2024
03.13

私と朝日新聞 デジキャスの4 ラスベガスで腰痛が悪化した!

らかす日誌

なるほど。ああいうのをウンの尽きというのか。

私がラスベガスで陥ったみじめな状況を、時間を経て振り返っての感想である。痛い思いをし、苦しみ悶えたのは私自身であったのに、いま思い起こすと、腹の底から大笑いしてしまいそうになる。
悲惨さと笑いとは、極めて親しいものである。違うのは我が身を置く立場だけである。

これから皆様に、私のウンの尽きを追体験していただく。読めば、私の叙述を心の底から納得いただけるはずである。

キーワードは、ラスベガスモルヒネ腰痛、である。

(余談)
この3つの言葉で、あなたはどのようなストーリーを思い描かれるだろうか?
あなたが思い描かれるストーリーの、恐らくどれとも違う実話をこれからお届けできることを、私は密かに誇りに思う。
事実は小説より奇、なのである。

我が友腰痛を連れて、私はラスベガスに乗り込んだ。サンノゼとナパバレーの中間にいた私のもとを突然訪れ、許諾も得ずに居座り続けているあいつである。

宿泊先のホテルは「Excalibur」であった。酔狂にもホテル内でライオンを飼っている「MGM Grand」の、交差点を挟んではす向かいにある。アーサー王の名剣の名前を取ったホテルである。外観は立派の一言だ。

(余談)
「MGM Grand」には見学に行きました。
1階ロビーに総ガラス張りの檻があり、確かに生きたライオンが中で唸っておりました。
ホテルにライオン。奇想天外、といえば確かにそうだけど、だから動物園とホテルが同居したここに泊まろう、なんて客がいるのかな……。
それとも、1匹の動物になりきりたい連中がこの動物園に泊まり、雄の、雌の、むき出しの本能の限りを尽くす饗宴を繰り広げるのかな?

1階フロアは、壮大なカジノだった。スロットルマシンが林立していた。ルーレットのテーブルがあった。博打に疎い私には分からない設備がフロアを埋め尽くしていた。

部屋は汚かった。多分、その昔は白だったと思われる壁紙が、黄色くなっていた。たばこのヤニであろう。
今回はホテルの話を書くのではない。この程度の紹介で次に移る。

(余談)
が、これだけは書いておきたい。
仕事の都合で午前6時半ごろ部屋を出て、1階に降りた。1台のスロットルマシンの前に60歳は過ぎていると見える女性が座っていた。100kg超級の、ブヨブヨと膨らんだ体を椅子に斜めに納め、マシンにコインを送り込んではレバーを引き下ろしていた。ひとりぼっちのようだった。気怠さが全身から吹き出していた。アメリカの、文化の、娯楽の、とどのつまりを見た思いがした。
我が国にラスベガスは欲しくない。

NABの展示場に行くバスがホテルの前から出ていた。これに乗って、連日展示場に通った。
初日は、会場を隅から隅まで見て歩いた。最先端の放送機器が、テレビをネットにつないでの新サービスが、会場にあふれていた。
翌日は、会場内で開かれる講演会や、会場外でメーカーが開く説明会に参加した。個別のインタビューもした。

(余談)
自ら進んでやったのではない。仕事が好きな同僚と出張すると、忙しいのである。

3日目は、会場をぶらついた。時間つぶしである。

会場で、日刊スポーツからBS朝日に出向中のY君に会ったのは、初日だった。砂漠の中にできた街、ラスベガスを歩き回るというのに、背広にネクタイ姿だった。私は、コットンパンツにTシャツの軽装である。

「いや、世界中から関係者が集まるのだから、安く見られてはいけない。背広にネクタイを着用せよ、というきついお達しが会社から出まして」

と、ポケットから取り出したハンカチで流れ落ちる汗を拭うY君は身長170cm台、体重100kg超の巨漢で、首がない。このアンバランスな体で生きていくのはさぞや大変だろうと想像するのだが、本人はいつもにこやかである。少しは痩せる努力をすればいいのに、食い放題の店を見つけると世紀の大発見をしたかのような顔で、嬉しそうに報告に来る。大食漢である。

