2023
08.08

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の5 私のヒラ時代

らかす日誌

名古屋本社経済部で「私のヒラ時代」という連載が始まったのは、確か1950年の春ごろではなかったか。いまは会長、社長、専務、常務、取締役とサラリーマンとしての出世を極めている人たちもにも平社員の時代はあった。一体どんな平社員が偉いさんになったのか。そんな主旨の企画だった。

私も経済部員だから、順番が回ってくる。自分の取材先から1人を選ぶ。そんなことを繰り返して数本の原稿を書いたが、忘れられない1本がある。最初に書いた「私のヒラ時代」である。

取材相手は、松坂屋の取締役名古屋店長、松藤三彦さんだった。同じ福岡県出身ということで打ち解けあい、何度も雑談をしに通った。その雑談を思い出し、

「1本目はこの人しかない!」

と決めた。松藤さんは当時53歳だった。まだお元気でいらっしゃるだろうか。。

なぜ忘れ忘れられないのか。実は、原稿を書くことの難しさをいやというほど思い知らされたからである。

取材は約1時間。抱腹絶倒のエピソードが数限りなく現れ、笑いっぱなしの取材だった。あれほど笑った取材はほかにない。よし、これで十分に原稿が書ける!

それなのに、原稿用紙に向かうと筆が止まった。取材は面白かった。聞いた話はとてつもなく面白かった。笑い転げたのだから、寄席にでも行かない限り、こんなに楽しい時間は持てなかったはずだ。だが、である。いや、だから、かも知れない。私は、あの面白さを全部読者に伝えるのに、どんな原稿を書いたらいいのか? そもそも、私にそんな筆力があるのか?
すくんでしまったのだ。何だか、原稿を書くのが恐ろしくなってしまったのだ。

それでも締め切りはある。書いた。

「これ、あの取材で私が感じた面白さの、半分ぐらいは表現できているか?」

と自分で自分に問うてみたが、どうにも自信がない。その原稿をお目にかけよう。

僕は、どうしても新聞記者になりたかった。24年に早稲田の専門部政経科を卒業すると、すぐに政経学部経済学科への編入試験を受けた。これが通っちゃった。
もともとカネはない。それで、アルバイトを探した。ところが、ないんだな。それなら、というんで、正式入社の口を探した。探すにも制限がある。学部は、月曜日が語学の日なんだよ。これだけは、出席しないといけない。そこで、月曜日が休みの松坂屋に入った。いいかげんなもんだったな。
上野店の人事課に配属されたが、いつまでも勤める気はない。良心はうずいたけどね。でも、仕事はまじめにやったよ。
試験の時期は困った。1週間ほどは、どうしても会社を休まなきゃ、受験できない。死んでもらったね、親類に。故郷が九州だから、「おじが死んだ」、「今度はいとこ」と、何人も死んでもらったよ。忌休で試験を受けたわけだよ。
会社の中でも思う通りにやっていた。人事課長が、長唄をやったりする軟派の人でね。ところが、社会の木鐸(ぼくたく)を目指す硬派だ。軟派を見ると、ムシズが走るんだよ。入社半年後ぐらいにケンカをしてね。それから、口をきかなかった。話しかけられても、聞こえぬふりだ。秘書課に配属になるまで続いた。
週1日の学生だったけど、無事に卒業した。最終学歴の資格更新のため、人事課長のところへ卒業証書を持っていったら、課長が驚いてね。「どうして昼間部へ行けた。何事だ。でたらめだ」と。事情を説明したら、「松坂屋始まって以来」と話題になったよ。
新聞記者の方はどうしたかって? 試験が難しかったし、転職したら給料が下がるし。社内に恋人ができて結婚の話も持ち上がっていたし。あれこれ考えた末、あきらめちゃった。
それで、彼女と結婚した。当時は20円亭主でね。これで当時、素うどんが2杯食えた。僕はたばこは吸わないから、定期券で電車に乗って、うどん2杯食って、また帰る、という毎日だ。
それでも時には上司が「飲もう」という。タクシーに乗ると、後ろに偉い人を乗せて、僕は助手席に乗る。助手席は、料金を払う人の席なんだね。目的地に着く。しかし僕は昼飯を食ってるから1銭もない。でも、ポケットをゴソゴソさぐって、「細かいのがちょっと……」なんてやる。上司が払ってくれるまでの時間稼ぎなんだ。
何度やったかなあ。そのたびに泣きたくなってね。だから、余裕が持てるようになってからは、部下には絶対カネを払わせないよ。みじめだったからね。
   ✖️     ✖️     ✖️
まつふじ・みつひこ 福岡県出身。天衣無縫のヒラ時代を自認するが、例の課長とはその後 “復縁” 。別れる時「サラリーマンはバカになれ」といった彼を忘れない。が、いまも硬骨漢。「筋は曲げない」との定評がある。53歳。

さて皆様、この記事でクスリとでも笑っていただけただろうか? それとも全く笑えなかっただろうか。
腹を抱えて笑いながら取材した話を、私が原稿にまとめると、この程度の記事にしかならない。どう書けば良かったのだろう?

自己採点では、50点、自分の記事だから甘く見ても60点のできである。

ところが、なのだ。私はこの記事で、名古屋本社の「えんぴつ賞」をもらった。えんぴつ賞とは、文章が優れた記事に与えられる賞である。賞金は確か3万円。
そんな金は経済部仲間との「祝杯」でなくなった。それはいい。でも、この原稿が何で「えんぴつ賞」なのだろう? 当時の名古屋本社は、文章が優れた記者が払底していたのか?

いまだに納得できない私である。