09.29
私と朝日新聞 北海道報道部の10 道内経済面
仕事の話を続けよう。
道庁を担当して半年ばかり過ぎたころ、私は「道内経済面」を立ち上げた。上からの要請だった。1985年、日本経済がバブルに突っ込もうとしていた時期である。これからは経済の時代だ。だから、北海道経済を伝えるページが欲しい。毎週1回1ページ。
「大道君、君は経済部から来たんだからできるだろう?」
できるかできぬか分からないが、上からいわれたらやるしかない。さて、どんなページにするか。
時折手伝ってくれる同僚はいたが、基本的には私1人で作る紙面である。そうであれば、1人で作ることができる紙面にしなければならない。そこで6本立てとした。
1)経済の話題を取り上げ、80行ほどにまとめて真ん中に置く。
2)道内の経営者にインタビューし、想い出に残る「あの時」を語ってもらう。これは名古屋時代に書いていたい「私の平時代」を少し変形したものだ。
3)札幌は支店経済の町である。そこで、新任の支店長を紹介する欄を設けた。「よろしく」と名付けた。
4)「野菜」「果物」「魚介類」の市況を書いた。これも名古屋時代にやったことだ。「台所アンテナ」である。
5)新製品、経済の統計データ、景気関連の発表もの、企業の新しい動き、などを短行の記事にして並べた。
6)「辛口批評」は、道内の識者に匿名で北海道を経済の視点から批判してもらった。執筆を頼んだのは銀行の頭取、通産局の幹部、フリーのルポラーターなどで、実名を出しては書けない本音を語ってくれ、と頼んだ。もちろん、私が何度か会って、「この人なら」と見込んだ方々である。
私が赴任する少し前、北海道で印刷する朝日新聞は、お悔やみのページを新設していた。死亡記事しかないページである。そのため、アルバイトを確か10人ほど使っていた。
死亡記事だけの紙面。そんなもの、誰が読みたいのか? と私は思うが、そのページを新設したら新聞が1万部ほど増えた、というから世の中はおかしなものである。
道内経済面の新設も、2匹目のドジョウを狙ったのだろう。しかし、経済面ができたから販売部数が伸びたという話は聞かなかった。私の力不足か?
ずっと後になって、定年を過ぎて桐生支局長をしていた時、ときおり道内経済面を手伝ってくれた女性から突然電話をもらった。私より年上の方だったから、彼女も朝日新聞を離れたいたはずだが、どうかして私が桐生支局長になったことを知ったらしい。懐かしくなって電話をしたとのことだった。
「でも、大道さんって、やっぱり凄かったわよ」
何が凄かったのだろう?
「ほら、あなた、ニトリの社長を『あの時』で書いたでしょう」
ふむ、そんな記憶もある。
「あの後ね、あなたはまだ道内企業でしかなかったニトリを『あの会社はきっと全国企業になる』って言ったじゃない。本当にニトリは全国企業になったものね。やっぱり経済記者の目は違うなあ、ってニトリが大きくなるたびにあなたのことを思い出していたのよ」
俺が、そんなことを言った? 覚えてない。まったく覚えていない。もしそんなことを言ったのなら、多分、「口から出任せ』だったのではないか?
