2023
10.01

私と朝日新聞 北海道報道部の12 テレビ局に天下れなかった話

らかす日誌

人には相性というものがある。北海道にどうしても相性が合わないデスクがいた。社会部から来た I という男だった。

酒は一滴も飲めない。だが、部下を引き連れて宴会をするのは好きだったようだ。午後7時、7時半ごろになると、報道部に残っている若手に

「おい、飯を食いに行こうや」

とよく声をかけていた。次々と合流する若手が出て、いつも5、6人の集団になっていた。おいおい、あんた派閥づくりに励んでいるのか?
が、私、この I に一度も声をかけていただいたことがない。いや、別に声をかけてもらいたかったわけではない。しかし、これだけ無視されると

「いったい何で?」

と考えてしまうのが人間だろう。だって、私だって彼の部下には違いないのだから。

逆らったことがあったのかな?
うん、これはあり得ることだ。何しろ私は、東京経済部から派遣されたBBである。彼は社会部から来た。であれば、彼が私をどう評価しようと関係ないじゃないか。そんなセクト主義に捕らわれた姿勢が当時の私にあったような気がする。それとも、私の方も初対面から彼に違和感を感じ、

「あんなヤツに使われたくない」

という思いを持ったことを、そんな理屈で自分に納得させようとしていたのかも。
だから、彼が

「これはこういう視点で記事にして」

などと言った時、

「それは違うのではないですか? この問題はこういう風に読み解かないと意味がないと思うんですが」

などと論理的に追い詰めたのではないか。覚えてはいないが、私の性格からすると十分にありうることである。

だから、彼とは親しく話したことはない。もちろん、テーブルを囲んで飯を食ったこともない。そんな I のことをわざわざ書いたのは、30年近くたってヤツのことをすっかり忘れたころになって突然私の前に立ち塞がったからである。

私はちょうど50歳で、BSデジタル放送を利用してデータ放送をしようというデジタルキャスト・インターナショナル(略称デジキャス)に出向した。地上波もやがてデジタル化される。そうなればデータ放送は必須である。だからデジキャスには地方局の若手がしょっちゅう出入りした。仕事の話をし、やがて酒を酌み交わしているうちに、彼らとずいぶん親しくなった。中には

「大道さん、うちの局に来て下さい」

という人物まで現れた。朝日新聞は定年退職者をテレビ局に送り込んでいた。天下り、といってもいい。

最初は気にもとめなかった。しかし、と考え始めたのはデジキャスで3、4年過ごしたころである。
考えてみれば、私は50歳で編集局を出された。ずっと持ち続けていたペンを奪われたのである。そして、編集局に戻る見込みはない。だとすれば、私は中間管理職として朝日新聞の経営の一端を担うことになるのだろう。
しかし、だ。朝日新聞の経営が面白いか? 頭の良すぎるバカが多すぎる会社、とは私が朝日新聞を人に紹介する時のフレーズである。そんな会社は、1人が何を考え、何をしようと、ほとんど変わることはない。大型船が急には曲がれないのと同じである。
それに比べれば、テレビ局の規模は小さい。言ってみれば自在に曲がるモーターボートである。

「経営の一部を担うのなら、テレビ局に行った方が面白いのではないか? 何か俺にも出来る事があるのではないか?」

と考えるようになったのである。
私は天下りを肯定するものではない。たたき上げが経営を担うべきではないかと考える。しかし、現実に朝日新聞からテレビ局にかなりの数が天下っている。誰かがテレビ局に行くのなら、ヤツらより私の方が役に立つのではないか? テレビの若い連中と仕事をするのは楽しいのではないか? そう考えるに至った。

デジキャスから朝日新聞に戻って朝日ホールの総支配人になり、2年半ほどで事業局の何だか分からないポストについた。肩書きだけは偉そうだが、要するに定年待ちのポストである。

その頃、担当専務から声をかけられた。

「お前、定年になったらどうしたい?」

正直に話した。

「テレビに行きたい。それもキー局か準キー局が言い。デジキャスで仕込んだノウハウを生かしてみたい」

この専務(社会部出身)は私のことを気に入っていたらしい。

「分かった。任せろ」

と言ってくれた。
それからどれほどの月日が経ったろう。その専務が退職することになった。彼は私を呼び出し、

「大道、すまん。何とかお前をテレビにいかせようと思っていたんだが、それが実現する前に俺の方が追い出された」

まあ、仕方がない。
代わった担当専務にも同じ質問をされ、同じ答えを返した。やがて

「大道君、長野朝日放送に99%決まった」

と話してくれた。
ほう、長野か。キー局、準キー局ではないが、まあ、朝日新聞の役員にはなっていないのだから、そのあたりにしか行けないのが相場なのだろう。だが、決していやではなかった。早速、計画を立て始めた。
地方局はどこも経営が苦しい。今のままでは整理、淘汰されるのも時間の問題だろう。だったら、地方局を立て直すにはどうしたらいいのか?
よし、自分で車を運転して、長野県下の全ての市町村を回ろう。そして、商工会議所、商工会など経済団体、県庁、市町村の経済担当者に会おう。

「テレビが地元のお役に立つには、何をしたらいいですか? 地元経済を盛り上げるためにあなたたちはテレビ局に何を求めますか?」

そんな質問をして回るのである。生き残るには、テレビが世の中の役に立つメディアになるしかない。局内であれこれ議論をするより、世の中の知恵を借りるしかないのだろう、と私は考えた。

しばらくたった。担当専務が私を呼び出した。何事だ?

「大道君、済まん。長野の話、なくなった」

えっ、だって99%決まったって言ったじゃないですか。

「そうだったんだが、最後の最後になって、今長野朝日に行っている Iという男が『大道だけはダメだ』と強硬に言い張ってつぶれたというんだ。誠に済まない。しかし、君、 I という男と何かあったのかね」

それが北海道で一緒だった I である。いや、何も表だって何かがあった記憶はない。しかし、あの I 、なんでそんなに私を嫌ったのだろう? たいした付き合いもなかったのに。何か逆鱗に触れることでも言っちゃったのかな?

というわけで、定年後の行き先をなくした私は、定年後再雇用の道を選んで桐生に赴任し、今に至るのである。

私の晩年を変えた I 。
しかし、長野朝日放送に役員として行っていた方がよかったのか、それとも部下のない支局長として桐生に来たのが幸いだったか。
歴史に if はないから確かめようはない。だが、いけ好かなかった I の逆鱗を私が刺激したのだとしたら、それも痛快なことではないかと考える私である。