2024
03.26

私と朝日新聞 デジキャスの17 デジキャス勤務が終わりを迎えた

らかす日誌

2004年の終わり頃だったと記憶する。デジキャスに勤務する私に、朝日新聞電子電波メディア局長から電話が来た。すぐにピンと来た。人事異動である、朝日新聞に戻ってこいというのに違いない。

そのころデジキャスは岐路に立たされていた。私が2000年12月1日午前10時の放送開始と同時に

「これはお金をいただけるメディアではない」

と感じ取ったのは決して間違いではなかった。デジキャスをはじめとした数多くの独立データ放送局の経営はどこも思わしくなかった。現状が思わしくなくても将来に展望が描ければ事業は続けることができる。しかし、デジキャスの全員で考えても明るい未来は描けなかった。キヤノンのHa氏も私も、うまい幕引きの仕方を模索し始めていた。
その最中の呼び出し電話である。

「あのさあ、俺、朝日に呼び戻されそうなんだわ」

電話を切るとすぐにHa氏に報告した。

「なに、どうしたの?」

「いや、局長から電話があってさ、朝日新聞まで来いっていうんだわ。普段は声もかけないあいつが突然電話してくるなんて、他の用件じゃありえないだろ?」

「そりゃそうだね。でもね大道さん、あんた、いま朝日に帰っちゃいけないよ。一番大事な時期じゃないか」

このころ、我々2人は、口にはしないが、我々こそがデジキャスの中核であると認め合っていた。

「うん、分かってる。だけど、呼び出し電話があったということは、もう会社として決めたんだと思う」

「それは困るよ」

「困られても困る。できるだけ抵抗する。なんとか人事を撤回させる努力はする。だけど、こうなると俺もサラリーマンの端くれだからね。あまり期待しないでよ」

東京・築地の朝日新聞まで足を運んだ。当時の電子電波メディア局長は、私を電子電波メディア局に送り込んだ経済部長だった人物である、それが立身出世をされて局長になられていた。

私は局長室に入るなり、いった。

「異動ですか?」

「おっ、お前、勘がいいな」

記憶をさかのぼると、私が経済部から追い出される時も、ほとんど同じ会話を彼と交わした記憶がある。
普通、この後に私が発する言葉は

「どこに異動するのですか?」

である。だが、この日の私はそんなことには関心がなかった。なんとかデジキャスに残る道はないか? 思いはその1点に集中していた。おおむねのサラリーマンは、出向先から本社への帰還命令が出ると小躍りするという。それなのに私は、出向先に残せ、という交渉をこれから始めようというのである。私を変わり者というべきか。世間知らずの方が相応しい言葉か。

いまデジキャスは岐路にあることを説いた。私にはデジキャスで果たすべき役割があると説明した。いまデジキャスを実質的に動かしているのは私とキヤノンのHa氏であり、彼が私を必要としてると語った。出資各社との信頼関係を維持するには私がデジキャスにいなければならないとも話した。最後には

「あと1年でデジキャスの今後についてめどが立つ。1年間はいまの仕事をさせて欲しい」

嘆願した。1つも聞き入れられなかった。

「どうしてもダメですか」

「おう、すでに担当専務まで話が上がっているから、俺の力ではどうしようもない」

およそ1時間にわたる攻防だった。私は戦いに勝てなかった。次の仕事は「朝日ホール総支配人」なのだそうだ。そんな仕事が朝日新聞にある音すら知らなかったというのに!

「Haちゃん、ごめん。1時間交渉したんだけど、何ともならなかった。申し訳ない」

「まあしょうがないですよ。人事ってそんなもんですからね。あとは私がなんとかしますよ」

デジキャスのみんなは送別会を開いて私を送り出してくれた。ひたすら流し込む酒で私のデジキャス暮らしが終わった。