2024
01.16

私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の20 それにしても、加藤会長という人は……

らかす日誌

それにしても、である。加藤東海銀行会長への周りの評価は驚くほど低かった。

「だが、名古屋財界のトップと言われる名古屋商工会議所の会頭になっていたではないか。評価は高かったのでは?」

という反論もあろうが、加藤会頭の前後を見ても、東海銀行、名古屋鉄道、トヨタ自動車、松坂屋など地元を代表する企業のトップが座る場所である。重視されるのは個人ではなく、企業なのだ。それに加藤氏、何とその名商会頭の座を追われることになったのである。

きっかけは、1991年、名古屋にボストン美術館を誘致しようということから始まった。ボストン美術館は大森貝塚の発見者として知られるエドワード・モース、日本美術の収集家として名高いフェノロサたちが集めた日本の美術のコレクションで有名である。国宝級とも言われる「平治物語絵巻」を始め、歌麿や北斎の浮世絵、仏教美術、刀剣などを所蔵する。その姉妹館を名古屋に誘致し、

「海外に流出した国宝級の日本美術品を名古屋で見られるようにしたい」

という構想で、名古屋商工会議所が旗振り役を務めた。当然のことながら、当時名商会頭だった加藤氏が、「名古屋ボストン美術館設立準備委員会」の委員長に就任した。
なるほど、素晴らしい構想である。ボストンまでわざわざ出かけなくても、名古屋で日本美術の至宝を見ることができればこんなにいいことはない。誘致運動は盛り上がるかに見えた。

ところが、間もなく暗雲がたちこめ始める。1993年11月になって、準備委員会の中で叛乱が起きたのである。きっかけはボストン美術館が新たに示した条件だった。日本の美術品だけを展示したいという名古屋側に対し、ボストン美術館はアメリカ装飾美術・彫刻、ヨーロッパ装飾美術・彫刻、アジア美術など、ボストン美術館の10部門のすべてを平等に展示したい、と言ってきたのである。
29日に拓かれた準備委員会では異論が続出した。

「それでは魅力がない。客が集まらず、運営上の問題になる」

というのである。
それだけではない。当初に双方で交わしていた覚書に

「名古屋に通知の上、日本の他の団体にも短期間、貸し出せる」

という条件があったことへの反発も噴出した。

話を少し飛ばすと、名古屋ボストン美術館は1996年2月に開館している。だから、93年の混乱は交渉の過程で起きた一過性の出来事だったともいえるのだが、その裏にあったのは、もう加藤体制には我慢が出来ないという経済人たちの思いだった。加藤体制に不満を募らせていた名古屋商工会議所の役員たちが、名古屋ボストン美術館の誘致に暗雲が漂ったのを好機に、加藤会頭に

「交渉が上手く行かないのはあんたの責任だ」

と辞任を迫ったのである。そしてここの日、加藤さんは名古屋商工会議所の会頭を辞任した。

この叛乱劇を描いた記事がある。

「名古屋商工会議所の会頭交代劇で、副会頭に退任を迫られた加藤隆一前会頭は、態度を決めるまで退任か続投かで揺れ動いていたことが、関係者の話で明らかになった。最終的には、伊藤喜一郎東海銀行頭取らが加藤氏に、豊田英二トヨタ自動車名誉会長、田中精一中部電力相談役に相談するよう勧め、両氏の説得を加藤氏が受け入れた。
副会頭が加藤氏の退任に動いたのは11月23日。名古屋市内のホテルで、内藤明人リンナイ社長、神尾秀雄トヨタ自動車相談役、西川俊男ユニー会長、三輪隆康興和社長、白石国彦東陽倉庫相談役の5人の副会頭が加藤氏に会い、辞任するように申し入れた。谷口清太郎名古屋鉄道社長は名古屋にいなかったため参加しなかった。『まさかの場合は谷口さんをかついで戦うつもりだったから、本人は欠席でもいいと思った』と副会頭の1人。
加藤氏は、激しい議論の末この申し入れを受け入れたものの、翌日には撤回、続投に動き始めた。
『選挙もやむを得ない』と腹を固めた副会頭たちはまず谷口氏を候補に推した。だが、現役の社長では無理と固辞して神尾氏が浮上。同氏もトヨタ自動車が名古屋の企業ではないなどとして引き受けず、一時は内藤氏の名前も挙がった。結局、副会頭たちが名鉄の梶井健一会長に谷口氏の出馬を要請、了解を得て、谷口氏を候補に選挙準備を進めた。
この間、副会頭たちから相談を受けた豊田、田中氏側から『円満解決には時間が足りない。決着を来年3月まで待てないか』と妥協案も示されたというが、副会頭側は拒否、選挙の票固めに入った。加藤氏も『副会頭全員の解任』をいい、混乱する気配を見せ始めた。
一方、加藤氏の出身母体の東海銀行に対して経済界から『加藤氏の進退は、『東海銀行の責任でもある』との批判が強まり、これに押されるように伊藤頭取も、豊田、田中両氏に相談するよう加藤氏に進言した。
28日、加藤氏はまず田中氏と名古屋市内のホテルで会い、続いて豊田市の豊田氏宅に向かった。
加藤氏によると、両氏は『選挙ということになると、名古屋財界の恥を外にさらすことになる。それだけは避けて欲しい』と要請、加藤氏は翌29日、名商の正副会頭会議で退任を表明した」

これは私が書いた記事だと思うが、実にまずい文章である。繰り返しが見られ、何となく混乱している。当時の私はこんな文章しか書けなかったか? それとも、デスクが変な筆を入れた結果、こんな文章になってしまったか。
いずれにしろ、名古屋商工会議所の副会頭全員が加藤会頭に辞任を迫って混乱一歩手前ま行った当時の動きをご理解いただければよろしい。つまり、加藤頭取は名古屋経済界の鼻つまみ者になっていたのである。

それでも、何とか会頭職にしがみつこうとする。凄まじいまでの権力欲である。一連の東海銀行の不祥事で、加藤氏は前年の92年、取締役相談役に退いていたから、名商『トップ』の位置だけは何としてでも守り通したかったのかもしれない。

この戦いに敗れた加藤氏は翌94年に東海銀行の取締役を退任した。加藤氏の晩年を見れば、跡を濁して飛び立った鳥というしかない、と私は思うのである。