2024
03.12

私と朝日新聞 デジキャスの3 サンノゼに行った

らかす日誌

営業に動き回る日々を送っていた2000年4月、突然私にラスベガス出張の命令が朝日新聞から下った。すでにデジキャスの社員になっている私に、朝日新聞が出張命令を出すとは、いったいどういうことだ? とも思うが、未踏の地、歓楽の都、ラスベガスに社費で行けるのはこの上なくありがたい。

といっても、何もルーレットで一儲けするのが目的ではない。そももそ私は、賭け事が苦手である。生来のケチ根性がムクムクと顔を出して、負けた時のことしかイメージできないのである。金をなくすためにギャンブルをするバカはいない。負けるイメージしか思い描けない私にはギャンブルができないのである。

全米放送事業者協会(NAB=National Association of Broadcasters)が毎年開いている放送機器展示会を見るのが目的だった。この展示会には、最新の放送機器、技術が世界中から集まる。私はこれから始まるデジタル放送を利用したデータ放送を普及させる会社に所属している。最先端の技術動向は頭に入れておかねばならない。

と偉そうなことを書いているが、この出張は私が企画したのではない。私はそんな団体があることも、催しが開かれることも知らなかった。

「大道さん、こんなのがあるんだけど、出張しない?」

と私に持ちかけたのは、朝日新聞電子電波メディア局で机をなべていた同僚だった。時事通信から朝日新聞に転じ、政治部記者を経てなんとか仏長になっていたWa君である。ひょっとしたら、ぬるま湯の朝日新聞を追い出され、新規事業立ち上げなどをやらされる私に同情したのかもしれない。自分の金を使わない餞別ともいえる。
そして、その餞別は念が入っていた。朝日新聞での出張の手配はすべて彼がやってくれた。その上、当時の朝日新聞では、海外出張はエコノミークラスを使うことになっていたのに

「大道さん、ビジネスクラスにしましたから」

という。
いったいどんな手を使えば社内のルール破りともいえるビジネスクラスでの出張を勝ち取ることが出来るのか。私にはぜったにできないことである。朝日新聞には私が知らなかった闇の世界があったらしい。

その出張の話を書こうと思ったら、前に「グルメらかす」で書いていたことを思いだした。リンクを張って飛んでもらうこともできるが、ここも読者の手間を省くためにコピペしよう。いまでは不適切と思える箇所は修正し、付け加えるべき事があれば付け加えるのはいうまでもない。
元々は「グルメ」の話を書いたシリーズの一部である。食べ物の話が多出するのはご容赦いただきたい。

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これから始めるのは、腰痛の話である。しかし、単なる腰痛の話ではない。これほど悲惨な腰痛が世の中にあったのかと、読む人を涙に暮れさせる、書くも涙、読むも涙の腰痛の話である。
お読みになるあなた、ハンカチかティッシュペーパーを手元にご用意願いたい。
あるいは、笑い止めの特効薬があっても役に立つかもしれない。人の不幸は蜜の味、なのだから。

ワインのメッカ、カリフォルニアのナパバレーを2度目に訪れたのは、2000年4月のことだった。全米放送協会(National Association of Broadcasters=NAB)が毎年4月にラスベガスで開く展示会を見に行ったついでだった。
NABといっても、放送関係者、放送機器メーカー従業員以外に知る人は少ないに違いない。だが、この展示会には、最新の放送機器、技術が世界から一堂に集まる。ために、米国だけにとどまらず、全世界から放送関係者が集う。これを見ずして業界関係者を名乗るわけには行かないのである。当然、日本からも大量に押し掛ける。

デジタル技術を駆使し、テレビを情報端末にしちゃうデータ放送を専らとするデジキャスはその年2月に創業したばかりであった。順風満帆の船出をし、日本の有用なインフラに育つには世界の最先端技術を知らねばならない。

