2023
08.29

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の25 血の気が引いた話

らかす日誌

一瞬にして血の気が引く経験など、そう滅多にあるものではない。私が真っ青になったのは1982年3月8日のことである。

その頃私はすでに東京経済部への転勤が決まり、日本の中枢で仕事をすることへの興奮と不安を抱えていた。そして目前には、トヨタ—GMの提携話があった。

「名古屋在勤中に記事に出来るかな? それとも後任に引き継ぐことになるのか?」

その日、名古屋市千種区星ヶ丘の我が家の電話がけたたましく鳴り始めたのは、午前6時半前後だった。私は前日の仕事が遅かった(麻雀で遅くなったのかも知れない)ので、電話のベルで目覚めることはなかった。受話器をとったのは妻女殿である。

「会社の人から電話よ」

と揺り起こされた私は、夢の世界から現実に引き戻されてやや不機嫌な声で答えた。

『何時だ? 6時半? 誰だ、こんな時間に。そいつ、常識がないのか?」

『Nさんっていってる」

Nさんとは、私に遅れて名古屋経済部に来た先輩記者である。東大卒。かなり変わった人で、雀卓を囲むと、牌をかき混ぜるのにほかの3人の手元まで腕を伸ばしてくる。それもあって何となく職場では浮いた人だった。それに気が付かないのか、それとも気が付いても気にしないのか、飄々としている。実に不思議な人だった。

「もしもし、お早うございます」

「ああ、大道君、今朝の日経見た?」

「まだ寝てたんですよ。見たはずないじゃありませんか」

トヨタとGMが提携するって記事が1面に出てるけど」

!?

「おい、新聞とって来い!」

妻女殿に命じた。当時我が家は朝日をはじめ、読売、毎日、中日、」日経を購読していたと思う。手元に来た日経を見た。出ている。トヨタとGMが提携し、アメリカで車を共同生産する。そんな中身だった。見た瞬間、血の気が引いた。世界ニュースを抜かれた……。

「出てますね」

「じゃあ、君に知らせたから、あとはよろしくね」

そういってNさんは電話を切った。
N さんは先輩記者である。このような時、普通なら

「君はすぐにトヨタに当たれ。僕はデスクに連絡して君をサポートする取材体制をつくるから」

程度のアドバイスをするものである。だが、

「あとはよろしくね」

なのだ。Nさんの変わりぶりがおわかりいただけるだろうか。
一瞬血の気が引いた私は、次に頭にきた。

「あんた、先輩記者だろ? 大抜かれををした後輩記者を手伝おうとは思わんのかい!」

が、怒りに身を任せる暇はない。抜かれたら追いかけなければならないのである。
まず、デスクを電話で起こした。

「済みません。日経にトヨタ—GMを抜かれました。なんとか夕刊にねじ込みたいと思います。よろしくお願いします」

次に電話をかけたのは、後輩記者のT君である。

「トヨタ—GMを日経に抜かれた。俺はこれから豊田英二に電話で取材する。すぐには出ないだろうが、出るまで5分おきにかけ続ける。済まないが、君はこれからトヨタ自工の本社に行って取材を始めてくれないか。俺も行きたいんだが、1時間かかるから、とにかく自宅から電話を掛け続けることにする」

T君は

「分かりました」

といってくれた。

豊田英二さんの自宅に電話を掛けたのは、6時40分頃だったろうか。お手伝いさんらしき女性が受話器を取り、

「まだお休みになっておられます」

といった。ほう、英二さんは朝が遅いのか。

「申しわけありません。すぐにお話を伺いたいことができましたので、これから5分毎に電話をかけさせていただきます」

そういって受話器を置いた。
5分おきに電話を掛ける。食卓に座って朝食をとるゆとりなどない。妻女度に握り飯を作ってもらい、5分間を利用して朝食をすませ、次の5分かで服を着替え、とにかく受話器の前に座り続けた。

7時50分。「まだお休みになっておられます」
7時55分。「まだお休みになっておられます」
8時。「まだお休みになっておられます」
8時5分。「まだお休みになっておられます」

おかしいな。もう目覚めてもいいころではないか?

