2023
10.14

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の3 バイリンガルの苦労

らかす日誌

「Tokyo Money」の連載は7月から始まった。まず2回目が私の担当だった。掲載されたのは7月13日である。タイトルは「東京トライアングル」。東京の兜町、大手町、内幸町を結んだ三角形の内側、約300ヘクタールの地域に金融機関が集中している。新たに日本に進出しようという外国の金融機関が法外な家賃をものともせず、この地域にオフィスを探しているという話だ。取材した1987年の時点で、東京にある金融機関の約8割がここにあった。

何故狭い地域に金融機関が集中するのか。情報交換のためである。

「だったら、わざわざ家賃の高い地域にいなくても、電話でもファックスでも使えばいいじゃないか」

と考えるのが一般常識だろう。私もそう考えた。でも、金融マンの多くが

「情報交換はFace to faceでなくちゃ」

といった。情報の濃度が違うのだという。彼らの中には企業の垣根を越えた朝食会を開いている人たちもいた。そのためには、指呼の間にいなければならないのだといった。
それは東京だけの話ではない。シティと呼ばれるロンドンの金融街は約260ヘクタール、ニューヨークのウォール街は約270ヘクタール。世界の金融センターの広さは似たり寄ったりなのだ。ロンドンでもニューヨークでも、Face to faceの情報交換が行われているのだろう。

新聞の1ページをまるまる使い、本文は15字、約250行。これに「意見 異見」と題したインタビュー、そしてメモがつく。総行数は400行程度。これを1人で書く。

「東京トライアングル」の書き出しは、こんな具合だ。

「6月23日午後6時前、東京・有楽町の朝日生命日比谷ビル5階にあるファースト・ボストン証券東京支店のトレーディングルームから、債権チーフトレーダーのジーン・デイビスさん(31)が出て来た。『今日のもうけは50万ドルぐらいかな。いい1日だった』と晴れ晴れとしていた。
米国債の相場が急落した4月、ファースト・ボストンは東京、ロンドン両支店合わせて80万ドルの損を出した。それだけに、この日午前5時、自宅からニューヨークへの定時連絡で得た情報にデイビスさんの心が躍った。午前7時すぎに有楽町のトレーディングルームに顔を出し、『相場が強くなりそうなのは米ドル、豪州ドル建ての債権だけ』であることを、朝のミーティングでトレーダーたちに徹底した」

もういいだろう。これを引用したのには訳がある。このジーン・デイビスさんは当然ながら、私が取材した。それも、一部英語で取材したのである。

自慢ではないが、私はバイリンガルである。ただし、日本の標準語と、生まれ故郷大牟田の方言と。たった2つの言語しか話せず、英語はからきしダメな私がなぜ英語で取材する羽目に陥ったのか。

最初はファースト・ボストン証券東京支店を訪れて取材した。
記者仲間には

「神は細部に宿る」

という原則がある。記事は理屈をこね回すのではなく、事実をもって語らねばならないということである。債権のトレーダーは毎朝5時にニューヨークと定時連絡を取り、その情報をもとに債権のトレーディングをしている、と書くより、ある1日、ジーンさんがどんな取引をしたかを詳細に書いて同じことを伝える。そうした方が読者にくっきりとしたイメージを届けることができる。これが記事の書き方である。
だからジーンさんには、あなたの債権トレーダーとしてのの典型的な1日、それもダイナミックな動きをした1日を教えて欲しい、とお願いした。

特筆すべきは、この日はファースト・ボストンが通訳を用意してくれたことである。私は日本語でインタビューし、通訳氏が英語に直してジーンさんに伝える。ジーンさんは英語で答え、通訳氏が日本語に直してくれる。時間はかかるが、標準語と方言のバイリンガルである私が、英語しか話さない取材先から話を聞くには、この方法をとるしかない。

数日たって、この時の取材ノートを開きながら記事を書き始めた。締め切りは目前である。
書き始めると、辻褄が合わないところが出て来た。何度ノートを読み返しても疑問が解けない。これからもう一度アポイントを取って取材に行く? そんなことをしていたら、締め切りに間に合いそうにない。やむを得ない。ここは電話で話を聞こう。

私は、勇気を振り絞ってジーンさんに電話を掛けた。

「Hello, this is Gene, speaking.」

当然のことながら、受話器から英語が飛び出した。彼には日本の標準語も、大牟田方言も通用しない。私も英語を駆使せねばならない。

「Hello, this is Mr. Daidoh, writer of Asahi-Shimbun news paper. Do you remember me?」

そんな拙い英語で会話は始まった。
ほとんど忘れかけた中学英語を思い出しながら質問を重ねる。英語で戻って来る答えは、

「Pardon?」

を何度も繰り返しながら、何とか私が理解できるところまで追い込む。
30分もかかったろうか、どうやら、1回目の取材で聞き漏らしていたことの埋め合わせができて、記事を書けるまでになったようである。
だが、電話取材はそれでは終わらなかった。

「Mr. Gene, are there anybody in your office who can speak Japanese?

と私は 聞いた。

「OK. Wait a moment.」

という返事が戻ってきた。そして、電話に出てくれた日本語会話可能な方に、私は

「いまジーンさんと話をして、こんな返答をもらったと思っているのですが、それで間違いがないか、ジーンさんに確かめて欲しいのですが」

とお願いした。誠に恥ずかしい話だが、私の英語力で正しい記事を書くには、そんなことはいっていられない。
受話器の向こうで、2人が話しているようだった。しばらくして

「はい、間違いないようです」

という返事をもらって、私は胸を撫で下ろした。私にも、英語で取材できた!

受話器を置いて驚いた。ジーンさんと話しながら、私は英語でメモを取っていたのである。恐らく、話を聞く⇒日本語に翻訳する⇒メモを取る、という時間がなく、翻訳を省いたためだろう。それとも、英語で話していると、全身が英語モードになるのか。いずれにしても、日本語で取材するときは日本語のメモを取り、英語で話を聞くと、メモも英語になる。それが何だか面白く、いまだにくっきりと覚えているのである。

いまもって私はバイリンガルのままである。あの時、一念発起して英語に挑んでいたら、英語も含めたトリリンガルに成長できていたのかもしれない。
いや、待て。あのころ、海外出張を控えた私は、英語に挑んだような記憶がある。シドニー・シェルダンの本をオーソン・ウェルズが朗読したテープを購入、通勤の途上でウォークマンを使って聴いたのが1つ。英語のペーパーバックを買い求めて読んだのが1つ。確かに私は英語に挑んだ

それでも、いまだに私はバイリンガルにとどまる。語学の才に恵まれなかったのか。挑んでも実現しないこともあるのである。