「大道君、行ってこい」

私は社命で、この「大量」の1人になるべく、成田を飛び立った。

(余談)
会社員を長くやっていると、ときには、こんな美味しい話が落ちてくる。
これは、美味しい話には落とし穴があるという腰痛の話である。

が、いくら社命の出張であっても、重大な使命が課せられていようとも、どこかにゆとりは持っておきたい。

「ラスベガス? だったら、サンノゼに寄っていこうぜ」

遊びだけが目的だったわけではない。

ご存じのように、サンノゼは米国のIT産業を支えるシリコンバレーの中心地である。ここに、朝日新聞の子会社の現地事務所がある。新聞もデジタル化を迫られていた。朝日新聞として最先端のデジタル技術、デジタルを使ったサービス、仲でも新聞をWebで配信する米国企業の動向に目を光らせる狙いである。
加えて我々は、日本のテレビのIT化を担う存在である。中核になろうとする会社である。せっかくラスベガスまで行くのなら、表敬訪問を兼ねてサンノゼを訪れない手はないではないか。

かくして私は、まずサンノゼに足を降ろした。

(余談)
このようなまじめさが起因となった腰痛の話である。

「よっ、久しぶり」

空港まで迎えに来てくれた朝日新聞の現地駐在員は、旧知のO君であった。

「まずホテルに荷物を降ろしてさ、飯食いに行こうよ。ホテルも手配しておいたから」

O君は、なかなか気が利く。手配に抜かりはない。ホテルを出て案内されたのは、イタリアンレストランであった。

アメリカに来たのは、これが4回目である。4回目になっても、食事をするたびに、同じ思いに囚われる。

「アメリカで生まれて、アメリカ式の食事をし続けて、明日も生きていこうという元気がどうして出るのだろう?」

とにかく、食べて良かった、美味しかった、という代物にぶつかったことが、まずない。ホテルでもレストランでも、世を儚みたくなるものが堂々と給される。

美味しいものを口に入れ、我が味覚を充分に満足させることが人生の喜び、楽しみの1つであることを歌い上げようと始めた「グルメで行くばい!」の立場からは、とても容認できない食文化である。

(例)
別の機会に、サンフランシスコで、国際会議にも使われる高級ホテルに泊まった。朝食をとるべく、ホテル内のレストランに向かった。メニューを見る。いくつかの定食メニューの中に「Japanese」なるものがあった。日本語にすれば「和定食」か。注文した。
どんぶりに山盛りになったカリフォルニア米がきた。やや臭う。幅20cmもあろうかという塩ジャケがあった。でかいなと思ったらキングサーモンで、しまりのない味だった。味噌スープがついていた。ノリも漬け物もあった。
驚いたのは、納豆である。小鉢に山盛りになった納豆である。しかもグランド・ケイマンの「The Mountain」程度の盛り上がりではない。日本の富士山なみの盛り上がりなのである。
納豆とは、まずかき混ぜてかき混ぜてかき混ぜて粘りを出し、少量の醤油と塩を加え、再びかき回してかき回してかき回して食べるものである。それが最も美味しい食し方である。日本の一部には、砂糖を加えて食べる地方があるが、邪道としか思えない。現に、砂糖を加えて食べるという話を聞いたとき、私は吐き気を感じた。
アメリカの納豆は、さらに驚異である。この山盛りの状態で、どうやってかき混ぜろというのだろう? ほとんど粘りのない納豆を、どうやって食べろというのか? 
考え込んだ末、納豆の半分は醤油も何もかけずに食べた。やむを得ざる行動だった。量が減ってからかき混ぜ、醤油を加えた。
こういうのを、一粒で二度おいしい「お値打ち料理」と評する向きもあろう。が、私の好みではない。

我々は、オニオンリング、サラダなどを全員でシェアするために頼み、白ワインをとり、個々にスパゲティを注文した。私はナポリタンにした。

やがて、料理が運ばれてきた。スパゲティを一口食べて、サンノゼもアメリカであることを確信した。私が口にしたのは、トマト味のあんかけうどんであった。

だが、そのショックで腰痛になったのではない。

(余談)
アメリカの食事はまずいという私の説に異を唱える人が2人いる。
1人は、何度も登場する同僚のHa氏だ。私以上に米国経験がある彼は、
「サンフラン(彼は、サンフランシスコを、このように略す。嫌みである)にも、ちゃんと探せば美味しいところがあるの」
という。
「何という店?」
「どこにある?」
という矢継ぎ早の質問には、同じ答えしか返ってこない。
「忘れた」
よって、あまり信をおけない。
いま1人は、この日記の愛読者で、ニューヨークにおられる、これもH氏である。いただいたメールに、ニューヨークには本場よりも美味しいシチリア料理を出す店がある、とあった。
なるほど、ゴッドファーザーのビトー・コルレオーネが地歩を築いたのはニューヨークである。彼らはスクリーンの中で美味そうなものを食っていた。確かに美味いイタリア料理はあるかもしれないなあ。行く機会があったら探してみなくては。

