03.25
私と朝日新聞 デジキャスの16 キヤノン組と肝胆相照らした
企業という人の集まりには、所属する構成員を一定の色に染め上げる魔力があるのだろうか? 朝日新聞に長年勤めれば何となく朝日色になり、キヤノンの社員はキヤノン色に、富士通は富士通色に、日立は日立色にと、染め分けられるのだろうか?だったら、個性はどこへ行く? 俺、あんな先輩、同僚たちと同じ色に染め上がったのだろうか?
他紙に特ダネを抜かれて
「朝日新聞を馬鹿にするのか!」
と取材先企業の広報部に怒鳴り込んだ朝日新聞記者と、私は同じ色をしているのか?
元日に、将来の社長候補の家に妻同伴でご機嫌伺いに足を運んで酒宴を繰り広げていた連中は、私と同じ色をしているのか?
部下がトヨタ—フォードの提携話をすっぱ抜かれ、
「お前たちにが取材できないのなら、俺が取材してやる。通産省にも俺の人脈があるのだ!」
と電話をかけまくり、何の情報も取れなかったアホ部長と私は、やっぱり同系色に見られてしまうのか?
無論、素晴らしい先輩、同僚も朝日にはいた。名古屋本社経済部で皆の敬愛を集めていた舟さんは、地方採用の記者だった。彼は正規の入社試験を受けていない。決して知性のある人ではなかった。だが、腹に一物も持たない取材姿勢は、取材先から信望を集めていた。取材先が信頼するぐらいだから、我々後輩は彼を敬愛した。敬愛して一緒にカラオケに興じ、飲みながら議論した。舟さん、とみんなが呼んだ。
ある時、私は舟さんに「海の都の物語」(塩野七生著)をプレゼントした。
「舟さん、この本は本当に面白いんだ。読んでみてよ」
彼は読んでくれた。プレゼントから1ヵ月もしないうちに、飲めばこの本の話になった。
「大道君、ヴェネチア人って面白いね。ほら、こんな話があったろう……」
「海の都の物語」はハードカバーで2冊の本である。話はあちらから始まり、こちらに飛び、ここにもあそこにも飛んで終わることがなかった。
「舟さん、俺さあ、塩野七生と何度も酒を飲んだんだよ」
「えっ、ホントかよ。俺も酒を飲みながらこの人と話してみたいなあ」
「でも、圧倒的に美人じゃないよ」
そんな顔和を交わしながらの酒はひたすら美味かった。
いや、舟さんだけではない。先輩、同僚、後輩に思わず抱きしめたくなる良き男(良き女なら抱きしめるのに躊躇するからではない!)はそれなりにいた。数は多くはなかったが。
でも、それを束にすると、やっぱり朝日の色が浮き出てくるのだろうか?
いや、突然変なことを書き始めた。戸惑われたかも知れない。デジキャスの事をあれこれ考えていて、やっぱりキヤノン色、日立色、富士通色はあったのではないかと思ったのである。朝日? 朝日新聞からはKo君と私の2人だけである。この2人に共通した色があったとは、主観的には思えない。周りから見ればやっぱり朝日色があったのかも知れないが。
だからなのだろうか。私が仲良くなり、肝胆相照らす仲になったのはキヤノン勢だった。キヤノン組の組頭、Ha氏とは遠慮なく言葉をぶつけ合う仲になった。
「あんた、営業局長だろう。放送枠を売ってきなよ。このままじゃ経営の見通しが立たない。キヤノン勢は引き上げるよ」
「こんな使えないメディアが売れると思う? これを言葉巧みに売るのは詐欺だよ。俺は詐欺師にはなりたくないし、なれる能力もないんだ。悪いね」
歯に衣着せぬ言葉のやり取りである。横で聞いていたら喧嘩をしているように聞こえたかも知れない。だが、私はHa氏の立場が理解できたし、Ha氏も私がいう趣旨はとうに分かっていたのだと思う。言葉がついつい荒くなったのは、デジキャスの経営の見通しが立たない苛立ちが2人に共通してあったためあろう。だから、その日も仕事を終えたら、彼とのみ出たのではなかったか。
そんなHa氏が率いるキヤノン勢は頼りになる軍団だった。なにしろBMLを書く技術はNo.1で、若手の1人がBMLでの記述に関する本を出版したほどである。それは業界の教科書になった。いまではデータ放送はすっかり定着したから、あの本はあちこちのテレビ局に所蔵されているに違いない。
我が家に招いて酒宴をはったこともある。Ha氏の自宅で酒を飲んだこともある。いまだに親交は続いており、4月24日に開催予定のデジキャス・キヤノンシニア飲み会にも誘われた。喜んで桐生からはせ参ずる所存である。
日立にも一緒に酒を飲める仲間がいた。経理を担当していたKa氏はその代表である。仕事を終えて、会社近くの魚料理屋「小菊」に2人でしばしば足を運んだ。Ka氏は私に勝るとも劣らない飲んべえである。2人で飲み出すと、2合徳利が次々と倒れた。酒は「港屋藤助」である。4本目が倒れ、
「そろそろ帰ろうか」
と私が声をかける。
「大道さん、逃げるんですか」
とKa氏がいう。5本目の2合徳利が姿を現す。彼とはよく飲んだ。
日立のSa君もデジキャスに馴染み、私に馴染み、キヤノン勢にも馴染んだ1人だった。
「私、先日大道邸で開かれた飲み会に所用があって出られませんでした。まだ大道さんのご自宅にうかがっていません」
と私に詰め寄って
「じゃあ、呑みにおいでよ」
と私に言わせ、21年ものの古酒(くーすー)を1本、ほとんどのみあげてヘロヘロになって帰って行った彼である。
だが、日立勢の主流派とは肌合いが違った。日立本社からは頻繁に、来社する人々がいた。どうやら、データ放送という新規事業を担当する部署の人たちらしい。
デジキャスで日立勢を率いたのはKaさんである。ある日、日立本社からやって来た人がこっそりとささやいた。
「Kaさんは、本来なら日立の役員になるはずの人でした。ちょっとした事件があって……」
ということは、日立でデータ放送を推進しようという派閥の、Kaさんは親玉であったのか。
私と親しく酒を飲んだ日立組はこの派閥には属していなかったらしい。してみると、私はこの日立の派閥とは肌合いが合わなかったということになる。
このように、キヤノン勢、日立勢との想い出は沢山ある。ところが、富士通勢との想い出はほとんどない。何となく疎遠なのである。同じデジキャスの社員だからあいさつを交わし、言葉も交わす。たまには一緒に昼食に出る。だが、それだけで、肝も胆も相照らさないのだ。富士通組はなんとなく富士通組でまとまる、といったらよかろうか。
記者として私は、数多くのサラリーマン、サラリーマンのなれの果てである役員たちを取材してきた。話を聞き、意見を交わし、酒を飲むことはあっても、私は様々なサラリーマンの観察者でしかなかった。デジキャスでの5年間、私は観察者ではなかった。様々なサラリーマンの生態を体験させてもらったのだった。