私と朝日新聞 ―― 一記者の歩んだ半世紀の記録 ――

記者以前 編
▼ 【序】物語の始まり
前書き
74歳を迎え、自身の歩みを整理しようと思い立つ。42年勤めた朝日新聞と自身の歴史を振り返る連載の序章。
▼ 【その1:新聞への憧れと挫折】

ファーストコンタクト
11歳の winter、欲しかったラジオ。その購入資金を稼ぐため、少年は父の「交換条件」と共に朝日新聞の門を叩いた。

朝日派米少年
アメリカのヨセミテ公園で突然の「業務命令」。本音で綴った「初原稿」は、引率者の逆鱗に触れた。文章を書くことの難しさと、読者を意識するプロの視点を学んだ。

初めての原稿
国立大進学を目指し、独学で数学に打ち込んだ高校時代。医師への誘いを断り、「法律で弱者を守りたい」と弁護士を志して法学部への進学を決意する。

弁護士になろう
自信満々で挑んだ国立大入試。しかし、結果は「サクラハナチル」。浪人生活を余儀なくされるが、この失敗がのちに新聞記者への道を開く不思議な転機となる。

大学受験に失敗
自信満々で挑んだ国立大入試。しかし、結果は「サクラハナチル」。浪人生活を余儀なくされるが、この失敗がのちに新聞記者への道を開く不思議な転機となる。

学生運動
浪人生活を経て入学した大学は学生運動の嵐のさ中。デモに出るも、「暴力」は嫌った。「臆病者でも社会は変えられるか」と自問し、ベ平連へ。それが運命の扉を開く。

裁判所にデモに行った
食費を削って本を買う。初めて傍聴した裁判は、事務的で退屈だった。目指した弁護士という職業に、小さな、しかし消えない疑問符が灯った日の記憶。

▼ 【その2:運命の出会いと西鉄時代】

ほびっとへ
将来への迷いから休学してトラック運転手を1年。復学後、ベ平連の頼みで岩国の反戦喫茶「ほびっと」へ。大阪駅で出会った奇妙な連れと共に、運命の地に行く。

出会っちゃったのです
岩国の反戦喫茶で大工仕事に精を出す夜、ふらりと現れた旅の女性連れ。J・レノンを通じて意気投合した偶然の出会いが、のちに新聞記者への道を開く最大の転機に。

来ちゃったんです!
横浜から突然訪ねてきた女性と、出会って数日で電撃婚約。学生結婚への階段を駆け上がるなか、仲人を依頼したことが、離れていた朝日新聞との縁を再び引き寄せめる。

朝日新聞もよかばい!
仲人を快諾した飛永さんから、突如「朝日新聞の記者になれ」と勧められる。予想外の提案と社会部長への面会設定に、弁護士志望の心は激しく揺れ動く。

▼ 【その3:朝日新聞入社試験】

不合格志願
記者の道は拒みたいが、恩人の顔も潰せない。窮した末に導き出した解決策は「入社試験を受けて、わざと落ちる」こと。無策のまま、天下の難関へと挑む。

若さ=馬鹿さ、である。
新婚生活のなか、弁護士の限界を感じて突如「新聞記者こそが天命」と確信。「世の中を正す情報を届ける」という青く熱い理想を抱き、無謀にも二ヶ月後の朝日新聞入社試験へ全力を投じる。

40数日の戦い
40日間の猛勉強で挑んだ朝日新聞の入社試験。しかし結果は不合格。再起を期して「朝日浪人」を覚悟した矢先、妻の懐妊が判明し、崖っぷちに立たされる。

大卒採用担当に
妻の懐妊を受け、朝日浪人を断念して西鉄へ入社。配属された人事課で、新入社員ながら「大卒採用の一任」と「入社試験の作成」という異例の大役を任されることに。

fake information
西鉄の試験作成を逆手に取り、弱点を克服して挑んだ2度目の朝日試験。一次を突破した私は、「嘘」をついて東京での最終試験へ。執念で合格を引き寄せにかかる。

合格通知が思わぬ事態を招いた。
朝日新聞合格。後ろめたい思いで西鉄に退職を願い出る。しかし、上司たちは怒るどころか「おめでとう」と壮行会まで開いてくれた。人の温かさに涙しつつ、夢だった記者の世界へ。

9月1日に繰り上げ入社となりました。
長男の誕生と同時に9月の入社が決まる。初任地は縁もゆかりもない三重県・津。倍増した給与に驚きと喜びを感じつつ、妻子を横浜に残し、24時間勤務の記者生活へと単身飛び込んでいく。