一夜、1時間ほど車を飛ばして、日本食を食べに行った。サンノゼ在住の日本人が、和食が恋しくなると通う店だとの解説付きであった。
寿司がある。刺身がある。煮魚がある。焼き魚がある。テンプラがある。豚カツがある。要するに、和食と名のつくものであれば、おおむねのものがある。
日本で美味いものを食べたくなったとき、このような何でも屋に行くか? 私は行かない。専門の店の暖簾をくぐる。
その程度の店であった。1時間の道のりを走破する意味はない。自宅で、自分で作った方がましである。私がここサンノゼに住むことになったらそうする。
だが、その落胆も、腰痛の原因ではない。

別の夜、サンフランシスコまで出かけ……、
いや、このあたりでやめておこう。私は食べ歩きをするためにサンノゼに立ち寄ったのではない。
いずれにしても、私がアメリカの食に対して抱いている偏見を、さらに強める体験しかできなかった。

では、なにゆえにサンノゼに立ち寄ったのか?

勉強会を開いた。サンノゼ駐在員O君も、我々と一緒にNABの展示会に行く。であれば、彼も、日本で始まるデータ放送に関する知識を頭に入れておいた方がいい。
勉強会の講師役は、もちろん私が引き受けた。

・テレビが情報端末になる
・情報は電波に乗り、受信機内のキャッシュメモリーに蓄積されたあと、視聴可能になる
・従って、チャンネルを合わせたあと、情報をキャッシュするための待ち時間が発生する
・使用言語は、インターネットの世界で使われるHTMLではなく、日本だけで使うことを前提に開発されたBMLである
・双方向には受信器内蔵の2400bpsという、極めて遅いモデムを使う
・扱えるのはテキストと静止画で、インターネットのようにプラグインを使って動画を再生するなどということは不可能である
・テレビ番組を補完するためにデータ放送を使う「連動型」と、データ放送だけでサービスをする「独立型」がある
・簡単なゲームもできる

質疑応答もした。勉強会は4、5時間に及んだ。

(解説)
以上は、データ放送の初期のスペックであり、現在はさらに優れた機能が付け加わって充分実用に耐えるものになっている。ご自宅のデジタルテレビで是非体験していただきたい。

アップルコンピュータ本社を見物した。
私は、自他共に認めるMacフリークである。ウインドウズ一色になった世の流れに、あえて、確信を持って逆らうものである。サンノゼまで来ながら、Macを世に送り出してくれたアップル本社を表敬訪問しないという選択はない。
スティーブ・ジョブズに会いたかった。現地駐在員の車でアップル本社を訪れた。
誰も会ってくれなかった。
アップルストアが併設されていた。覗いた。展示されているパソコンは、全てMacだった。誰にも会えなかった失望が消えた。なんだか心がわくわくした。

表敬訪問の記念に、何か買っていかずばなるまい。いまなら、末娘が喉から手が出るほどほしがっているiPod miniを迷うことなく買う。だが、当時はまだ世の中に存在しなかった。アップル本社内のショップといえども、世の中に存在しないアップル製品を売ることはできない。

(余談)
さきごろ、末娘には、iPod miniを買ってやると約束した。最初は今年の4月に出るはずだったのが、米国で売れすぎて生産が間に合わないとかで、日本発売は7月に延期された。
この日記をアップする2004年7月23日時点で、私はiPod miniを予約中である。予約している店に入荷したら、着払いで自宅に送ってくることになっている。
ために21日夜、妻に3万円手渡した。娘は、箱根に遊びに行っていた。
代金を手渡す重要な儀式に立ち会わなかった我が娘に、買っていただいたことに対する感謝の念が生じるのかどうか。
単なる「脛の囓られ損」に終わる恐れもある。

何を買うか考えながら、店内を3周した。我が家には、必要なソフトウエアはすでにある。周辺機器も、とりあえず揃っている。さて、どうしたものだろう?

