2024
04.25

私と朝日新聞 事業本部の3 大学生になろう!

らかす日誌

②大学生になる
私は大学生時代、学校での勉強はあまりしなかった。そんな時代だった。
入学式に、青いヘルメット姿の反帝学評の運動家が20〜30人、

「入学式粉砕!」

を連呼しながらなだれ込んできた。学生運動の時代である。若者が現状に「ノン」を突きつけ、既成のあらゆる権力に、あらゆる権威に抗っていた。1967年の羽田闘争、68年に勃発した東大闘争日大全共闘の結成、九大電算機センターへのファントム機の墜落新宿騒乱、69年はじめの東大安田講堂の攻防……。全国で学生が立ち上がっていた。高校生、浪人生時代のころから、私は完全に時代の子であった。なだれ込んできたヘルメット姿の反帝学評の一団に

「おお、これが学生運動か。そうだよ、入学式みたいな儀式の意義ってどこにあるんだ?」

と、半ば共感を寄せる新入生であった。
ところが、多数派は違った。

「帰れ、帰れ」

の大合唱が新入生から反帝学評の一団に投げかけられたのである。
私は、

「入学式を粉砕しなければならないという彼らの話を聞きたい。時代を根本から変える入口になるのではないか?」

と思う時代の子であったのだが、どうやら少数派だということをその時知らされた。

なんとか入学式は終わった。これで私も大学生である。大学に通い始めた。ところがそれから1週間か10日すると、学生大会で全学バリケードストライキが決まった。いくつか分かれたキャンパスの出入り口すべてにバリケードを築き、学内を全学共闘会議が領導する解放区にする。そんな趣旨だったと思う。教官や事務職員の出入りは厳しくチェックされた。もちろん、授業などない。学内では各クラスの討論会(これを「クラ討」といった)が開かれるだけ。新入生である私たちのクラスには、1学年上の学生がやって来てクラ討をリードした。
大学が社会で果たしている役割、既成権力として抑圧機関に堕した教授会、大学自治とは何か、なぜ大学は権力の介入を防いで自治を貫かねばならぬのか、目前に迫った70年安保に、大学生として我々はどう向き合わねばならないのか、革命とは、マルクス主義とは。討論のテーマは数限りなくあった。

「おお、これが学生運度か」

と心は躍り始めたが、さて、討論の中身はなかなか頭に入らない。だからだろうか、しばらくするとクラ討への参加者は目に見えて減り、討論会の開催が難しくなってきた。そのうち私も

「行っても、どうせあいつとあいつしか来ないわなあ」

と思うようになり、大学から足が遠のいた。そして生活費を稼ぐためのアルバイト(親に負担してもらったのは授業料=国立大学だから、当時は月額1000円=だけだった)に精を出し、残りの時間は手当たり次第というほど本を読み始めた。叔父に

「マルクスを理解するには、まずデカルト、カント、ショーペンハウエルを読まなくてはならない」

といわれ、岩波文庫の難しい哲学書を読んだのもこの頃である。そう、私は世の中を作り替え得る左翼学生を目指したのである。机に読むべき本を積み上げた。本を開く。ちろん、目は活字を追うのだが、99%は理解できないという苦しい読書であった。この人、何を言いたいんだろう? そう、あの時読んだ哲学書の中身は完全に頭から消えている!

そんな学生生活が半年ほど続いた。その年の10月、大学当局は機動隊を導入してバリケードを撤去した。秩序派、といわれた一般学生は多数派で、ストライキ解除が決まった。授業が始まった。

しかし、である。半年間もの長い間、授業とは無縁の暮らしをしたのである。その間、

大学とは智を授けられるところではない。自らで智を身につける場所である

程度のことは考えるようになっていた。高校までのように真面目に授業を受け、その中身を理解し、記憶する学び方が、智を授けられる学び方である。大学はそうではない。身につけるべき智を自ら選び取り、自ら学ぶ場である、と思い定めたのだ。そのためには本を読まねばならない。かったるい授業なんぞに出ている暇はない。

そんな私を後押ししたのが、半年間のバリケードストライキ中に仲良くなった一部の教授たちである。物事を、世界を根源から考え直そうという学生運動に共感を寄せる人たちだ。

