2023
11.02

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の21 グランドケイマンでの亀料理

らかす日誌

グランドケイマンに到着したのは夕刻だった。まず、予約してあったホテルにチェックインする。次はお腹を満たさねばならない。
メキシコシティから続いていた腹痛は、旅の途中で服用した「ワカ末」の効果だろうか、小康を得ていた。しかし、あくまで小康である。腹の具合の悪さは相変わらずだ。それでも朝からほとんど何も口にしていない私は、食べねばならない。明日からは仕事をしなければならないのである。

ホテルのパンフレットで知ったが、ケイマンの名物は亀料理である。亀。日本にすっぽん料理はあるが、亀一般の料理は聞いたことがない。これは口にしてみるべきだろう。私はそう決心した。
さて何が起きたか。これも「グルメらかす」から該当箇所をコピペしよう。

ケイマンの地元料理、それはである。
亀は、ケイマンの特産品である。ケイマンは海亀の産卵地で、陸に上がった海亀は、砂浜に卵を産み落とす。しかし、この卵は、放っておくと天敵に荒らされることが多い。ために島では、産み落とされた卵を掘り起こして孵化室に運び込む。時至って孵ると、半分は海に戻し、半分は島の特産品として様々なものに姿を変える。海亀の生存確率2分の1は、残酷なようでもあるが、自然の手に委ねていれは、生存確率はずっと小さい。
残酷なのは、人か、それとも自然か。
自然との共生、というよく分からない言葉が、分からない概念が、分からないまま、でも大変なプラス価値を担わされて、広く用いられているのが、いまの時代である。人と自然。じっくり考えてみるのも面白い。

ちょっと脱線してしまった。
要は、この人間の取り分とされている2分の1が料理に姿を変える。それが亀料理である。せっかく、はるばると、カリブ海の島までやってきたのだ。「グルメに行くばい!」の著者が、特産品、名物料理を試さずしてどうする?

と、一向に働き始める兆しのない胃をなだめながらレストランに入り、テーブルについた。メニューを見る。

 亀のステーキ 
 亀のスープ 
 亀の○○ 
 亀の△△ 
 亀の□□ 
 亀の×× 
   ・ 
   ・ 
   ・ 
   ・ 

目から入ってきたメニュー情報に、胃袋が悲鳴を上げた。

「冗談じゃねえや。病み上がり、いや、ひょっとしたらまだ病んでる最中かもしれない俺に、そんなものを詰め込むのかよ。よせやい!」 

食指が全く動かない。が、何かを食べないことには、今日が乗り越えられそうにない。
目を皿のようにしてメニューを見た。食べられそうなものを探した。

ずらずらと書き並べられた料理の中で、1つだけピカッと光るものがあった。

Turtle stew 

である。
亀のシチューである。

私の頭の中に、時折自宅で食べるシチューが現れた。失敗作と自認した「手羽先のクリーム煮」を思い出した(この料理に関しては、「 グルメに行くばい! 第6回 :キャベツを食う 」をご参照下さい)。
あの、たっぷりしたスープの中に、肉や野菜が入っているやつだ。味つけは塩、胡椒と牛乳。香辛料も少々、最後にクリームも忘れず、というところである。どちらかというと、刺激のないマイルドな味の料理だ。しかも、中の具は充分に煮込んであるから、食べやすく胃に優しい。病み上がりの胃に最適な食べ物である。
と判断した。

“Turtle stew, please.” 

10分ほどして、ウェイターが料理を運んできた。テーブルに置かれた料理を見て、

「このウェイター、注文を取り間違ったのではないか?」 

と怒りに近い疑問を持った。
テーブルに置かれた皿に載っていたのは、何かの肉の煮込みである。一口大の肉の塊が10個ほどある。ほかはマッシュポテトやトマトなど、いわば付け合わせの野菜である。
私が頭で描いた「たっぷりしたスープ」などどこにもない。そもそも、スープなどどこにも存在しない。
これが、なにゆえに「シチュー」であるのか? 人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!

ウェイターにクレームを付けようと顔を上げた瞬間、私の頭の中で何かが弾けた。

「ひょっとして……、ひょっとしてシチューって、煮込み料理のことなのかな?」 

どこでそのような知識を身につけていたのかは不明である。なぜか、我が食の歴史の中では確固たるものであった「シチュー=たっぷりしたスープ」の関係に亀裂が入ったのである。

「てめえ、なに間違ってやんだよ! こんなもん、頼んじゃねえよ!」 

と叫びかかった口からは、

 “Is it the turtle stew?” 

という優しい問いかけの言葉が出てきた。

“Yes, Sir.” 

と答えが返ってくると、思わず、

 “Thank you.” 

とにこやかな笑顔を返していた。

かくして、私の前には、煮込んだ亀の肉といくらかの野菜が残された。病み上がりの胃は、拒否信号を送ってくる。
その胃をなだめつつ、まず、トマトを口に運んだ。マッシュポテトに挑んだ。思い切って、亀の肉も口に放り込んだ。
同じ順番で、2順目に入った。ここまではなんとか完走した。
3順目に入った。トマトはこなせた。マッシュポテトも胃に落ち着いた。亀の肉にフォークを刺した。が、肉がどうしても持ち上がらなかった。
私の、ほぼ30時間ぶりの真っ当な食事は、かくして完遂されることなく、途中で放棄された。
亀の肉の味?
そんなもん、味わうゆとりはなかった。なにしろ、たった二口、無理矢理口にしただけなのである。無理矢理咀嚼して胃に送り込んだだけである。全く記憶に残っていない。

考えてみれば、ケイマンまで足を運ぶことなど2度とないであろう。あれがケイマン産の亀の肉を味わう唯一の機会だったのである。惜しいことをしたと心から思う。いまの私なら、人生の残り時間が徐々に減ってきた現在なら、死んでも全て平らげたであろうと思う。若さとは、弱いのもである。
あれもこれもすべて、メキシコシティのサラダの余波なのである。

という結果になった。この病み腹、空きっ腹で私は、グランドケイマンの取材をしなければならない羽目に陥ったのだった。