津支局 編
▼ 【その1:記者事始め】

名古屋本社で即席研修を受けました。
三日間の突貫研修へ。自費でカメラを買わされ、暗室作業や電話送稿に翻弄される。「見てきたような嘘」を書くベテランに圧倒され、記者の道を歩み出した。

大丈夫か、お前。本当に新聞記者なんかになれるのか? うぅぅぅ……。
「弾圧される側」から一転、大嫌いな警察の担当に。副署長との会話は続かず、初原稿はデスクの青ペンで固有名詞以外すべて書き直される。前途多難な船出。

あんた、何学部?
刑事部屋で無知を晒し、「あんた、何学部?」と呆れられる一方で、ヒラのお巡りさん全員に名刺を配っただけで、他社が入れない現場のテープ内へ招かれる。

レーダー探知機
鑑識で見つけた資料で初の特ダネを執筆。支局長の指示で20行のコラム「青鉛筆」に凝縮して掲載するも、1週間後に他紙が社会面トップで追いかけてきた。

恐るべきライバル
署長から調書を読み聞かされ、汚職事件の特ダネを抜く。しかし、記事中の「住所の誤記」からネタ元をNHK記者に見抜かれ、鉄壁のマークを受ける。

泥棒
自宅に泥棒が入り、刑事や他社記者に「現場」として笑われる。一方で、老刑事の「署内に泥棒がいる」という極秘捜査に協力し、夜な夜な犯人を追った珍体験。

子どもと遊ぶ
よちよち歩きの長男に警察署のフロアで自由に走り回らせる。お巡りさんたちに息子と遊んでもらいながら副署長と雑談。奇策ともいえる「子連れ仕事術」。

▼ 【その2:記者生態学】

支局生活
賭け事嫌いが支局や記者クラブに充満する「麻雀文化」に染まっていく。キーパンチャーとの「こいこい」に大負けしつつ、小組織で仕事を進めるための処世術を学ぶ。

記者とは不届きな輩である
事件が「飯の種」の記者の業と、被害者の顔写真集めに潜む葛藤。嘘を重ねて遺族から写真を借りる仕事に嫌気しながらも、現場の鑑識員に助けられ、スクープ写真を手にしてしまう自己矛盾。

入社式・新人研修
入社7ヶ月目に迎えた新人研修。野心を燃やす同期や名家の子息に囲まれ、自分の場違いさを感じつつ、大先輩の「金と女」の訓話に耳を傾ける。

暇ネタの話
事件のない日に「まちネタ」を追う。合成洗剤反対運動の矛盾に触れ、絵本の読み聞かせグループの主婦たちとの危うい夜の誘いに直面する。

▼ 【その3:三重県警】

高校野球の夏
三重県予選の取材に奔走した記者2年生の夏。優勝候補の宇治山田商業に入れ込みすぎ、敗退に選手と共に号泣する。記者の「公平原則」を越え、球児たちの情熱に深く深く没入した、忘れ得ぬ夏。

線路のボルトが抜かれた
線路のボルトが抜かれる広域事件を他紙がスクープ。支局長から「辞めちまえ」と激昂されるも現場へ飛び出し、年末の寒風吹きすさぶ線路を警察官と巡回した。

女子高生売春
暴力団から押収された拳銃の魔力に触れ、女子高生売春の摘発を前に不謹慎な冗談を刑事と飛ばし合う。事件の背後にある社会の闇に気づけず、ただネタを追うことしかできなかった未熟さ。

飲酒運転
汚職事件の取材中、捜査官から酒を強要され、特ダネのために飲酒運転を覚悟する。トイレに駆け込み、忘れてはならない固有名詞を掌に書き留めた。

佐々淳行本部長
「東大安田講堂事件」等で知られる佐々淳行氏。権力の象徴のはずが、彼の飼い犬にズボンを噛み破られて共に笑い転げるほど仲良しに。彼から得た情報の断片を武器に、刑事部長や課長の懐へ「本部長も期待していた」と揺さぶりをかける、私なりの取材術。

恥ずかしいキャンペーン
記者3年目、支局長の命で挑んだ17回の長期連載「なくせ交通死」。背伸びをしながら取材を重ねるも、最終回は「なくせない交通死」という絶望だった。

