2024
04.19

私と朝日新聞 朝日ホール総支配人の23 夢は夢のまま終わったが……

らかす日誌

さまザなまことを考えた。
最後に行き着いたのがライツビジネスである。浜離宮ホールで催すコンサートをCD、DVD(いまならBlu-ray、と考えるところである)にして販売する。

音楽というコンテンツは権利関係が複雑である。私も全容は知らないが、ミュージシャン、音楽事務所、レコード会社などこのビジネスに関わっている人たちは、新たな「関係者」を好まない。それはそうだろう。新たな関係者が加われば、利益の一部を持って行かれる。自分の取り分が減る。
そこに頭を突っ込もうというのである。それしかない!

優秀な部下である、というか、私をはるかに凌駕するビジネスセンスの持ち主である日本語不自由のWa君に相談した。

「CDやDVDを浜離宮朝日ホールのレーベルで出したい。クラシックはもともとそれほど売れるものではないから無視する。ポップスを売ろう。浜離宮はすべてのミュージシャンに『アコースティック』での演奏をしてもらう。当然、アコースティック用に編曲が変わってくるから、ファンは大喜びするはずだ。CDを10万枚売るアーチストのアコースティックCDは10万枚売れるはずだ。あれだよ、クラプトンの『Unplugged』だよ。クラプトンの再評価はあのアルバムから始まったんだよね。売り上げの1割がホールの取り分として、1枚3000円のCDが10万枚売れれば3000万円の収入になる。1年に5枚出せば1億5000万円だ。どう思う?」

「大道さん、それ、面白い! CDは価格の半分が利益だといいます。3000円のものなら1500円。それをミュージシャンやレコード会社が分けるんだけど、レコード会社はスタジオの使用料や録音のコスト、ミュージシャンの拘束料などがコストになります。考えてみれば、浜離宮ホールでやるコンサートは、ミュージシャンはホールで契約し、スタジオではなくホールで録音する。その分、レコード会社のコストは少なくなるので、その分をよこせといえる。うん、1枚300円なら何とかなるかも知れません。当たってみます」

当時、CDやDVDのような商品は「ロング・テール」を持つといわれていた。発売当初はたくさん売れる。では、時間がたてば売り上げゼロになるかといえば、ならない。売り上げはどんどん減るが、いつまでたっても売れ続ける。棒グラフにすればしっぽがどこまでも続く形になるのでそう呼んだ。

1年に5枚のCDを出す。先ほどの数を基本にすれば、1年目のホールの利益は1億5000万円である。2年目にも5枚出すとすると利益は1億5000万円に長くなったしっぽ分である。3年目、4年目と時間がたつに連れてしっぽからの利益が増えるという仕組みだ。
それに、浜離宮レーベルCDの評判が良ければ年間5枚だけということもなくなる。我も吾もとミュージシャンが押し寄せ、10枚、15枚だってあり得る。
どうしても消せなかった1億5000万円が埋まって運営赤字がなくなるだけでなく、利益まで出るではないか。その数字をひっさげてホールが独立すれば、いまは低額に抑えられている朝日建物管理の人たちの所得を上げることが出来る!

それまで浜離宮ホールのタブーだったポップスのコンサートを始めたとき、そこまで考えていたかどうかは判然としない。ボンヤリとは考えていて、だからポップスコンサートにも手を広げたような気がするが、そこははっきりしない。歴史を記述するとは難しいものである。

私は、Premium meets Premiumに登場してくれたポップスのミュージシャンのCD売り上げ枚数を調べて、

「おっ、この人は5万枚ね。よし、1500万円! こちらは15万枚か。4500万円にもなるぜ!」

と相変わらず捕らぬ狸の皮算用を続けていた。いや、それしかすることがなかった。なにせ、ポップス系の音楽事務所には全く知り合いがなかった。レコード会社にだって伝手は全くない。つまり、することがない。すべてをWa君の才覚、口舌 人脈に賭けるしかない。

「大道さん、第1号が決まりましたよ!」

そういってW君が事務所に戻って来るまでにそれほど時間はかからなかったように思う。

「ホントかよ! で、誰でやるの?」

Wa君の口から出てきたのは、まるで知らないミュージシャンだった。その時名前は聞いたはずなのだが、記憶のどこを探してもその名前が出てこない。まあ、いい。仕事と趣味は別である。とにかく、浜離宮レーベルのCD、DVDが出せるのなら、大きな一歩を踏み出すことになる。

そのコンサートが開かれた日、レコード会社からたくさんの技術者が録音機材を持って浜離宮ホールを訪れた。早い時間から入念にセッティングをしている。ふむ、ライブCDとはこのようにして制作されるものなのか。いずれにしても楽しみである。

翌日だった。Wa君が浮かぬ顔をしてよってきた。

「昨日の件ですが、収録はしたんですが、あまり出来がよくなかったとかで、CD化は見送るという連絡がありました。残念ですが……」

出来が悪かったのはミュージシャンか、それとも録音機材のセッティングがうまく行かなかったのか。いつもは専用のスタジオを使っているのだから、室内楽に最適化された響きを持つ浜離宮朝日ホールはちょっと勝手が違ったか。まあ、回数を重ねれば、浜離宮ホールに最適の録音機器セッティングも自ずから分かってくるだろう。

「ま、それだったら仕方がないね。第2号の実現にむけてあと一踏ん張りしてよ」

Wa君も私も、あと一踏ん張りするつもりだった。ところが、企業には人事異動というものがある。第2号が日の目を見る前にまずWa君に大阪転勤の内示があり、しばらくすると私の総支配人の首を切る人事が発令された。

「そうか、そういえば俺も定年まであと1年半ばかりだもんな」

こうして、私のホール改革は道半ばで幕を閉じた。ホールの運営赤字をすべて消すという目標は未達である。それが出来なかったから、ホールの独立ももちろん夢のままで終わった。

私の後任になった男と酒を飲んだ。飲みながら、総支配人としての2年半で、何をしたくていろいろなことを変えてきたのか、その結果どうなったか、やりかけていたことは何か、これから何をすべきか、詳細にわたって説明した。この路線を引き継いで欲しいとお願いした。

残念ながら朝日ホールは、いまでも朝日新聞の一部である。あれから、多少なりともホールの運営赤字は減ったのか? それとも、元の木阿弥になってしまったか? おそらく、事務室では朝日新聞社員と朝日建物管理社員が、相変わらず入り交じって仕事をしているのだろう。給与格差も相変わらずなのだろう。
その後、朝日新聞では実質的な賃金引き下げがあったから、給与格差は少しは縮まったのかも知れぬ。だが、ただそれだけのことである。本質的な問題は何も変わっていない。

もし私のホール改革が成功していたら、私は新しい会社の社長になっていたはずだ。社長に定年はないから、いまでも社長だったろう。そして、増収と社員の待遇改善に力を注いでいたと思う。
いまの桐生暮らしとどちらが充実した毎日を送れたのか。歴史にifはないから、考えても詮ないことであるが……。