「僕はね、この僕の100kgを超す体を、瞬時に時速120km/hの世界に運んでくれる車でないと、車と認めないんですよ」

と、本人の中だけでしか決まらない臭い台詞をはいて、あのバブルカー、フェラーリに乗っていた男でもある。

「フェラーリ3、4台で東北自動車道を走るでしょ。エグゾーストノイズがハモるんですよ。いい音ですよ。体がゾクゾクします。あんなに気持ちのいい音、ほかにないなあ」

と訳の分からないことをいい、

「しかし、君の給料でよくフェラーリが買えたな」

と驚いてみせると、

「なに言ってんですか。僕はね、平日は会社の食堂でしか食事をしないんです。1万円もあれば1ヶ月食えます。残りの金を貯めれば、中古ぐらい買えます」

と、衒いもなく言ってのける。フェラーリのために暗しの全てを犠牲にしたらしい。価値観のよく分からない人である。

「で、そのフェラーリ、どうしたの?」

と聞いたら、

「あ、売っちゃいました。だって、故障したんですよね。修理工場に持っていって見積もりを取ったら、120万円っていうじゃないですか。とてもそんな金は払えないんで、はい、泣く泣く手放しました」

私とは違う世界に住む人である。まったく、世の中は広い。

で、そのY君と、NABの展示会場であった。彼は言った。

「大道さん、メシご馳走してくださいよ。僕、金がないんだから」

米国まで来て、ラスベガスにまで乗り込んで、食事をたかる。フェラーリは捨てたのに、金がないという。なかなかの根性である。なかなか、と認めた以上、リクエストには答えねばなるまい。

かくして翌日、私とY君の2人は夕食をともにすべく、夕方から行動をともにした。
目指したのは、「NEW YORK, NEW YORK」である。私の宿泊先、「Excalibur」から、道を隔てて反対側にあるホテルである。なんと、屋根の上に自由の女神がそびえ立ち、屋内にジェットコースターの乗り場があって、乗るとホテルの外の空気、景色まで満喫できるという、なんとも風変わりな代物だ。

「ラスベガスで、唯一食えるステーキの店が、『NEW YORK, NEW YORK』の地下にある」

という話を、誰かに聞いた。であれば、その店に行ってみようとやってきたのだ。
加えて、Y君は、肥満体のイメージを裏切ることなく、魚よりも肉をこよなく愛する大食漢である。Y君に馳走するのに、ここほどふさわしい場所がラスベガスにあるとは思えない。

目的の店を見つけだしたのは午後7時頃だった。ステーキの専門店で、天井から吊された巨大な肉の塊が外から見える。期待できそうな雰囲気だ。

「ここだぜ」

と言い交わしながら店に入ろうとして驚いた。店の前に列ができている!
ま、多少の列なら待つにやぶさかではない。このような店は、東京にもある。しかし、待つにしても、おおむねの見通しを持つべきである。我々は、どれほどの間ここで待つのであろうか?

再び、不自由な英語を駆使して店員に聞いた。どうにか理解できた内容によると、店員は次のようなことを言ったと思われる。

この店は予約を中心にしておる。不埒にも予約を入れずに訪れた客はこうして列を作って待つのであるが、本日の予約状況などから判断するに、いまから列に加わるとなると、店に入るのは10時半ごろになるであろう。

いまは7時である。10時半? 3時間半も列を作って待てってか?!
私はまだいい。問題はY君である。この巨漢が、大食漢が、3時間半の間、その2本の足で巨大な上体を支えていることができるか? 昼食のあとは何も食べていないというのに、午後10時半まで立っていることができるか?
どう考えても無理である。即座に、別の店にすると決めた。