1つだけ目に付いた。「Toy Story」のゲームである。我が家の末娘は「Toy Story」のファンである。末娘の歓心をかうには、格好なお土産である。たまには自分でも遊びたい。

さて、自分用は何にする?

さらに1周回った。アップルのロゴ入りデイパックが目に入った。子細に点検した。革製と布製があった。心が揺れた。布製は39ドル(だったと思うが、不確か。69ドルということはなかったと思うが)、革製はその3倍ほどする。当然、質感は価格に従い、革製の方がはるかに上である。

「どっちにする?」

迷った。迷いながら、ショップの中をまた2周した。

「いっそのこと、買うのはやめるか?」

また1周して、デイパックのところに戻った。やっぱり欲しい。

「うーん……」

中の1つを掴んで、レジに向かった。お金を払った。車に戻り、包装を解いた。出てきたのは布製であった。

(余談)
横浜の自宅に戻って、なぜ革製にしなかったのか、後悔の念に苛まれた。何度も書いたが、幼児期の生育環境に起因するケチ根性が、またもや現れてしまったのである。

ここらあたりで、冒頭の2つ目のフレーズに戻ろう。そう、われわれはナパバレーに向かったのである。
そして、我が腰痛も始まったのである。

我々のサンノゼ滞在は、週末を挟んでいた。出張先であれ、できることなら週末はオフタイムとしたい。
現地駐在のO君は、なかなか気が利く。オフタイムとする計画と準備は、すでに彼の手で整えられていた。
それが腰痛の引き金になった。

「週末、ナパバレーに行ってワインを飲もうよ。レンタカーを手配したからさ」

反対するいわれはない。ナパのワイナリーを梯子して、ワインを試飲しまくる。たらふく飲む。知らぬ場所ではない。ナパの陽光を受けながらワイングラスを口に運ぶ自らの姿が浮かんだ。結構ではないか。これぞ休日である。
休日が腰痛の引き金になった。

当日。
O君は、米国製のワンボックスカーを運転して我々の前に現れた。一行はO君を入れて5人である。私は、後部座席の真ん中に座った。
米国製のワンボックスカーが、選んだ座席が、腰痛の引き金になった。

1時間ほど走っただろうか。車が揺れた。人は、いや我が家の愛犬「リン」も、このようなときには反射的に姿勢を保とうとする。保とうとして、思わぬ場所に力を込める。私もそうした。そうした瞬間、腰に嫌な感じが走った。これまで2度ほど我が友としてわが身に住み着いたことがある腰痛君が、こともあろうに米国・カリフォルニアの地で、またまたお出ましになったのである。

話は突然飛ぶ。
みなさんは車のシートにお座りになるとき、どのような座り方をされるだろうか? ほんのちょっとの間でよろしいから、考えてみていただきたい。

車のシートは、お尻を一番後まで下げて座るのが一番真っ当な、楽な座り方である。座面と背もたれが作る角に、腰をすっぽりと納める。足をアクセル、ブレーキにのばすと、大腿部全体がほぼ均等に座面に触れ、体重を均等に受け止める。背もたれは、腰骨から肩胛骨までを支える。車が揺れてもシートが支えてくれるから、体に余分な力をかける必要がない。従って、この姿勢が最も楽で、長距離を走っても疲れが少ない。リアシートも原理は同じである。

ところが、できの悪いシートだと、真っ当な座り方ができない。お尻を一番後まで下げても、体のどこかが変に浮いた感じがする。落ち着かない。カーブにさしかかると、シートに体を預けただけでは、腰が、体が左右に振られる。仕方がないから、必要なところに力を入れて姿勢を保つ努力をする。往々にして、腰痛や肩こりの原因になる。

日本のタクシーで、シートの一番奥までお尻を突っ込んで座っている人を見たことがない。私もそうしない。そうしようとすると、腰が変な角度に曲がって、何とも落ち着かない。仕方なく、腰を前にずらす。こちらの方が楽なのである。だが、腰と背もたれの間に隙間ができるこの姿勢は、体とシートの接触面積を小さくする。ますますシートは、乗客の姿勢を保ってくれなくなる。勢い、揺れる車内で姿勢を保つには、体のどこかに力を入れなければならない。いずれにしても、長く続けられる姿勢ではない。

