に入れる。水洗いをする。ここまで来ると、ライトをつけてもいい。フィルムを取り出す。おお、写っている!
次は焼き付けである。フィルムが乾くのを待って再び暗室へ。今度は焼き付け機を使う。フィルムを固定する器具にフィルムを挟み、セットする。スイッチを入れると焼き付け機に灯りが入り、下の台に映像が映る。ピンとを合わせ、ここに印画紙を置いて数秒露光する。その印画紙を現像液に浸ける。じわーっと画像が浮かび上がる。このあたりで良かろうというところで引き上げ、定着液に入れる。あとはよく水洗いをして乾かせば写真の出来上がりである。
これで俺も写真の職人になるのか?
社会部での研修は記者活動への入り口である。この六角形のデスクを通り過ぎていった原稿が明日の朝刊に掲載されるのだ。
六角デスクにはその日の当番デスクと数人の記者が座っていた。この記者たちを「遊軍(ゆうぐん、と読む)」と呼ぶことは後で知った。遊軍といっても、遊んでいれば給料をもらえる気楽な稼業ではない。担当は持たず、普段は自分の好きな取材をし、大事件、大事故ともなればいつでも取材に加わるよう待機する人々である。警察、検察庁、県庁、市役所などの一通りの担当をこなしてきたベテラン記者で、
「なんでも取材でできる」
ことになっている。文字通り、遊びをこととする遊軍記者がいたという噂もあるが、私は関知しない。
そのデスク席に座らされた。こっちはまだ新聞記者のイロハのイも知らないド素人である。小さくなっているしかない。縮こまっている私に、デスクが命じた。
「君、大道君だったか、この電話で記事をとってくれ」
当時はインターネットなんてない。パソコン通信もまだである。原稿は総て手書きである。
だから、自分の原稿を新聞に載せようと思えば、書いた原稿をデスク席に届けるしかない。だが、事件や事故の現場にいて、原稿を届けるゆとりがないことがある。そんな時はデスク席に電話を掛け、そこにいる誰かに原稿を書き取ってもらうのである。これを「電話送稿」といった。
デスクが命じたのは、その受け手になれということである。
当時の原稿用紙は、印刷していない新聞用紙を葉書大の大きさに切りそろえ、一端を糊で固めて冊子のようにしたものだった。この原稿用紙1枚に15字書く。1文字というのは、当時の新聞は1行15字だったからである。つまり、この原稿用紙1枚で新聞記事の1行。60行の原稿を書くと結構な厚さになり、60枚の原稿用紙を揃えながら
「俺は仕事をした」
という満足感を味わうのはずっと先のことだ。
それはそれとして、学生時代、ノートなどに小さな字で書き込んでいた私からすれば、大変にもったいない紙の使い方に思えた。新聞用紙は輪転機にかけて印刷するが、最後の方は印刷ができず、どうしても残ってしまう。そのままだとゴミになる。それを原稿用紙として再利用しているのだからもったいないことはないといわれたが、私のセンスは
「この紙1枚に、100字だったって200字だって書けるでしょう!」
だが、使ってみると実に勝手がいい。新聞は常に締め切りとの戦いである。ゆっくりゆっくり書いていたのでは、どんなに素晴らしい記事になっても締め切りに間に合わなくなる。軟らかい2Bの鉛筆で、この原稿用紙に大きな文字で15字ずつ書き殴る。原稿用紙を埋める数倍の速さで原稿が書けるから、恐らく経験と知恵のたまものとしての使い方なのだろう。
余談だが、この葉書大の原稿用紙の使い方は、東京と大阪で違っていた。東京は7字、8字の2行書き、大阪は5字ずつの3行書きだった。名古屋は2行書きである。しかし、7字と8字。目一杯の速度で原稿を書いているのに、どうやったらそんな器用な真似ができるのか?
「何となく、15字ぐらいになっていればいいんだよ」
とは津支局に赴任した後で知ったことである。
さて、社会部のデスク席に座った私に仕事が命じられた。受話器を取る。
「はい、今月入社したばかりの大道といいます。よろしくお願いします」
と挨拶して鉛筆を握り、原稿用紙を前にした。
「じゃあ、行くよ。4月2日午後3時40分頃、名古屋市守山区の住宅街で発砲音がしたと、近くの住民が警察に届けた。調べによると……」
1枚で15字、1枚で15字……。あのう、申しわけありません。もう少しゆっくり話していただけませんか?
「えっ、このスピードで書き取れないか? 困ったな。忙しいんだよ。誰かに代わってくれ!」
社会部デスクから、ある名文記者の話を聞いたのは、その日の仕事が一段落してからである。
「ある日ね、山の中の村で大きな事故が起きたんだ」
デスクはそう話し始めた。
「現地から近い支局、通信局からも、名古屋からも取材班が出た。ところが締め切りは刻々と迫るが、取材班はまだ現場から遠い。やばいなあと思っていたら〇〇さんが電話帳を引張りだして、電話をし始めた。現場に近い民家に片っ端から電話を入れて取材してるんだ。現場に通じる道の幅はどれくらい? どんな木が生えてる? 道ばたには雑草が生えているか? その土地に特有の木や雑草はあるか? 今日は何時頃陽が落ちた? 夕焼けは出たか? 夕陽が沈むのは何という山?……。そして見る見る原稿が出来上がった。読んだらねえ、現場を見た人じゃないと書けないような生き生きした原稿なんだよ。あとで聞いたら、あそこには行ったこともないだそうだ。やっと現場に着いた取材班からも原稿が来たけど、彼の原稿には到底及ばず、没にしたんだ」
ふむ、取材力とはそのようなものか。見てきたような嘘を書くのも新聞記者の仕事なのか。俺、いつになったらそんな記者になれかなあ。
こうして私は記者の道を歩き始めた。