▼ 【その4:それからのこと】

三重県と原爆
「全国で唯一、被爆者の会がない空白県」だった三重。会結成の動きを捉え、同期と「33回目の夏」を連載する。被爆時の惨状や根深い差別を浮き彫りにしながらも、一度書いただけで満足してしまった若き日の取材姿勢を反省する。

支局長の人格
共有の冷蔵庫に入れた私物に名前を書き、部下の誠実な謝罪に毒を吐くM支局長。新婚旅行を切り上げて「教職員人事」を抜いたことを誇るような歪んだ記者魂。

津支局で起きたラッダイト運動
FAX導入に伴う「新原稿用紙」への切り替えに、三重県下の記者が猛反発。通信会議の場で本社幹部を深夜までつるし上げる抵抗運動を展開する。技術革新の波には抗えず敗北に終わるも、会社方針に唯々諾々と従わぬ「記者たちの反骨」の一夜。

社員差別問題
かつて非正規記者の差別撤廃を求めて組合が立ち上がった歴史を聞き、自社の良識を誇りに感じた日々。しかし、晩年に社内で派遣労働者の実態を知り、紙面で非正規問題を論じながら自らも収益第一へと変質した組織に深い失望を抱く。

岐阜支局 編
▼ 【その1:不安だったのです】

不安だったのです。
1978年4月、岐阜へ。都会の洒落た空気に惹かれる一方、支局の質の高い記事に「やっていけるか」と戦慄する。県庁担当兼遊軍として、未知の地で不安を抱え踏み出した一歩。

長良川は溢れるか
アユの放流量「62トン」を「62万トン」と誤記。読者から「川が溢れませんか」と洒落た指摘を受け、デスクの機転で翌日の記事に正しい数字を潜り込ませた。

憲法特集
「憲法特集をやる」という松本デスクの命で出会った近藤先生。「赤い旗」のルールを通じ、暮らしの中で憲法の精神を伝える姿を記事に。松本デスクの「書かねばならない記事を書け」という哲学に学ぶ。

県立高校入試問題が漏れた
警察担当が入試問題漏洩事件で他紙に抜かれ続けた朝日新聞。しかし、保釈された塾経営者を訪ねると「余計なことを書かなかった朝日なら話す」と異例の独占取材に成功。不名誉な「抜かれっ放し」が逆転の特ダネを生んだ。

拝啓 上松知事ドノ
下水道処理場建設を巡り、機動隊を導入して強行突破を図った県。「反対は一部」と切り捨てる知事に対し、異例の「手紙形式」の記事で民主主義のあり方を問いかけた。

治水はできるのか
長良川安八水害訴訟の担当となり、国と住民の激しい論戦を取材。治水の正解を求め九州の学者を訪ねるが、返ってきたのは「自然は人間の思惑を軽々と乗り越える」という峻厳な現実だった。

長良川河口堰訴訟
2万5000人の原告団。治水・利水の建前の裏にある工業用水需要の消失や、河川工学のデータ独占に挑んだ。10数年後、後輩記者が「これしか頼りになる記事がない」と私の解説記事を携えて現れた。

徳山ダム―増山たづ子さんのこと
ダムに沈みゆく徳山村で出会った「カメラおばあちゃん」こと増山たづ子さん。村の日常を慈しみ、写真や録音で故郷を遺そうとする彼女との交流記。共に熊肉を食し、囲炉裏を囲んで笑い合った日々。

徳山ダム問題で予期せぬ特ダネを書いたこと
1978年9月、21年に及ぶ拒絶を経て、徳山村はダムの補償基準提示を受け入れた。歴史が動くその日、予告記事まで書いたにもかかわらず、現場にいた記者は自分1人だけで、意図せざる「特ダネ」になった。

しつこいようだが、また長良川河口堰
「これしか頼りになる記事がない」と後輩に言わしめた、1978年当時の解説記事を再録。高度成長期の過大な水需要予測や、治水の名目で行われる大規模しゅんせつの矛盾を、詳細なデータと専門家の視点で解剖した。

写真が……。
恵那郡上矢作町の町長選ルポ。取材後、支局の暗室で現像に失敗し、真っ白に近いフィルムを前に青ざめる。極限の引き伸ばし作業で救い出した一枚の写真と、記事へのクレームを「嘘も方便」の度胸で跳ね返した冷や汗混じりの回想録。

▼ 【その2:子ども見つけた】

子ども見つけたの1
1979年の正月企画。自身の子育てや恩師・近藤先生との交流から「生き生きとした子ども」をテーマに据える。教育記者の大先輩から「倍の原稿を書いてから削り、行間に意味を込める」という極意を学び、取材を開始する。