一般的にシートのできがいいといわれるのは、欧州の車である。国ごとに、メーカーごとに微妙な違いはあるものの、きっちりと座ることができる感じは、長年椅子の暮らしを続けてきた民族ならではのものがある。
中でもドイツの車は乗員に自由を許さず、座る姿勢を車が強いる、といわれる。正しい座り方をしないと、なんとも座りにくいシートになってしまうのである。だが、強いられた正しい座り方をすると疲れ方が少ない。
自由な座り方をして疲れるか、強いられた座り方をして楽をするか。自由と束縛の、面白い関係である。

このワンボックスカーのシートは、日本のタクシー並であった。きっちり座ろうと思っても、座れない。勢い、腰を前にずらして座り、足は前のシートの背中に持たせかける。車が左右に揺れるたびに、腰と下半身に力を入れて姿勢を保つ。

ぎっくり腰は突然やって来た。小さなカーブで体が振られるのを我慢しようとしたとき、ピリピリとした痛みが腰に走ったのである。我が友腰痛との3度目の出会いであった。
ワンボックスカーのリアシートが、私の座った姿勢が、ほんの小さなカーブが、腰痛の引き金になった。

我が友腰痛は、無神経なヤツである。一度やってきたら、訪問相手が迷惑しようがどうしようが、なかなか帰らない。邪険に扱うと、いきり立って錐を持ち出し、腰の周りを突きまくる。できればおつき合いしたくない相手なのだが、いつも突然押し掛けてくるからそれもかなわない。

やってきた我が友腰痛は、今回も即座に辞去する謙虚さは持ち合わせていなかった。あぐらをかいて居座る様子である。

痛みを軽減しようと、お尻をシートの一番奥まで下げた。が、姿勢が決まらない。カーブのたびに体が揺れ、腰に痛みが走る。両手をシートについて体の揺れを支えようとしたが、うまくいかない。

「悪いけどさ、ちょっと席を代わってくれないかな」

痛みに耐えることに疲れた私は、弱音を吐いた。助手席に座ろうというのである。こちらのシートの方が、少しはできが良さそうに見えたのである。

「なんか、軽いぎっくり腰みたいでさ」

席を代わり、背もたれをやや倒し気味にして楽な姿勢をとる。それでも、嫌な感じがつきまとった。が、団体行動をしているのである。私の腰が変調を来したからと行って、ナパ行きを中断することはできない。ここは我慢するしかない。

ナパバレーには260を超すワイナリーが存在する。全てを回ってワインの試飲をしていたのでは、日が暮れてしまう。いや、日が暮れる前に酩酊してしまう。ここは選択せざるを得ない。
残念なことに、我々には選択するだけの知識がなかった。仕方なく、おおむね行き当たりばったりでワイナリーに飛び込んだ。

ワインの試飲を申し込む。グラス半分ほどのワインが手渡され、おおむね3ドルから5ドルである。10軒回っても40ドル程度ですむ。とびきりのワインは出てこないが、休日を楽しむコストとしては手頃である。
腰に負担をかけないよう、我が友腰痛が暴れ出さないよう、慎重に姿勢を保った。姿勢を保って、ワインを試飲した。

ほぼ行き当たりばったりの試飲だったが、1つだけ、是非行きたいワイナリーがあった。
Opus Oneである。我が畏友「カルロス」によると、ナパバレー最高の赤ワインである。米国モンダヴィ社とフランスのシャトームートンロートシルト家が手を結び、ボルドースタイルの味わい深いワインを作り出した。

「ナパ行くんやったら、Opus Oneだけは飲んで来んね」

とは、畏友「カルロス」の送別のアドバイスであった。

Opus Oneのワイナリーを訪れたのは、午後2時頃であった。試飲すべく、早速窓口に行く。行って驚いた。グラス一杯のワインが、25ドルとある。ほかのワイナリーの5倍から8倍の値段である。思わず、