といっても、2人とも、ここラスベガスではお上りさんである。ほかにどんな店があるのかの知識はない。行き当たりばったりで探すしかない。ステーキの店を出発点に、この地下街をぐるりと回った。日本でいうレストラン街になっていたからである。

「いいぞ、何でも馳走してやる。好きな店に入れ」

と選択はY君に任せた。2周り目、Y君は

「ここでいいですよ」

と、1軒の店に巨漢を押し込んだ。何となくメキシコ系の店のように思えた。

「食いたいものを、食いたいだけ頼んでくれ」

加えて、私は生ビールを大ジョッキで注文した。酒が飲めないY君は、何かアルコール抜きの飲料を頼んでいた。
さて、どんな料理が出てきたか、こいつが全く記憶にない。食べた瞬間、記憶する気力も失せたようである。
Y君は、私にいわせれば悪食である。素材よりも、味よりも、何よりも、を重視する。巨大な体を維持するには、そうするしかないのかもしれない。可愛そうといえば可愛そうである。反面、どうしても私の食欲を刺激してくれないものでも、彼はさも美味そうに食う。見上げたものである。
そのY君の手も、あまり伸びていない。私はビールを2度お代わりした。Y君も、1度だけ飲み物をお代わりした。それでも、食べ物が残った。

「どうする?」

「帰りましょうか」

支払いをした。大の大人が2人で、しかもうち1人は自他ともに認める大食漢であるのに、50ドルで釣りが来た。ラスベガスの食は、質、量、価格ともに、そのようなものであるらしい。

(追加)
ある朝、ホテルで朝食をとった。ホテル内を歩き回り、マクドナルドがあったのでそこで済ませた。マクドナルドのハンバーガーは、世界中どこで食べても同じ味、が売りだと聞いていた。ところが、ここは違った。パンが固い。ハンバーグも固い。噛むとパサパサする。何とかコカコーラで流し込み、展示会場に向かった。

その日の夕食に、私は不満だった。恐らく、Y君も不満だった。

が、物事には常に表裏がある。

Y君に馳走したという実績を作り、恩を売るのに、わずか50ドル足らず済んだのは、近年まれにみる快事である。財政面からはラスベガスの食に感謝しなければならない。

このあたりまで来ると、

「おい、腰痛はどこに行った?」

「ウンの尽き、は出て来ないじゃないか!」

という読者の声が聞こえる気がする。

まあ、お待ちあれ。あわてる乞食はもらいが少ない、のでありますぞ。

明日は、日本に帰る。ラスベガス滞在の最終日となった。

この間、我が友腰痛は、小康を保っていた。柔らかいベッドを避け、固い床の上に寝続けたのが、我が友をなだめるのに効果があったらしい。我が友が暴れ出さないので、ラスベガスでこの日まで過ごすことができたのである。

(余談)
その昔、名古屋で単身生活をしていた時の話である。ある朝目覚めると、私は体も動かせないほどの腰痛になっていた。唸っていても、誰も助けてはくれない。電話で車を呼び、這うようにして乗り込み、マッサージ院に直行した。
私の部屋は1LDKで、全て床張りであった。壁面に収納できる備え付けのベッドがあり、眠るにはこれを使っていた。このベッドが悪かったらしい。
以来、名古屋では木の床の上に布団を敷いて寝た。考えてみれば、織田信長も木の床に布団を敷いて寝たのに違いない。信長が腰痛になったという話は聞いたことがない。
柔らかいベッドは腰に悪い。我が生活哲学となった。

最終日。私は帰国の準備をした。土産を買い集めたのである。
あてはあった。ラスベガスの郊外にアウトレットモールがあるとの知識を仕入れていたのである。土産にかける費用は、できるだけ小さい方が八方うまくいく。朝食を済ますと、日本から同行した同僚と2人、迷わずタクシーに乗ってアウトレットモールを目指した。

壮大なモールだった。ここに入っている店は100軒を下るまいと見積もった。さて、家族に何を買う? 会社の仲間に何を持って帰る? 自分用に何を仕入れていく?