子ども見つけた、の2 乗車拒否
「なぜオレたちだけ運動会で負けるんだ」。中津川市阿木の広岡地区の子どもたちは、その原因をバス通学にあると突き止め、自ら徒歩通学を始めた。親の葛藤や周囲の視線を乗り越え、一足の運動靴を履き潰すたびにたくましくなっていく「広岡っ子。

子ども見つけた、の3 ヒマワリ
高山市南小学校。無口だった少年が、クラス全員で「お化けヒマワリ」を抜いた感動をきっかけに、表現すること、学ぶことへの自信を掴み取っていく。子どものやる気を引き出す「きっかけ」の尊さをを知る。

子ども見つけた、の4 二世誕生
岐阜市長良西小学校。最初は「気持ち悪い」だった蚕が、二世の誕生を通じてクラスの主役に。蚕を抱いて眠る子、近所とオス・メスを交換する親、真綿を作る家族。小さな生命との格闘が、教科書の知識を超えた「生きた学び」を引き出した

子ども見つけた、の5 ミルクまつり
岐阜市鷺山小学校。牛乳が大嫌いな少年が、22日間の格闘の末に一杯を飲み干した日、教室は「ミルクまつり」の歓喜に包まれた。一人の克服がクラス全体の自信へと波及し、「漢字まつり」「九九まつり」と連鎖していく。

子ども見つけた、の6 事件
中津川市南小学校。いじめと差別に耐えかねた少女が叫び、泣き出した「事件」。彼女が初めて綴った本心の作文が、クラスメートに「他人の痛み」を気づかせ、教室の空気を変えていく。学力偏重の中で失われゆく「共感」を取り戻す。

子ども見つけた、の7 悲しみの砦
羽島郡境川中学校。朝鮮人強制連行の悲劇を描いた劇の制作を通じ、近隣の朝鮮学校生徒への偏見を克服していく2年7組。歴史の真実に触れた中学生たちが、自ら挨拶を交わし、ついには初の交流会を実現させる。

子ども見つけた、の8 スイカ
羽島市小熊小学校。師弟が農家の教えを請い、苦労して育て上げた70個のスイカ。「割って食べよう」という当初の目的は、収穫の時、「自分たちで作ったものが愛おしくて壊せない」という慈しみの心へと進化していた。

子ども見つけた、の9 どろんこ大作戦
岐阜市島小学校。子どもたちが始めた「砂だんご作り」が、全校を巻き込む一大ムーブメントに。白砂をまぶし、ズボンで磨き、強度を高めるための独自のノウハウを競い合う。既製の玩具を離れ、自ら遊びを創造し、泥にまみれて「工夫する力」を取り戻していく子どもたち。

子ども見つけた、の10 背筋力よいしょ
恵那郡上矢作町。異常に低下した子どもの背筋力を「人類の危機」と捉えた医師と教師たちが、町を挙げての強化運動に乗り出す。木登りの復活、雑巾がけ、そして診察室に1人で入る「自分の体は自分で守る」教育。

子ども見つけた、の11 秘密
病欠した担任・畑中先生を「安心させたい」と、小学3年生たちが自発的に始めた「月の観測ノート」。先生を驚かせるための愛らしい「秘密の作戦」と、教員生活28年で最高の贈り物に畑中先生は涙した。

子ども見つけた、の12 みそ汁
美濃市洲原小学校の「力いっぱい働く10日間」。家庭での家事分担や農作業を通じ、子どもたちは労働の厳しさと「自ら動く」喜びを知る。娘が作ったみそ汁の味に母が涙し、子が親の苦労を察する。

子ども見つけた、の13 黄色い帽子
岐阜市岩野田小学校。帽子の義務化に反対し、プラカードを持って教頭に直談判した子どもたち。教官に諭され方法は反省するも、数年後、成長した彼らは「数で押し切らない民主主義」を中学校の文化祭で実践する。

▼ 【その3:私は岐阜が大好きでした】

改めて近藤先生
近藤宏先生。その「ちょっと話す時間、ない?」という電話から、主婦たちの「100円コンサート」や戦災イチョウの再生など、名もなき人々の志を記事にした。

ゆりかご幼稚園
何も教えない」ことで子どもの発想を守る。マンモス園の政治的な空気に背を向け、長男を転園させた「ゆりかご幼稚園」の自由な教育。型にはめない情操教育と親子の読書が生んだ豊かな時間。だが、転勤で半年で別れを告げるた。