8時10分。「まだお休みになっておられます」
8時15分。「まだお休みになっておられます」
8時20分。「まだお休みになっておられます」

おいおい、それはないだろう? ひょっとして……

8時25分。「まだお休みになっておられます」
8時30分。「まだお休みになっておられます」

8時35分。

「お出かけになりました」

!?

逃げられた。豊田英二さんにすっぽかされた。やられた!

すぐにタクシーを手配した。社長に逃げられた以上、トヨタ自工本社に行くしかない。タクシーを待つ時間を利用して、デスクにその旨を連絡した。

トヨタ自動車工業の本社に乗り込んだからといって、社長室に突進できるわけではない。専務、常務、平取の部屋にだって入れない。取材はもっぱ広報を通すことになる。

「どうなってるんだよ」

「夕刊の締め切りがある。とにかく時間がない。概要でいいから早く教えてよ」

先着していたT君と手分けをして、情報をほじくり出した。さすがに日本一の企業の広報である。会社の中を走り回って記者が求める情報をかき集め、やがて記事にできるまでになった。あの抜かれ記事は、短行だが、夕刊に間に合ったはずである。

ところが、切り抜きを見ても、書いたはずの夕刊の記事が見当たらない。夕刊になんとか間に合った、というのは私の記憶間違いなのか? 出て来たのは100行以上もある大きな記事で、中身の濃さから見て翌日の朝刊に載ったものだと思う。

「トヨタ、GMと提携交渉」
「米国で小型車生産構想」
「今月中にも合意書」
「資金・車種など詰め」

という4本見出しの記事は

「トヨタ自動車工業(豊田英二社長)は8日、世界最大の自動車メーカー、米ゼネラル・モーターズ(GM)と提携交渉に入った、と発表した。交渉の内容は、米国内でトヨタの小型乗用車を共同生産する方法を検討しようというもの。この提携には米独禁法上の問題があるとみられるため、予断は許されないが、実現すれば世界第1位と第2位の自動車メーカーが手を結ぶことになり、世界の自動車業界再編成が一挙に加速されそうだ」

と書き出している。
ということは、私を含めた「抜かれた記者」が強く記者会見を求め、トヨタがそれに応じたようである。

しかし、だ。私は少なくともヒントは得ていた。あの広報マンは

「No.2でダメだったら、No.1を相手にするぞ、という体質があると思うんです」

といっていたではないか。あれから懸命に取材をしたはずだ。どうして私はトヨタの金太郎飴を突破できなかったのか? 日経の記者はどうやって取材をしたのか?

長い間、心のどこかに持ち続けたわだかまりである。

「大ちゃん、あの記事だけは、いくら大ちゃんでも抜けるはずはなかったよ」

と、合併なったトヨタ自動車の広報マンが話してくれたのは、あれから10年以上たってのことである。

「あれはね、そもそも東京の日経の記者が持ち込んできた話だったんだわ。フォードとの提携がうまく行かなかったが、だったらGMはどうか。私の人脈でGMの幹部を紹介できるから、話を始めたらどうか、ってね。その人脈を使わせてもらって実現した話だから、日経さんに抜いてもらいしかないじゃない」

ほう、考えたこともなかったが、新聞記者とはブローカーみたいなこともしながら記事を書くものなのか。
それも取材の1手法ではあろう。だが、私にはできそうにない。あの記事は、抜かれるべきして抜かれたのだった。

トヨタとGMは1984年、カリフォルニア州フリーモントにNUMMIという合弁会社をつくり、自動車の生産を始めた。しかし2009年にGMは破産して国有化され、トヨタとの提携解消を発表する。これを受けてトヨタもNUMMIに閉鎖を決めた。そして2010年、トヨタとスラ・モーターズが手を結び、この工場で電気自動車を製造している。