12.28
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の57 福岡のマンション狂想曲
フロント面で中古マンションの価格動向を特集したことがある。このころ、中古マンションは全国的に値下がりしているといわれていた。本当だろうか? というのが私たちの思いだった。
「編集部調査報告」とうたった特集の第1弾にはこんな見出しが躍った。
値崩れ始めた中古マンション
⚫️下げ目立つ千葉⚫️売買成立せぬ仙台⚫️底値見えない関西圏
指し値買いは常識 売り手には「冬の時代」
確かに、中古マンション価格は下がっていた。紙面では全国の84物件の1989年10月、90年4月、90年11月の店頭表示価格を一覧表にまとめた。まだ上昇を続けていたのは札幌市程度で、表示価格が上がっている仙台ではほとんど売買が成立しておらず、これから店頭表示価格も下がるという。ほかの地区はおしなべて90年4月が最高値で、この年の11月には下落に転じていた。ここにもバブル経済の崩壊が見て取れた。
このフロント面を作るため、ウイークエンド経済の編集部員は全国に散った。そして、そのうちの1人が、面白い話を聞き込んできた。福岡市の中心部で、この1年にマンションの異常な値動きがあったというのである。何でも、関西からやって来た不動産業者が中古マンションを買い漁り、その動きに地元や東京の投資家も乗ったため中古マンション価格が急騰した。ところがあまりに高くなって買う人がいなくなり、価格が急落しているというのである。
「面白い!」
私たちは興味深い出来事に出くわすと「面白い」と表現することが多い。これを取材して記事に出来れば読者に何かを伝えることができるはずだ、という意味である。
需要と供給の関係で価格が決まるのは資本主義経済の原則である。バブル時代、株式市場では買いが売りを大きく上回った。
「まだまだ株は上がる」
という投資家が多かったのである。そのため、株価は天井を知らないかのように上昇を続けた。
中には、力業で株価を上げた不心得者もいただろう。いわゆる株価操作である。ある銘柄を集中的に買って株価を釣り上げる。
「えっ、何が起きているんだ?」
とこの株価急上昇に相乗りしようという投資家がこの銘柄に集まってきて株価はさらに上がる。そのころ、この株価急上昇を仕掛けた投資家は手持ちの株を売り抜けて莫大な利益を得るという仕掛けである。
福岡の中古マンションで起きた異常な値動きは、これと同じだろう。不心得な業者が中古マンションを買い占め、供給をほぼゼロにする。これに小口の投資家も便乗する。大量の買い注文のためマンション市場で需給バランスが壊れて価格が急上昇する。買い占めた業者は高い価格で中古マンションを売り抜け、利益を独り占めする。しかし、高くなりすぎたマンションを買おうという人は限られている。やがて買い手がなくなり、需要—供給の関係が逆転して中古マンション価格は急落してしまう。
典型的なマネーゲームである。よし、バブル紳士たちの姿を見てみようじゃないか。
数人の記者が、今度は福岡に飛んだ。何故か私は取材チームには入れてもらえず、東京に残留した。
「大道さんは元締めでいてもらわなくっちゃ」
とは、若手が言った言葉である。若手が燃えている。中年の記者は引っ込むしかない。
そして数日後、出張から戻った若手たちは、自分が取材した話を原稿にまとめた。全員の原稿が私の手元に届き、私はそれをつぎはぎして1本の原稿にまとめた。いってみれば、私はアンカーだった。
「編集部調査報告第2弾」
と銘打った記事には、こんな見出しがついた。
狙われた町、福岡
中古マンション狂想曲
買値2、3割高
姿を消した売り物件 価格急騰、まるで仕手戦
そしてだれも買えなくなくなった 大阪周辺にも広告攻勢
節税と値上がり期待 悔い残す小口投資家も
この見出しだけでも記事の中身はおおむね想像していただけるだろう。
この記事には、福岡の中古マンションの値動きのグラフもつけた。それによると、1989年8月には3.3㎡あたり140万円前後だったのが、1990年2月には300万円を突破した。それがピークで10月には215万円程度まで急落した。
私たちが取材に入ったのは1990年の末だったと思う。その年の2月、地元の西日本新聞にこんな見出しの不動産広告が載っていた。
「高いと思いませんか? 福岡のマンション」
広告主は地元の不動産会社である。この広告には
「ここ2,3年のマンション値上がりは、土地や株などと同様に、投資や投機の対象になってしまったことが第1の大きな原因です、。しかしマンションは本来、お金を増やすためのものではなく、使ってこそ価値があるものではないでしょうか」
などと書かれていた。不動産を専門にする会社が広告費を使ってまでこんな訴えをせざるを得ないほど、マンション市場が荒れてしまったのである。
仕掛けたのは大阪市の関西建物という不動産業者だった。私たちはもちろん、この会社も取材した。だが社長は取材に応じることはなく、
「ノーコメントにさせていただきます」
という返事が文書で届いただけだった。それも紙面に掲載したのはいうまでもない。