2024
04.24

私と朝日新聞 事業本部の2 晴釣雨読の日々を思い描いた

らかす日誌

60歳が迫ってきた。さて、60歳になって定年になったら私は何をするのだろう?
いくつかの構想は持っていた。

①晴釣雨読
私は30代になった頃から海釣りを趣味するようになっていた。切っ掛けは単純である。幼かった我が長男に、妻女殿の父、私の義父が釣り道具セットを買ってくれた。長男が4、5歳の時である。義父が釣りを楽しんだという話は聞いたことがないから、我が長男がねだったのだろう。
釣り道具が手元にあれば、使ってみたくなるのは人情である。

「お父さん、釣りに連れて行ってよ」

とせがまれ、やむなく私も釣り道具を買った。何度か池での釣りをした後、本格的に釣りを始めたのは1回目の名古屋勤務の時だった。長男はまだ幼稚園生だったか、それとも小学生になっていたか。
名古屋港に釣りに行った。家族総出である。名古屋における海釣りのメッカかどうかは知らないが、名古屋港に突き出た防潮堤に我々は向かった。妻女殿は弁当を用意した。この防潮堤が釣り場である。
長男と長女は2歳離れている。長男が6歳であったとすれば、長女は4歳。自分の行動に見境がない年齢だ。防潮堤にこの娘も連れて行く。でも、はしゃぎ回って防潮堤から海に転落したらどうする?
私は、愛する娘が防潮堤から転落しても救い出せる方策を考えた。私は泳ぎは苦手である。海に落ちた娘を救うために海に飛び込む根性はない。またそんなことをしても、防潮堤は海面から4〜5メートルは上にある。這い上がる手がかりはない。つまり、2人とも溺れてしまう。
であれば、長女が海に落ちない仕掛けをするしかない、と私は考えた。長女を海に落とさない。万一落ちたとしても、直ちに救い出すことができる。さて、私がどんな仕掛けをしたか、想像していただけるだろうか?
娘の腰に、ロープを巻きつけたのだ。そして、そのロープの端を妻女度に持たせた。こうすれば、長女はロープの長さの範囲内で自由に動き回ることができる。何やら、小学算数の

「ロープに繋がれた牛が動き回ることできる部分の面積を求めなさい」

という問題に似た対処法である。だが、目的は長女が動き回れることができる部分の面積を求めることではない。もし、長女が防波堤から落ちたら、このロープで引き上げようというのである。これで家族の安全を保つことができる。

そんな釣行を何度か繰り返した。釣果? まあ、どれだけ魚が釣れたより、ファミリーで休日を楽しんだことの方が価値は大きかった。防潮堤の根本には屋台のラーメン屋さんが店を出しており、何度かその味を楽しんだ。というか、たいした味ではなかったが、人が感じる味とは環境に寄るところが大きいのである。家族全員での釣行で味わったラーメンが不味いはずはないではないか。

東京に転勤し、浦安に居を差がめた時は、確か小学2年生になっていた長男を午前4時半に起こし、千葉県・木更津まで黒鯛を釣りに行った。釣果はなかった。黒鯛は難しい。
横浜に引っ越し、長男が軟式野球のチームに入ると私は会社の同僚と釣りに行くようになった。少なくとも月に1回は竿を出した。

釣りの醍醐味は、海の中からかすかに伝わってくる魚信である。

「来た!」

折角食らいつてくれた魚を逃がすものか! 魚信に合わせて竿をすくい上げ、釣り針をより食い込ませる。慎重にリールを巻く。やがて海面に釣果が姿を現す。客観的に見れば魚が1匹採れただけなのに、魚屋に行けばもっと安く買えるのに、何事かを成し遂げたような満足感が沸き上がる。

己で釣った新鮮な魚を刺身で食べるのも釣りの楽しみだ。当初、我が家の妻女殿は

「魚がにらんでいる!」

とわが釣果に手をつけるのを拒まれた。私は

「魚とは、切り身で海の中を泳いでいるのではないのだぞ!」

と憎まれ口をききながら、自分でさばいた。3枚におろし、皮を剥ぐ。そうすれば「切り身」になって妻女殿も触ることができる。そこまで仕上げると私は入浴し、さっぱりしたところで日本酒、ビールを飲みながら釣りたての魚を口に運ぶ。

「ゴルフをやるヤツの気が知れないよ。ゴルフじゃ土産はない。釣りならこんなに美味な土産があるぞ!」

そんな私にも坊主(魚が1匹も釣れないこと)の日はあった。いつもなら

「こんな日もあるさ」

と帰途につくのだが、カワハギを狙って伊豆半島から海に出たある日、坊主のまま船を降りたが、どうしてもカワハギの肝が食べたくなった。クーラーボックスは空のままだから、このままではカワハギの肝を食べることができない。
ふと思いついた。確かあのあたりに、水槽で泳がせている魚を売る店があったな……。

遠回りしてその店を探しだし、カワハギを3匹買った。1匹700円? 800円? いずれにしても、釣り船の料金より遙かに安い!
クーラーボックスにその3匹を入れて帰宅した私が、

「今日はあまり釣れなかった」

それ以上の話をしなかったのはもちろんである。

それほど釣りにのめり込んでいたから、毎日が日曜日と化す定年後の日々は、晴れた日は海に出て竿を出し、雨が降れば自宅で読書にいそしむ晴釣雨読の日々を思い描くのは自然であった。横浜に住み続けては、近くにいい釣り場がない。沼津あたりに引っ越すか? いい釣り場を見つけ、毎日撒き餌をして魚を集めよう。そうすれば釣り船に乗らなくても釣果は期待できるのではないか?

そんなことを考えていた。

2回目の名古屋勤務は単身赴任であったことはすでに書いた。相変わらず釣り道具は狭いワンルームマンションの一角にあり、時折釣行を楽しんだ。
ある日、中部電力の広報課長、共同通信社の記者と釣りに出た。浜岡原子力発電所のある静岡県御前崎市の沖に船で出る。狙いはイサキだったと思う。魚影が濃い釣り場で、昼過ぎまでに10数匹の釣果を得た。大漁である。
夕刻、ワンルームマンションに戻る。まず手がけなければならないのは、釣ってきた魚の処理である。1匹は3枚におろして刺身にした。1匹は内臓を抜き、塩焼きで楽しむことにした。かなり大型のイサキだった。2匹も食べれば十分お腹が充ちる。さて、残りはどうする?
そんなことを考えながら、風呂を沸かす。小分けにして冷蔵庫に入れてあるご飯を電子レンジで温め、イサキの付け合わせになるような野菜料理(何だったかは失念)を用意し、風呂が沸いたら釣行で汚れた衣服を脱ぎ捨てて入浴し、さっぱりする。パジャマに着替えて食卓に着く。ビールを抜き、イサキに舌鼓を打ちながら、ふと思った。

「独り身で釣りをするのは大変だ!」

家族が揃っていれば、釣りから戻れば風呂は沸いているし、夕食の支度も調っている。私は釣った魚の処理をするだけでよい。この間、妻女殿がこなしていた仕事も、単身暮らしでは全て私の仕事になる。ちょっと荷が重い。

そんな思いが湧いたからだろう。いつしか釣りに出る回数が減り、やがてなくなった。東京に転勤してからも、あまり釣りに出ることがなくなった。
こうして、私の晴釣雨読構想は、実現しないまま、いつしか消え去っていた。