「大道君、僕の授業なんか面白くないから出なくていいよ。うん、テストペーパーに名前さえ書いておいてくれたら単位はあげるから

ますます授業から足が遠のいた。

私が通った大学は最初の1年半は全員が教養部で過ごし、それからそれぞれの専門課程に進むことになっていた。私の場合、法学部に進む。
その日が迫ってきた。私は

「あれ?」

と思った。教養部の1年半のうち半年はバリケードストライキで、残りの1年はほとんど授業を受けずに過ごした。そんな暮らしをしていたら、授業を受けて教えられたことを頭にたたき込むという、普通の勉強の習慣が私の中から消えていたのである。このまま法学部に進んだとしても、俺、勉強できるか? 司法試験を受けようと思って法学部を選んだのだぞ。司法試験は難関である。それなのに、普通の勉強のスタイルを忘れてしまった? どうすりゃいい?

考えた末、私は1年間休学することにした。その間、もう一度じっくり、「学ぶ」ということを考える。加えて、フルタイムのアルバイトをする。学生運動の端っこにチョロチョロ参加していて、「労働者」にコンプレックスがあった。何でも、革命の主体は「労働者」なのだという。学生はどれほどがんばったところで露払いに過ぎない。その「労働者」という言葉が高い空で光り輝いており、大学生という自分の身の振り方を考えるには、なんとか乗り越えなければならなかった。考えているうちに

「だったら、労働者になってみればいいじゃないか。下手な考え休むに似たり、だ」

と思いついたのが2つ目の理由である。1年間とはいえ、実際に労働者になってみる。私は下宿から歩いて行ける運送会社に

「私を1年だけ採用してくれ」

と頼み込み、無事採用された。トラックの運転手になったのである。
そして、1年ガ過ぎればまた大学生に戻るのだ。今度は司法試験を目指して勉強しなければならない。であれば、その間2年半分の生活費を稼いでおく方がいい。そうすればアルバイトをすることなく、全ての時間を法律の勉強に注ぎ込めるはずだ。

と考えての休学だった。

不思議なものである。1年間2tトラックを運転してロッテのガムやチョコレートを配送しているうちに、何となく

「勉強したいな」

という気になったのだ。それも、「学ぶ」を突き詰めることが出来たわけではない。「労働者」と大学生の関係性を解き明かしたわけでもない。2年半分の生活費も貯まらなかった。ただ何となく

「勉強したい」

と思い始めたのである。
そのままであれば、きっと司法試験に挑んでいただろう。だが、すでに書いたように大学に戻って間もなく、後に我が妻女殿となる女性と知り合い、5日間で婚約を決め、大学3年の終わりに結婚した。
つまり、私の大学生活は、それなりに読書はしていたとはいうものの、「学ぶ」ことが少なかった。

と昔話を書いてくると、

「そうか。だからその欠落感を埋めるために大学生になって学び直したかったのか」

と好意的に解釈して下さる方が多かろうと思う。ところが、なのだ。それは早とちりなのであります! そもそも私が、そんな殊勝なことを考えるはずがないではありませんか!

大学生になろうと思ったのは、いってみれば暇つぶしである。暇つぶしに大学の教室に通い、大学の教授先生をからかってやろうと思ったのだ。このあたりは、学生運動の中で身に染みついた

権威の化けの皮を剥ぐ

という攻撃精神の現れかも知れない。

「あなたはこうおっしゃるが、お示しいただいた素材からそんな結論に至るのは解せない。こうも、ああも考えられるのではないか?」

「それは議論の前提が少し間違っているような気がするが」

などの質問を繰り返し、学問の権威といえる教授先生たちをいじめることができたら楽しいだろう、という遊び精神だった。
加えて、選ぶ学科は女子大生が多いところが好ましい。教室で教授先生と論戦をした後、

「ねえ、いまの議論、君たちはどう思う? お茶でも飲みながらみんなの意見を聞かせてもらえない?」

と誘う。上手く行けば、

「じゃあ、おじさんがご馳走するから飲みに行こうよ」

ということだって期待できる。
60歳。老年の入り口である。若い女性に取り囲まれる機会が多ければ、暮らしが華やかになるではないか。生きているのが楽しくなるではないか。

まあ、その道一筋に研究を続けてこられた大学の教授たちと、対等な議論ができたかどうか。論破されることが重なったのではないか? と冷静になったいまは考えるのだが、楽しき老後を演出する手法を考えていた私であった。