とりあえず、壮大なモールを一巡した。どんな店が入っているか確認するのである。
一巡したころ、私は便意を催した。そういえば、快眠・快食・快便を主義とする私が、その朝はトイレに行っていない。暮らしの手続きに抜かりのある朝だったのである。
が、ここは通勤電車の中ではない。便意を催しても、このモールには、通勤電車と違ってトイレがしつらえられているはずである。焦る必要はない。

「おい、ちょっとトイレに行って来るわ」

同僚に言い残すと、それが地獄への一本道であることも知らず、私はトイレに向かった。
ラスベガスでも、平日の朝のアウトレットモールは閑散としたものだ。あまり人の気配がない。トイレも同様で、私はひとりぼっちだった。安心して個室に向かった。

ドアを閉め、ベルトをゆるめる。ズボンとパンツを引き下ろし、便器に腰を下ろす。自宅でもそうする。会社でもそうする。サンノゼでも、グランドケイマンでも、メキシコシティでも、ブダペストでも、ブカレストでもそうした。腰掛け式の便器を使う人々は、恐らく、必ずそうするはずである。そうしないと、目先の排泄欲求を充足させることができないからである。
従って、ここまでの私の行動には、何の問題もない。

数分たった。この間、私は排泄の快感を満喫した。

(余談)
かといって、私は肛門を別の目的に使う気は全くない。

満喫したあと、必ず行わねばならない手順がある。肛門の清浄化である。この行為には、通常、紙を用いる。

(余談)
それまで体内にあったものが、体外に出た瞬間に不浄のものになってしまうのは何故なのか?
私は、いまだに解答を見いだせず、深く考えることもなく、世の常識とやらに従っている。私らしくないとは思うが、さて、常識以外にどんな解答があるのやら……。

探した。それは、私の左の壁に取り付けられた紙巻き器に納められていた。
左手を伸ばし、紙を取り出そうとした。日本製なら慣れ親しんでいる。引き出すべき紙の端が垂れ下がり、それを引いて必要量を取り出すものが多い。使い勝手がなかなかよろしい。
ところが、ここラスベガスのアウトレットモールでは、紙が垂れ下がっていないのである。我が友腰痛に配慮しながら目をやると、なんと、トイレットペーパーが縦に取り付けられ、その周囲を透明なプラスチックが覆っているではないか。この紙巻き器は米国仕様であるらしい。

「ん? どこから紙を引き出すのだ?」

我が友腰痛に気兼ねし、体を正面向きに戻した私は、左手で紙巻き器を探った。ところが、探っても探っても、取り出し口らしきものがない。
そうか、左手は我が利き手ではない。ないから、捜索能力に限界があるのに違いない。ここは、利き手である右手のご出馬を願うしかなかろう。なにしろ、このままこの個室を出れば、我が下着には黄色い付着物が付いてしまうに違いないのである。臭うであろう。臭うだけでなく、乾燥すれば、不快なゴワゴワ感を与えるに違いないのである。

利き手の右手に出動を命じた。それはいいのだが、便座に正面を向かって座り、我が左側の壁に取り付けられた紙巻き器に右手を伸ばす図をご想像いただきたい。そうである。腰を左に大きく回さねば、いくら利き手とはいえ、我が右手は永遠に紙巻き器に届かないのである。

私は、真っ当に考え抜かれた論理に従い、グッと腰をひねった。右手で紙巻き器を探り、トイレットペーパーの取り出し口を捜索しようとした。

その瞬間であった。

ギクッ!