「高っけー!」

という言葉が口をついて出た。我ながら、真っ当な金銭感覚である。
しかし、今回のナパバレー訪問の最大のイベントは、Opus Oneである。入り口まで来て、価格に驚いて逃げ帰ったのでは、イベントが成立しない。我が友腰痛をなだめなだめ、ここまでやってきた甲斐がない。

清水の舞台から飛び降りる覚悟で財布から10ドル札2枚と5ドル札1枚を取り出し、グラス1杯のワインと取り替えた。
色を見る。美しい。澄み切った深紅色である。グラスを鼻の下に持っていくと、馥郁たる香りが鼻孔をくすぐる。
上出来だと見た。

暴れ出しそうになる我が友腰痛を抑えるべく、左手は腰を支える。右手でワイングラスを支える。その格好のまま階段を上り、屋上に設けられていた小公園に出た。ワイナリー全体が一望できる。人の背丈ぐらいの木が立ち並ぶブドウ畑、観光客の車が集まった駐車場。空は抜けるように青い。
腰はチリチリするが、気分はこの上なくいい。

Opus Oneを口に含む。さすが25ドルである。ほかのワイナリーの3ドル、5ドルとはできが違う。雑味がない。コクがある。バランスがいい。上物である。
私の体を通り抜けて行く、カリフォルニアの、ナパバレーの4月の風。ワインを手にたたずむ私に陽光が降り注ぐ。Opus Oneを味わうには、この土地が一番よく似合う。
腰よ、腰よ、我が腰よ。せめてOpus Oneを味わっている間は痛まないでくれ!

(雑談)
ネットで検索したら、Opus Oneの1998年ものが2万5000円で出ていた。情けないが、手が出ない。

目的は達した。あとは夕食を済ませてホテルに戻るだけである。皆でレストランに立ち寄った。
席に着き、ほかのメンバーは、やれ白ワインだ、俺は赤がいい、いや、スパークリングワインを試す、などと食い気も飲み気も充分だった。
それを見ながら私は、何だか二日酔いになったような気分で、食欲も飲酒欲をもなくなっていた。ジワッと脂汗が浮いてくるのを感じた。
我が友腰痛が、とうとう成長し始めたのである。

以後、私の旅は、青年期に達した我が友腰痛をどうなだめ、どう付き合うかが主題になった。
その日から、私はホテルのベッドで寝るのをやめた。ベッドから上掛けを剥ぎ取って床に広げ、その上で寝た。柔らかいベッドは、腰の大敵なのである。

闘いが始まった。我が計画はこうだった。戦闘は避ける。にらみ合いに徹し、敵が疲れて去るのを待つ……。うまくいくはずだった。

始まったばかりの闘いが、あのような悲惨な戦闘シーンにつながるとは、この時、神ならぬ私は知る由もなかった。

(書き残したこと)
ナパバレーには、「地獄の黙示録」や「ゴッドファーザー」の監督であるフランシス・F・コッポラさんが所有するワイナリーがある。「Niebaum Coppola Estate Winery」である。初めてナパバレーを訪れたとき、覗いてみた。
ごく普通のワイナリーだった。作り出すワインも、残念ながらOpus Oneには及ばないらしく、日本での価格もOpus Oneより安い。
1つだけ変わったものがあった。「タッカー・トーペード」の実車が展示されていたのである。コッポラさんが監督し、1988年に公開した映画「タッカー」で使ったものだろう。ヘッドライトがハンドルの舵角に応じて左右に動き、常に進行方向を照らすなど画期的な技術を実現した車を第2次大戦直後に生み出した実在の人物、プレストン・タッカーを描いたものだ。映画は、画期的な自動車の出現に恐れをなしたビッグ3がかけてくる様々な圧力に屈せず、アメリカンドリームを実現したヒーローとしてタッカーを描いているが、実はこの会社、間もなく倒産している。それでも、実車を自分のワイナリーに展示するぐらいだから、コッポラさんは、よほどこの映画が気に入っているのだろう。
いやいや、「ゴッドファーザー」を記念しようと思っても、マーロン・ブランドやアル・パチーノの実物を展示するわけにはいかない。じゃあ、「地獄の黙示録」にしようと思っても、戦場を駆けめぐったヘリコプターは、ここには入りきらない。
やむを得ざる選択だったのかなあ?