無理編にげんこつ
司法記者の重鎮ながら、支局ではボーッとしていた足立支局長。部下のガソリン代精算を請け負い、酒席ではタクシー券を振る舞う粋な上司だった。かつての吝嗇な上司との対比や、デスクと競うように中古のビートルを走らせた日々。

私は岐阜が大好きでした。
社会部志望の私に届いた経済部長からのスカウト。「高く売れる時に売れ」というデスクの助言に背中を押され、愛した岐阜の自然と自由な服装に別れを告げた。高島屋で買ったスーツに身を包み、未知の経済部へ。

名古屋経済部 編・1回目
▼ 【その1:ちんぷんかんぷんからの出発】

取材先はお年寄りばかり……
慣れないスーツに身を包み、名古屋経済部での記者生活が始まった。流通・証券担当として出会ったのは、企業のトップはお年寄りばかり。百貨店会長の意外な愛読書や、忖度に満ちたゴルフのパット……。経済記者としての第一歩を踏み出した。

知恵熱
企業の「通信簿」である決算発表。数字嫌いの私は、連日の発表ラッシュに翻弄される。入門書を開いても文字が滑っていく。ついには頭が混乱し、3日間続いた高熱は知恵熱に違いない。いや、私の小さな脳みそが経済記者へと脱皮するための儀式だったのか。

東海のくらし
毎週月曜朝刊の生活情報「東海のくらし」。野菜や鮮魚の価格見通しを書くための取材が始まった。産地の変化や「強制換羽」など、何とか季節感ある記事を工夫品がら、ふと思う。この記事、一体何人の読者が読んでいるのだろうか……。

オリエンタル中村百貨店
百貨店の事務所は女性下着売り場の奥。若かった私は赤面する思いでそこを通り、オリエンタル中村の店名変更問題を追った。やがて放った「秋に三越へ」の特ダネ。だが今振り返れば、「店名変更」なんてどうでもいい話ではないか?

私のヒラ時代
松坂屋店長の破天荒なヒラ時代を取材し、笑い転げた一時間。しかし、その面白さを原稿で再現できず、筆力の限界に打ちのめされる。だが結果として社の文章賞「えんぴつ賞」を手にする。自己採点はわずか50点だったのだが。

中内㓛さん
ダイエー創業者・中内㓛さんに会いに神戸へ。大富豪の彼が着ていたのは、自社製の格安スーツ「ロベルト」だった。自分が着られないものを客に売れるかと語る中内さんに、商いの真髄を見る。後日、地元スーパーの社長にどこのスーツを着ているのかと聞いてみたが…。

さて、私が経済記者ねえ……
体制への抵抗からノーネクタイを主張し、原発の危険を部長と論じ合った。自由な気風の経済部だが、「企業のお先棒担ぎではないか」という葛藤が消えない。30歳の私は、経験豊かな高齢の取材先に圧倒され続けた。あの時、社会部への異動を願い出ていたら、私の人生はどう変わっていただろうか。

東海銀行の事件
金融の知識も関心も薄いまま、東海銀行の担当に。直面したのは、支店長の独断による「紹介状」が招いた巨額損失事件だった。実績を焦るサラリーマンの悲哀を感じつつ取材に奔走したが、これが10数年後に指揮することになる「不正融資事件」取材の前奏曲になろうとは、当時の私は思いもしなかった。

正月の災難・朝日新聞についての新しい知見
トヨタとフォードの提携を巡る「抜かれ」に狼狽する新任部長。その部長に強引に誘われ、元日から上司宅をハシゴする羽目に。将来の社長候補宅で目にしたのは、妻まで動員して宴に興じる先輩たちの姿。学閥も派閥もないと信じていた私の朝日新聞像が、音を立てて崩れていく。

ソアラという車
開発費に制約なし――そんな異例の方針で作られた「ソアラ」を通じ、トヨタの車作りを点検した。欧州の椅子文化に挑む技術者や、理想を追うデザイナーとの対話。当時、失礼な質問をぶつけたデザイナーの出身地である桐生に、40数年後の私がいま身を置いているのは奇妙な縁である。

本が読めない
金融担当となり勉強を迫られるも、活字が頭に入らない。読書から離れた5年間のブランクを埋めるため、私は企業小説を突破口に、読書の習慣を取り戻す訓練を始めた。石田禮助の清廉な生き様に触れ、清水一行の著作に故郷・大牟田の影を追ううちに、再び私のカバンには本が戻ってきた。読書は習慣である。

