2023
06.10

私と朝日新聞 津支局の2 大丈夫か、お前。本当に新聞記者なんかになれるのか? うぅぅぅ……。

らかす日誌

研修最終日の夜、名古屋本社で I 社会部長たち数人が壮行会を開いてくれた記憶がある。立ったまま、乾き物を食べながらビールを飲む程度の簡単なものだったが、何故か覚えている。I さんは後に東京本社編集局長になり、東京経済部員だった私と記憶に鮮明に残る会話を交わしたからだろうか。やがてその会話もご紹介することになるはずだ。

だから、記者として津に行ったのが壮行会を終えた9月3日の夜だったか、それとも4日朝だったかははっきりしない。いずれにしろ、その日から記者としての仕事が始まった。

私に命じられた仕事は察回りである。津支局管内の津署、隣の久居市(いまは津市と合併したらしい)にある久居署が私の担当である。

「えっ!」

と思った。警察担当? 私はつい昨日までは機動隊というお巡りさんに殴られたり、蹴飛ばされたりしていたのだぞ。弾圧されていたのだぞ。いってみれば、警察なんて人民の敵じゃないか。国家権力の暴力装置ではないか。俺、大嫌いだ! そこの担当だって?
私は世の中をより良く変えようと志して新聞記者になったのだ。それなのに、警察を取材しろって?

何だか夢がしぼんだような気になった。しかし、いまや私は朝日新聞の一員である。命じられた仕事はやらねばならない。これまで署回りだった先輩記者に連れられて津署、久居署に挨拶回りをした。

「大道と申します。今日から担当します。よろしくお願いします」

先輩記者の説明だと、警察署で広報を担当するのは副所長である。この人が発生した事件や事故を新聞記者に教えてくれる。昵懇になった方がいい。警察署の総責任者である署長さんと仲良くするのも欠かせない。事件となれば刑事部屋のお巡りさんが活躍するから、刑事部屋の皆さんとも信頼関係を築かねばならない。

ふーっ。かつて新左翼と呼ばれた学生運動の端っこの方でウロチョロしていた私に、そんなことができるのか?

先輩記者はこの日から三重県警担当となった。そして翌日から、私はたった1人で2つの警察署を受け持つことになった。

津署に顔を出すのは毎朝8時半頃である。夕刊の締め切り時間を考えれば、それぐらいの時間には行っておかねば、事件、事故があった時に夕刊に間に合わなくなる。

「お早うございます」

午前8時半、まず津署に行く。副所長への朝の挨拶は欠かせない。

「ああ、お早う」

相手はずっと年上だ。私は「ございます」をつけ加えるが、年上の副所長さんは「ございます」抜きである。

「何かありましたか?」

これが私の第2声である。

「何もなかったよ」

このあとは当然、私が第3声を発しなければならないところである。それが会話というものだ。それなのに、出て来ない。さて、これからどんな話をしたらいいのか、一向に思い浮かばない。
いまなら

「なんか天気が思わしくないですね」

とか、

「昨日、あの店に行ったら……」

とか、いくらでも口にする言葉を持っている私だが、あのころは第2声までしか持ち合わせがなかった。副所長の前の私はたった2つの言葉を発するとしばらく立ち尽くし、やがて副所長席隣のソファに腰を下ろし、置いてある新聞を開く。支局で一応は目を通してきたのだが、なにしろ、他にやることがないのだ。20分ほど無言で新聞を眺め、やおら

「じゃあ、また来ます」

と言い残すと、久居署に向かって車を走らせる私だったのだ。そして久居署でも、同じことの繰り返しである。こんなことで昵懇になれるか?

大丈夫か、お前。そんな失語症で本当に新聞記者なんかになれるのか? うぅぅぅ……。

ま、人は慣れるものである。一時はどうなることかと思ったが、2週間もすると私も慣れた。副所長の前に立っても無言の行を続けるようなことはなくなった。副所長とはいえ、お巡りさんとは言え、鬼でも蛇でもなかった。話し始めればそんじょそこらにいるおじさんと一緒である。

「大道さん、いま署長が暇なんだが、署長と話すかね?」

そんなこともいってくれるようになった。

記者として初めて書いた記事は交通事故である。手元に切り抜きがない(横浜に置いてある)ので正確なことは分からないが、全治6ヶ月の重傷事故だったと思う。
現場を踏む。これは記者の鉄則である。事故の一報を聞いた私は私は事故現場に車を走らせた。この頃、私はまだ自分の車を持っていない。ハンドルを握るのは支局備え付けの、確かランドクルーザーだった。やたらとでかく、走り出すとガタピシ音をたてる老朽車で、運転しにくかった。が、そんなことはいっていられない。
現場に着くと、ピッカピカの Nikomat ELをひっさげ、まず現場写真を撮る。事故車はすでに片付けてあり、衝突で飛び散った破片が散乱しているだけである。ウーン、この、散乱する破片だけの現場でどんな写真を撮ったらいのか?

写真を撮り終えると、事故処理をしているお巡りさんに事故の詳細を聞く。原則は5W1Hである。いつ、どこで、だれが、何を、どうした、どういうわけで。

「えーと、ここの場所の住所は? はい、この道、国道ですか、県道ですか? 何号線? 道幅は? 事故を起こした人の住所、氏名、年齢、職業は? 双方の車は何でした? はあ、片方が普通乗用車で、もう一方が軽自動車ね。普通車の方がセンターラインを越えて軽自動車にぶつかったと。とすると普通車の方が加害者ですね? どうしセンターラインを越えたんですか? はあ、そっれを調べている。なるほど」

ま、交通事故の取材で聞かねばならないことはその程度である。これは素人にわずかに毛が生え始めたばかりの私にも分かった。いや、実は事故の当事者の知名度も本当は聞かねばならない。どちらかが有名人であったりしたら、事故の軽重とは別に、有名人が事故に遭った、あるいは事故を起こした、ということが大ニュースになる。しかし、当時の私にそこまでの知恵はなかった

よし、取材は終えた。完璧だ。支局に戻り、原稿を書かねばならない。
例の原稿用紙を引き寄せ、鉛筆を走らせ始めた。

「支局長、原稿が書けました」

「おお、君の初原稿か」

記者が書いた原稿は、支局長、あるいはデスクが青ペン(フェルトペンや青鉛筆)で修正する。後には

「下手な直し方をするなあ」

などと不遜なことも考えることがあった私だが、入社直後の素直な私はそんなことは考えもしない。初原稿がどんな形に仕上がるのか、ウズウズしながら待つだけである。

「おい、大道。これでいいか」

支局長が先ほどの原稿を戻してきた。1枚ずつめくる。めくってもめくっても青一色である。あるところは青ペンで取り消し線が引かれ、あるところには青ペンで何かが挿入されている。

「俺の書いた原稿は固有名詞しか残っていないじゃないか!」

そうなのだ。最高の原稿を書いたはずなのに、固有名詞以外はすべて修正され、私が書いた記憶がない言葉が挿入されているではないか。
自分で名文が書けるなどとは頭から思ってはいない。朝日新聞の入社試験に通ったのも何かの間違いでなければ単なる偶然である。私の作文が高く評価されたはずはないという自信があるほどである。
でもなあ、直され直されて固有名詞しか残っていない私の初原稿……。

大丈夫か、お前。んな文章しか書けなくて本当に新聞記者なんかになれるのか? うぅぅぅ……。

前途に暗雲がたちこめるようおなな船出であった。