2023
08.27

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の24 特ダネ街道

らかす日誌

工販合併へ、のl記事を書いたころ、私は絶好調だったようである。
その話も、工販合併の話を少しでも煮詰めようと、トヨタ系列の部品メーカーの幹部に時間をとってもらい、話を伺っている間に転げ出た。

「大道さん、トヨタの合併話もいいけれど、世界的にはいろんな動きがありますよ」

そんな風に彼は語り出した。工販合併ありやなしやで頭がいっぱいの私は、

「そんな話、どうでもいいんだけど」

と思ったように記憶する。だが、開き始めた取材先の口を閉ざすほど、私は愚かではない。

「どういうことでしょう?」

恐らく、自動車メーカーに部品を供給する会社だから聞き及んだ動きだったのだろう。東洋工業と米・フォードが、台湾で小型車を生産する計画を詰めているというのである。

そんな話を聞くと、記者は

「頂き!」

という気分になる。記者とはしょせん、情報乞食なのである。

その話は、1981年12月28日の1面トップになった。

「東洋工・フォード
「台湾で「小型車」計画
「年産25万台も 20万台は米へ輸出」
「ファミリアが有力」

という4つの見出しがついた記事だった。その記事の書き出しはこうである。

「関係筋が27日明らかにしたところによると、東洋工業(山崎芳樹社長)と米国第2位の自動車メーカー、フォード(ピーターセン社長)は台湾で小型乗用車の共同生産工場をつくる構想で、具体的な検討に入った。この構想は、年産25万台程度の規模で、うち20万台は米国向け、残りは他の地域へ輸出する——というもので、生産車種は東洋工業のファミリアが有力視されている。フォード側からの要請によるもので、すでに今月上旬には、両社と住友商事による調査団が台湾を訪れ、来年早々には第2次調査団が出る。早ければ来春にも結論を出し、進出が決まれば84年にも生産を開始したい、としている」

スクープに次ぐスクープ。私は特ダネ記者の道を驀進しているようだった。

1982年1月末か2月初めだったと思う。
珍しく電車を使って豊田市のトヨタ自動車工業に取材に行った私は、取材を終えると広報マンのI氏に声をかけられた。

「大道さん、僕もこれから名古屋に行くから、送ってあげますよ」

彼が運転する車の助手席に乗せてもらった。約1時間の道のりである。自然、会話が始まる。

「ねえ、フォードとの提携話が壊れたことは知ってますよね」

「NHKに抜かれた話だもんね」

「それで、トヨタはこれからどうすると思います?」

「どうするって?」

「自動車の日米摩擦やこれからの世界展開を考えると、やっぱりアメリカに足がかりがないとまずいでしょう」

「それはそうだけど、花井会長にその話をすると、『いまトヨタには3000億円のゆとり資金がある。みんなそれを吐き出させようとするんだ。3000億円貯めるのは大変だが、使い始めればすぐに消えてなくなる。海外進出なんてとんでもない』とおっしゃってますよ」

「花井さんはそう思っているのかもしれないけど、それじゃ済まないでしょう」

「そういうものですか」

「それで、アメリカでNo.2のフォードとの話が壊れた。単独で出るのはリスクが大きいから、やっぱりどこかと組みたい。どこがいいですか?」

「うーん、2番手でダメだったんだから、3番手のクライスラー?」

「いや、僕はね、トヨタという会社は、No.2と結婚したいと思ったが断られた。じゃあNo.3にするか、という会社ではないように思うんです。No.2でダメだったら、No.1を相手にするぞ、という体質があると思うんです」

「えっ、GM(ゼネラル・モーターズ)と何か話が進んでるの?」

「いや、あくまでも一般論ですけどね」

いや、広報マンが一般論で、トヨタとGMの提携話を新聞記者にするはずはない。何かある!

私は早速名古屋経済部会でこの話を報告した。

「こういう話を聞きました。まだ広報マンの『一般論』を聞いただけですが、ずいぶんきな臭いと思います。当面は私が取材します。しかし、山場に来たら皆さんに助けて戴かなければなりません。よろしくお願いします」

ことは、自動車メーカーの世界1位と世界2位の提携である。実現すれば世界的なニュースである。せっかく、取材のとっかかりを得たのだ。これも特ダネにしたい! とは調子に乗っていた私の思いだった。星取り表ででっかい白星を3つ続けてやる!!

私は取材を始めた。