2024
01.17

私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の21 東京の部長には嫌われていたらしい

らかす日誌

2度目の名古屋勤務は3年半の長きにわたった。長男はこの間に高校を卒業し、みごとに1浪の身となっていた。長女は国立音楽大学附属高校の2年になり、次女は地元の公立中学生である。月に1度しか帰省しなかった私は、父親らしいことはほとんどしてやれていない。それでも、子どもたちはそれなりにまともに育ってくれたようだから、親がなくても子は育つのかもしれない。

2度目の名古屋勤務が3年に近づいた頃だったと思う。名古屋経済部長から異動の打診があった。

「大道君、札幌のデスクはどうだろう」

「北海道報道部」で書いたように、札幌には一度赴任したことがある。また札幌に戻り、今度は兵隊ではなくデスクをやらないか、というのだ。

朝日新聞で北海道報道部のデスクになるということは、出世レースから完全に脱落するということである。いや、経済企画庁担当の時に、後に社長になる経済部長と喧嘩をしてしまった私である。すでに出世レースからは脱落したという自覚はあった。だから、それはあまり気にならなかったが、気が進まなかった。

「えーっ、もう取材できないのかよ」

という思いである。私は記事を書きたくて新聞記者になった。青臭い立身出世主義をまったく持たなかったなどときれい事を言うつもりはないが、生涯一記者でありたいという思いの方が強かった。
加えて、妻女殿の健康問題があった。30代、札幌にいた時に発症した膠原病である。本来自分の身体を守るはずの免疫システムが自分の体を「敵」と誤認して攻撃する難病である。原因不明、治療法なし、薬剤で何とか現状維持を図るしかなく、年齢を重ねて体力が落ちればその分、症状も重くなりがちである。
そんな家族を抱える以上、単身赴任は出来れば解消したい。札幌のデスクになるということは、単身生活が続くことである。私は

「それは困ります。東京に戻していただきたい」

と、家庭の事情を含めて説明し、異動の打診を拒否した。

「そうだろうなあ」

と部長はいったが、さらに言葉を重ねた。

「東京の部長が、大道はいらないと言ってるんだ」

ほーっ、私の敵は電話で喧嘩をしたあの部長だけかと思っていたら、新しい部長も敵なのか。私は朝日社内にどれだけ敵を抱えているのか?

もっとも、上司に認められないのはたいしたことではない、というのが、この頃獲得した私の哲学だった。
あまり接触する機会のない上司が部下を判断する基準は。原則的には仕事ができるかどうかである。朝日新聞には光り輝く俊秀がきら星のごとくいた。私の仕事がその中で平均値まで届いていたかどうかは疑わしいところである。それで判断されるのなら仕方がないことだ。しかし、上司も人間である。好き嫌いがある。擦り寄ってくる部下は可愛かろう。ヨイショをする部下はそばに置きたいに違いない。そんな実例を数多く見てきた。であれば、上司の評価なんて、部下の一面しか見ていないことになる。
しかし、一緒に仕事をする後輩から認められないとなると話は違ってくる。彼らとは毎日顔を合わせ、酒を飲み、仕事の分担を決め、督励し、時には相談にも乗る。だから彼らは私の仕事の出来不出来だけでなく、私の全人格を見ているはずだ。彼らに評価されないとなると、私は何物でもないことになってしまう。
幸い、2度目の名古屋では2度に渡る東海銀行のスキャンダルの取材を私が前線で仕切り、取材合戦に勝利を納めた。みんな私についてきてくれた。少なくとも、見捨てられはしなかった。だとすれば、私は何者かではあるはずである。それでいいではないか。

しかしなあ、東京の部長が私を採りたくないとすれば、私は東京経済部に戻れるのか? ま、人生、なるようにしかならないとはいうものの……。

その私に東京転勤の辞令が出たのは、それから半年ほどしてからのことである。私を嫌っていた東京経済部長がなにゆえに私を受け入れる気になったのか。そのあたりは不明である。ひょっとしたら名古屋経済部長とはある程度の信頼関係を築けていたので、彼が必死にかき口説いてくれたのか。

私は荷物をまとめて引っ越しの準備をし、あの加藤氏の

「大道さん、私はあなたを許します。東京でもご活躍下さい」

という送別の辞を受けて、横浜との往復に使っていたホンダ・アコードに身の回りものを積み込むと横浜に旅立った。3回目の東京赴任への出発である。