2023
06.07

私と朝日新聞 入社試験の6 9月1日に繰り上げ入社となりました。

らかす日誌

西鉄を7月31日付で退職した。
8月9日、横浜市の妻女殿の実家に近い産院で長男が誕生した。すでに無職の身になっていた私は、産院のかたい椅子で、その瞬間を待った。

「初産なので、ちょっと時間がかかるかも」

なるほどなかなか産まれてくれない。待ちくたびれたころ、やっと産声を聞いた。なんでも、なかなか出て来ないのでバキュームを使って強制的に引きだしたそうである。ほう、産科にはそんな手法もあるのか。そのためか、長男の頭はまるで福禄寿のように長くて上がとんがっていた。ありゃまあ。初めての子である。やや慌てた。

「先生、この頭、大丈夫ですか?」

問いかける私に、医師はにこやかに答えた。

「胎児はまだ骨が固まっておらず、柔らかいのです。だからバキュームで引き出すとこんなになる。だけど、心配はいりません。何日かすれば普通の頭の形になりますから」

ふーっ。よかった。手の指が5本ずつ、足の指も5本ずつある。頭が普通の形に戻るのなら、五体健全な新生児である。他に何を求めよう。

その数日前、朝日新聞に呼び出され、有楽町の朝日新聞東京本社を訪れた。入社後のことを教えてくれるという。

「大道さんは既卒でしたよね」

はい、そうですが

「だったら、入社を来春まで待たれますか? それとも9月1日に繰り上げて入社していただけますか?」

新聞記者に憧れて朝日新聞を受けた。できることなら1日でも早く仕事につきたい。

「そうですか。それなら、9月1日付で入っていただきましょう。となると、赴任先は三重県の津支局です」

はあ、三重県? 津? それ、どこでしたっけ?

「ああ、あなたな九州だからあのあたりはあまりご存じないですよね。名古屋で国鉄を降りていただき、そこで近鉄特急に乗り換えていただきます。1時間で着きますよ」

こうして私の初任地が決まった。いまならネットで「三重県」「津市」などを検索して、いったいどんなところで新聞記者を始めるのか、情報を集めたはずだ。しかし、ネットどころか、コンピューターが暮らしに欠かせなくなるなどという兆候は一切ない時代である。

「全く知らない土地だが、ま、行けばどうにかなるだろう」

と考える他ない。

ことはついでである。ふと、こんなことを聞いてみた。

「私、給料はどれぐらいになるでしょうか?」

「ああ、そうですね。ちょっと待って下さい。大道さんは25歳ですよね……」

何やら計算していた担当者は

「えー。記者職の場合は、基本給に連動して時間外手当が出ます。時間外手当は職場によって違うのですが、あなたの基本給はこれだけで、支局勤務の時間外手当はこのランクだから、と。そうそう、結婚していらっしゃるんですね。それにお子さんも産まれるとか。となると、その分の手当も加算されますから……」

ゴクッと生唾を飲む。

「15万円ぐらいにはなりますよ」

15万円! 西鉄のその年の初任給は7万4000円だった。その2倍? 思わず口に出た。

「そんなにあるんですか!」

月給が2倍である。何だか大金持ちになった気になった。ああ、やっぱり朝日新聞って高給を支払う会社なんだ!
入る金が増えれば出る金も増える。そんな簡単な公式が人生を貫いていることを思い知らされ、入社数ヶ月後には

「これだけしかないのかよ!」

という思いに変わるのだが、貧困生活を続けてきた私が、その時は天にも昇ったような気分を味わったとしても無理はなかったはずだ。

そして長男が誕生した。9月1日に津支局に行かねばならないのなら、家族を同伴するのは無理だろう。とりあえず1人で行って、妻女殿、産まれたばかりの長男の様子を見ながら迎え入れるしかない。

長男が無事生まれたのを確認した私は、愛媛県松山市に向かった。ここで、以前福岡総局でデスクをしていた方が支局長をしていた。合格は電話で知らせてあったが、何かとお世話になった方である。やはり顔を見て報告したい。

「おお、大道君、来たか。よかったね。ここは松山だ。夏目漱石も入った湯を浴びにいこうじゃないか」

道後温泉である。岩風呂に浸かり

「漱石先生もここで温泉を楽しんだのか」

と思えば、何だかありがたい。夏目漱石は私の尊敬する作家である。この原稿を書いているいま、漱石全集を読み返しているほどだ。

湯から出て座敷に戻ると、熱いお茶が出た。時は8月。それでなくてもくそ暑いところに、温泉にまで入ってきたのだ。私の体からは絶え間なく汗が噴き出していた。そこに熱い日本茶……。
気は進まなかったが、とにかく飲み終えた。この取り合わせがこの温泉の伝統なら、それを味わうのも一興である。

小料理屋でたらふく酒を飲ませていただき、支局で寝た。朝日新聞の施設で寝たのはこの日が最初である。

津支局に挨拶にも出向いた。名古屋で近鉄特急に乗り換え、津で降りる。寂しい駅前だった。初めての土地。バスの乗り方なんて分からないし、支局の場所も不案内だ。こういう時はタクシーに限る。

「初めまして。9月からお世話になる大道です。よろしくお願いします」

支局長と支局のデスクが迎えてくれた。

「ところで、君は結婚しているそうだな。それを聞いて、とりあえず部屋を探しておいた。あとで行ってみたらいい」

といったのはHデスクだった。

「新人は3ヶ月、支局で寝泊まりするのが原則だ。もちろん休みはない。毎日24時間働いてもらう。ただ、君は結婚しているそうだから、その期間を1ヶ月に短縮する。それでやってくれ」

と命令を下したのはM支局長だった。のちのちこの2人にはいじめ抜かれるのだが、この時の私は気が付きもしない。

「この人たちから新聞記者のイロハを教わるのである」

と神妙な顔でお話しを承っていた素直な青年であった。

福岡に戻り、1人で引っ越しの準備をし、荷物を送り出した。

こうして私は1974年9月1日、朝日新聞記者になった。