道内経済面が発足して間もなく、東京経済部長が「慰問」と称して札幌に来た。接待するのは東京経済部からBB として札幌に派遣された私である。その頃は常連になっていた端焼き屋「憩」に案内した。
「憩」とは再び「グルメらかす」からコピペすれば、こんな店である。
「東京で同じ職場だった先輩が、出張で札幌にやってきた。といっても、会議を1つこなすだけである。主目的は、仕事を言い訳に、すすきのの夜を楽しむことにあった、と私は理解している。
会議が終わった。後輩たる私が案内役を務めた。この案内役は、当然のように「憩」にご案内した。
ホッケの一夜干しを食べ、トバを食べ、アン肝の昆布巻きを食べ、刺身(ヒラメやソイ、だったと思う。記憶にない)、店主の息子が焼いたというぐい飲みで酒を飲んだ。私にとってはいつものことである。最後に、焼きおにぎりとみそ汁、漬け物を食べて、会計をした。
「いやあ、いつも申し訳ありませんねえ。うちは材料代が高いので、ちょっとお高いんですよ。本当に申し訳ありません」
顔をくしゃくしゃにしながら、本当に申し訳なさそうな顔で店主が請求したのは9800円だった。大の大人が2人、美味いものを腹一杯飲んで食って、の料金である。
「いや、ほんと、素材がよくないとどんなに調理しても美味しいものはできないのでねえ。だから、私んとこで出す毛ガニは、仕入れが1パイ1万円以上するんですよ。申し訳ないんで、仕入れ価格に、包丁代として1500円だけのっけさせていただいているんです」
(後日談)
「憩」で毛ガニを食べるには、前日の夕方5時までに、毛ガニを食べるという予約を入れなければならなかった。予約を受けて、店主が仕入れに行くのである。
ある時、強力なスポンサーがいて、前日から毛ガニを予約した。
当日。
「すいませんねえ。これはいいと思った毛ガニがちょっとお高くて。仕入れで1万3000円もしたんですよぉ。申し訳ないんで、今日は包丁代を1000円におまけしておきますので、許してください」
謝ってばかりいる店主であった。
店を出ながら、先輩がボソッと言った。
「大道、北海道はいいなあ。いい店だなあ。ホントに美味かった」
その瞬間、なんだか、分かった気になったのである。
「そうか、これが美味しいということなのか」
食べ物が美味しいかどうか判断するときの、1つの軸のようなものが私の中にできあがった。いってみれば、開眼したのである。
「憩」に通う回数が増えた。店の交際費でご馳走になったのは、その成果である。
(余談)
その昔、画廊で店員に
「私、絵画というヤツが全く理解できないんですよ。昔から絵が下手だったこともあるけど、ピカソを見てもルノワールを見ても、何がいいんだかちっとも分からない。ここに架けてある、私が名前も知らない画家の作品との違いがどこにあるのか、見当もつかないんです」
と嘆いたことがある。彼がくれたアドバイスは1つだけだった。
「大道さん、いいものを見続けなさい。高い評価が定まっている絵画をできるだけたくさん見てください。たくさん見ていると、自然に分かるようになるものです」
食い物も同じなのだろう。美味しいものをできるだけたくさん食べる。いつか、美味しいものを見分ける判断力が身に付く。
絵画は、いまだに全く分からないが。
我が生活信条に従って、家族を連れて「憩」に行った。
まず、ホッケの一夜干し、キンキの一夜干し、それにトバを頼み、私は酒を飲み始めた。
妻と子供たちは、思い思いに箸を動かして、ホッケ、キンキに挑んでいる。
ホッケといっても、800円定食のホッケを想像してはいけない。なにしろ、30cm以上もある大型である。脂もたっぷりのっている。味は、定食用のホッケとは比べものにならない。これで同じ魚かと舌を疑いたくなる違いである。当時、1匹1800円。
対するキンキは、1匹4000円。30cm はあろうかという大物である。こいつも脂が充分にのって美味いし、食いでがある。
高い? そう、確かに高い。が、家族で、外で食事をするなんてことは、年に1回か2回しかない。いわば、我が家にとって「ハレ」の日なのである。ケチなことは言いなさんな。
2匹とも、あっという間に綺麗に胃袋に収まった。長男が私を見た。
「お父さん、もう1匹頼んでいい?」
