2023
09.04

私と朝日新聞 東京経済部の4 通産大臣たち

らかす日誌

私が通産省担当になった1982年4月、時の首相は鈴木善幸氏だった。通産大臣は安倍晋太郎である。凶弾に倒れた安倍晋三の父だ。
聞くところによると、安倍通産相は元毎日新聞の記者だった。記者から政治家になった例は少なくない。朝日新聞出身者も結構いる。古くは首相候補といわれた緒方竹虎がおり、私でも名前ぐらい覚えている政治家には河野一郎、細川隆元、橋本登美三郞、田川誠一、石井光次郎らがいる。近い例では松島みどりがそうである。

当時の私は、新聞記者ほど立派な職業はほかにない、と思い込んでいた。だから、

「なんで記者を辞めて政治家なんかになったのだろう?」

という目でしか安倍通産相を見ることができなかった。

饒舌だった(ただし、話す中身は別)元首相と違い、父・晋太郎大臣は訥弁の人だった。定期的に開かれる大臣懇談でも、積極的に何かを話すではない。新聞記者の、あまり的確とも思えない質問に、ポツリポツリと話すだけ。将来の首相候補の1人と聞いても、何となく腑に落ちなかった。

とはいえ、私は経済部の記者である。大臣として官僚の上に座っていても、政治家にはまったく関心がなかった。だから、懇談会で質問をしたかどうか、記憶にない。取材すべきことは通産官僚から取材すれば良い。大臣にわざわざ聞くことはない、とでも考えていたようだ。よって、あまり印象に残っていない。

秋に中曽根内閣が成立し、通産大臣が替わった。新しい大臣は山中貞則氏である。鹿児島県出身で、自民党税制調査会のドンといわれた。眼光鋭い人で、何となく近寄りがたい威厳があった。有り体に言えば、怖いのである。そばに寄ったら食い殺されるかも知れない、と感じたのは私が若かったからか。
糖尿病の持ち主だった。インシュリンが手放せないといわれていたから、大臣室でもインシュリンを打っていたのかも知れない。

この人には想い出がある。
霞ヶ関の官庁を担当すると、朝のお勤めが回ってくる。閣議が開かれた日は、閣議終了後それぞれの大臣が担当記者クラブを相手に「閣議後会見」を開くのである。ボンヤリとした記憶では原則として毎週1回で、閣議は早朝に開かれるから8時半、9時頃から始まったのではなかったか。この取材を受け持つのは一番下っ端、つまり通産省担当(私を含めて3人だった)では私だった。

朝日新聞経済部は数年に1回、全員で旅行に行く習わしだった。「全舷」といった。旧日本海軍が寄港地で、乗組員の半数の上陸を許すのを「半舷」といった。経済部は全員が職場を離れるから「全舷」なのである。反戦平和をうたう新聞社が旧軍用語を使うのは穏やかでないが、何故かそういった。
毎月給料天引きで資金を貯め、何となく

「そろそろやるか?」

ということになる。私が参加した初めての東京経済部旅行目的地は群馬県の猿ヶ京温泉だった。今なら上越新幹線があって近いのだが、当時はない。確か、4時間ほどかかったのではないか。
経済部員総出の旅行である。実行できるのは休刊日しかない。新聞を休刊するのは月曜日朝刊だから、旅行に出かけるのは日曜日である。昼間はそれぞれ好きなこと(私は渓流釣り)をし、遊び終えて三々五々目的の旅館に集まり、温泉に浸かったあとは芸者付き、飲み放題の大宴会。それが深夜まで続いた。

翌月曜日は、閣議後会見がある日だった。開始時間は8時半か9時である。霞ヶ関の官庁で経済部が記者を配置していたのは通産省、大蔵省、農水省、経済企画庁、外務省、程度だったと思う。少なくともそれぞれの官庁を担当する5人の経済部員はそれまでに霞ヶ関に駆けつけなければならない。

旅行の幹事もそれは十分承知で、私を含む5人は始発の電車で東京に戻れ、ということになっていた。酒に頭のとっぺん先まで浸かった翌朝、確か午前4時前に宿を出て駅に向かった。睡眠時間は1〜2時間だったろう。乗り込んだ列車は確か4時半ごろの出発で、我々のほかにほとんど要客はいない。それはそうであろう。こんな時間に列車に乗り込む酔狂人がいるはずはないのだ。

「空いてるな」

ボックス席に陣取った我々はしばらく雑談していたが、やがて前夜のご乱行が睡魔となって現れ、1人、また1人と眠りに落ちた。私もその1人である。
目覚めたのは6時半だったか、7時だったか。目を開けて驚いた。ガラガラだった車両が、いつの間にか押すな押すなの超満員になっていたからだ。

「そうか、東京行きのこの列車、途中から通勤電車なんだ」

吊革にも掴まれず、不自由な姿勢で東京の職場に向かう人たち。引き換えてこちらは、前夜のご乱行を済ませて閣議後会見に向かう道中である。何だか申し訳ない気もしたが、いかんせん、前夜の疲れはまだ残っている。それに、俺たちだってこれから仕事に向かうのだ。知らぬ顔をしてボックス席に座り続けた。

この日の閣議後会見は国会内で開かれた。前日は旅行である。渓流釣りを楽しんだ私はスーツなど着ているはずはない。ノーネクタイのジャケット姿である。おまけに、渓流釣りに使った釣り竿持参なのだ。その姿で会見室に走り込んだ。まずいことに、すでに会見は始まっていた。あの、怖い山中貞則大臣はすでに席に着いている。

「いけねぇ!」

と思わず顔を伏せようとした私に、山中氏が言った。

「おや、会見が終わったらどこかに釣りにでも行くのかね?」

「いや、あの、実は……」

何だか口の中でモゴモゴ言いながら席に着いた。
それ以来である。私は何となく、この山中貞則という人に親近感を持ち始めた。いかめしい風貌の人ではあるが、ひょっとしたら話が分かるいい人なのではないか?

とはいえ、私は経済部の通産省担当記者である。取材は官僚を相手にすればいいと思い定めている。山中氏には一度もアプローチしなかった。いま考えれば、惜しいことをしたと思う。せめて月に1回でも夜回りをしておれば、山中氏と仲良くなれたのではないか? 違った世界を覗き見ることが出来たのではないか?
仲良くなったら、

「おい、君、国会議員にならんか」

と誘われていたかもしれない。山中氏の実力なら、それも不可能ではなかったかも知れない。
もっとも、最も貴い仕事は新聞記者だと信じ込んでいた私である。そんな話に乗るはずもなく、丁重にお断りしただろうが。

山中氏は2004年に亡くなったが、今頃になって

「もったいない機会を逸した」

と悔やんでいる私である。