という音が出たような気がした。同時に、鋭い痛みが腰に走った。しばらくの間鳴りをひそめていた我が友腰痛が、休暇期間中に蓄積したエネルギーの全てを、この一瞬に放出したのである。
私は、アメリカの、ラスベガスの、郊外のアウトレットモールの、便所の、個室の、便器に座ったまま、腰が動かせなくなったのである。

上体をほんの少し、右に動かす。叫びたくなるような痛みが腰に走る。ほんの少し、左に動かす。喚きたくなるような痛みが腰に走る。立ち上がろうとする。耐えがたい痛みが腰に走る。
私は、アメリカの、ラスベガスの、郊外のアウトレットモールの、便所の、個室の、便器に座ったまま、身動きがとれなくなってしまった。

糞詰まり、とはこのような事態をいう。

が、糞詰まっても、私は冷静であった。この危機からいかに脱出するか。そのためにまずなすべきこと、次になすべきことは何か。一連の行動計画が直ちに頭に浮かんだ。

まずなすべきこと、それは激痛を引き起こした行動を完遂することである。そう、肛門の清浄化である。
腰は動かせない、とすると、問題の紙巻き器は左手で探るしかない。探った。なで回した。しかし、最初にできなかったことが、激しい腰痛を引き起こしたあとでできるはずもない。数分努力したが、長さ3cmの紙すら手に入らなかった。

こうなれば、紙はあきらめるしかない。代替手段を探るしかない。
私は周囲を見回した。使えそうなものは何もない。
ポケットを探った。ティッシュペーパーを持ち歩く習慣のない私のポケットには、「いま」を切り抜けるために使えそうなものは見あたらない。
ふむ。いっそ、このまま……。
いや、我が手を使うか。何でも、インドでは肛門の清浄化に手を使うというではないか。彼らにできて、日本人の私にできないはずがあろうか。でもなあ……。

いや、待てよ。あるではないか。うん、ある、ある。
ハンカチである。ティッシュペーパーを持ち歩く習慣がない私も、ハンカチだけは必ずポケットに入れて歩く。これしかない。
おまけにこいつは、ティッシュペーパー以上に柔らかい。こびりついたものをこすり取るには最適のテクスチャーである。は我を見捨てたが、は我を見捨てないのだ!

拭いた。汚れた面を中にして丸めた。丸めて、片手で握った。あまり強く握ると中身が染み出すのではないかと恐れながら、握った。

次は、個室からの脱出である。ためには、まず立ち上がらねばならない。が、自力で立ち上がるのは、ラクダが針の孔を通るより難しい。

解決法はすでに見いだしていた。
トイレのパーティションは、上が切れている。そこに手をかけて、腕力だけで全身を引き上げるのである。高校生の時、柔道部でしごきに耐え、体を鍛えたのは、今日のためであったかと過去を振り返りながら力を入れるのである。毎日120回の腕立て伏せを続けた成果を、この一瞬に凝縮させてやると念じながら力を入れるのである。
手を伸ばす。手をかける。力を込める。足には力を入れない。下手に足を使おうとすると、腰に響くに違いない。腰が痛まないよう、まっすぐに体を持ち上げ…………………………………………る。

立てた。何とか立ち上がった私は、ドアの鍵を開け、個室を出た。右手は、ハンカチを柔らかく握っている。慎重に歩を運ぶ。ここで手を抜き、無謀な歩き方をしては、腰に走る激痛に私は昏倒してしまう恐れがある。昏倒にまでは至らなくても、痛みのために地に伏して、2度と起きあがれなくなる危険がある。
上体を絶対に揺らさず、足をあまり上げず、右足と左足をすり足状態で交互に前に出す。1歩、また1歩。トイレの出口が限りなく遠い。

出口近くにゴミ箱があった。右手にあったハンカチを投げ込んだ。

(謝罪)
トイレ掃除のおじさん(ひょっとしたらおばさん)、ごめんなさい。あの日、我が体から出た不浄物がこびりついたハンカチを捨てたのは私です! まさか、不審なハンカチだといって、せっかく丸めておいたヤツをひろげて調べたりはしなかったでしょうね?!

やっと、トイレを出た。普通の世界に戻った。戻ったとき、その凶暴性をむき出しにした我が友腰痛との熾烈な闘いに、私は疲れ果てていた。

だが、闘いは始まったばかりだった。