「ん? いいぞ。何が食べたい?」
「ホッケがいい」
我が長男は利口である。親思いである。親父の財布を心配したのに違いない。
「キンキでもいいぞ」
「いや、ホッケがいい。ホッケの方が美味い」
長男を誉めてやりたくなった。確かに、私の舌にも、ホッケの方が美味に感じるのである。家族を連れずに行くとき、通常、ホッケは注文するが、キンキはあまり頼まない。価格の問題ではない。
(余談)
この長男、どうも、私より味覚に敏感な舌を持って生まれたようだ。
東京への転勤が決まった。「憩」の店主に挨拶に行った。というか、飲みに行ったついでに、転勤が決まったことを伝えた。
「いやあ、残念だなあ。せっかく仲良くしてもらったのに。それで、大道さん。転勤前にもういちど店に来てもらえますかね? ちょっとお渡ししたいものがあるし」
「ああ、まだしばらく時間があるし、2、3回は来るんじゃないかな」
これほど美味いものを食わせてくれた店主が、さて私に何をくれるというのか。きっと食い物に違いない。なにしろ、
私が彼について知っていることは、腕のいい調理人であることに尽きる。
彼が私について知っていることは、自分の作るものを高く評価して食べてくれる客であるということに尽きる。
こうした関係である以上、プレゼントは食い物に違いない、と私は見当をつけた。
「この店主が、私に何を食べさせてくれようってか?」
食い意地が張った私としては、涎が出そうなありがたい話である。雨が降ろうが槍が降ろうが、少なくともあと1度は「憩」に行かねばならない。
行った。
いただいたのは、まるまると太ったニシンのぬか漬けだった。2匹、無造作に新聞紙でくるんであった。
「えっ、ニシンをぬか漬けにするの?」
驚く私に、店主は、
「これが美味しいんですよ。でもね、これはものすごく塩がきついから注意してね。食べるときは、3cm幅ぐらいに輪切りにして、ぬかを払って軽くあぶるんですよ。それでね、この、小指の先ぐらいずつ食べるんです。これで酒を飲むと、いくらでも飲めます」
横浜に戻って食べてみた。ニシンの脂がぬかの味と解け合って、しょっぱいんだけれども、いや、これだけしょっぱいと体に悪いだろうなと思うのだけれども、どうしてもまた食べたくなる。本当に美味かった。いただいた2匹が、瞬く間になくなった。
あれ以来、デパートの地下などに出かけると、ニシンのぬか漬けを探すようになった。見かけると買ってみる。
だが、いただいたニシンのように美味いものには、まだ出くわしていない」
「憩」とはそんな店だった。店主が亡くなり、今はもうない。
コピペ、終わり。
さて、経済部長も「憩」の料理に舌鼓を打ってくれたことは疑いない。その場での話である。
なぜそんな話になったのかは記憶にない。私がこんなことをいいだしたのである。
「部長、人間の体にはバランスがありますよね。頭の大きさ、手足の長さ、胴の丸さ。まあ、人によって様々ですが、その変化率は一定の範囲に収まっている。新聞も同じだと思うんですよ。1面や2、3面の総合面は別として、政治面、経済面、外報面、スポーツ面、文化面、社会面、それらがあるバランスを取って朝日新聞になっていると思うんです。いま経済面を2ページから3ページに増やそうとしていますよね。これってバランスを壊すことではないですか? 経済面が人の体に例えるとどこになるのか、経済は下部構造とも言われるから足かも知れませんが、足だけが1.5倍も長く、1.5倍も太くなってしまえば、おかしな体つきになるとは思いませんか?」
部長とは己の陣地をできるだけ広くするのが仕事の1つらしい。つまり、経済部長は経済部が自由自在に操れるページを増やすのが仕事なのだ。そして当時、この部長さんは経済面を2ページから3ページに増やそうと奮闘されていたのである。
それが札幌の地で、ヒヨコのような記者が
「それっておかしくありません?」
と突っかかる。さぞやご立腹されただろうと、今の私は思う。
当時の私は、
「うん、今日は正論を吐いたぞ!」
と意気軒昂であった。世間知らずも甚だしい。
こう見れば、私が何となく、上の方々から敬遠され、「出世」と無縁であったのも
「己が蒔いた種だったのか」
と納得せざるを得ないのである。