▼ 【その2:特ダネ「トヨタ工販合併」】

私がトヨタ自動車の担当になった
「トヨタ担当」を命じられた。前任者の「合併は絶対にない」という言葉を信じ、気楽な取材を始めた私。豊田英二社長に「トヨタ車には乗る気になれない、哲学がない」と言い放ち、愛車のビートルでトヨタの駐車場に乗り込む。合併という巨大なうねりが近づいているとも知らず、私は「やんちゃな担当記者」だった。

トヨタ自動車という会社
ルポ『自動車絶望工場』を手にトヨタの暗部を暴こうと取材を始めた。だが、批判派社員が乗る真新しい自社車や、トヨタのおかげで生き残る下請け工場の実態を前に違和感が膨らむ。膨大な改善提案を支える仕組みの合理性を知るにつれ、企業としてのトヨタを、一筋縄ではいかない「尊敬すべき対象」と思い始めた。

幻のセラミックエンジン
新世代の技術と信じ、一面で報じた「セラミックエンジン」。しかし、その実態はトヨタの常務に「冷却不要は不可能」と一蹴される代物だった。企業のイメージ戦略と自らの無知が招いた、誤報まがいのマッチポンプ。発表ジャーナリズムの陥穽にはまり、技術の裏付けを取ることの難しさを痛感した。

東京モーターショー
トヨタの招待を拒み、朝日新聞の出張費で向かった東京モーターショー。接待を受ければ自腹で返すという経済部の矜持を胸に、広報課長を誘った六本木の「アマンド」。地理不案内ゆえの偶然がもたらしたその場所で、私は驚くべき言葉を、課長の口から聞いた。

工販が合併するって?!
「Suさんは一体何をしていたのか?」――広報課長からの予期せぬリークに近い提案に、私の頭は混乱した。絶対にないと聞いた工販合併が、突然「ありうる話」として現れたのだ。名古屋へ戻る新幹線の中、私はそれまでの気楽な担当記者から、特ダネを狙う一匹の「ブン屋」になった。

工販分離のメリット
トヨタ特有の「金太郎飴」のような公式回答。かつてはその言葉を鵜呑みにしていたが、今はその裏に潜む合併の予兆を疑い始めた。往復2時間をかけて役員宅を訪ねる夜回り取材。恩讐を忘れないトヨタの企業風土や歴史を反芻しながら、「メリットが上回る瞬間」を口滑らせる人物を追い求めていた。

ブランデーに酔い痴れてしまった
成果の出ない夜回りを続ける中、最高級ブランデーの味に言葉を失い、あるいは広報担当者の「接待の流儀」に感心する。公式回答しか得られないもどかしさを抱えながらも、自分が語る言葉に憧れを抱く若者の存在を知ったことも。一向に姿を見せない「合併」の尻尾に焦燥感を募らせていた。

悲壮な覚悟
12月20日を過ぎても、工販合併の言質は取れぬまま。元旦の紙面で他社に観測気球をあげられ「抜かれる」恐怖はあったが、裏付けのない記事は書かないと決意する。デスクに「抜かれることを甘受する」と覚悟を伝え、最後の望みをかけて東京出張へ。

分かれているメリットがもうなくなった。
夜討ちに続く朝駆けの末、サンテラスで向かい合ったトヨタ自販の重鎮。彼はトーストを口にしながら、さらりと一言「メリットはなくなった」。長らく続いた「工販分離」の歴史が幕を閉じる——。私は裏取りの成功を確信し、勝利の報告を携えて、熱を帯びた頭で冬の新幹線に乗った。

「両社長の談話をとって来い」
特ダネ原稿の執筆が始まった。かつての新日鉄合併の記事を「真似ぶ」ことから始めた素人同然の執筆。一方で、豊田英二・章一郎両社長への「談話取り」は本記と談話が食い違うチグハグな構成に。しかし、新社名や時期への「推測」という勝負の言葉を交え、1本の原稿を書き上げた。

特ダネとその波紋
1981年12月31日。2度の延期を経て、朝日新聞1面に「トヨタ工販合併」の特ダネが躍った。知らぬは日経記者のみという「嵐の前の麻雀」を経て放った一報は、ライバル他社の休みを吹き飛ばし、トヨタの重鎮・花井正八氏を激昂させた。

余震はまだまだ続いた
合併の有無だけを追っていた私は、連載執筆のため、改めてトヨタという巨大組織の深層に分け入った。「ファミリアの衝撃」や交際費を巡る文化の差。後追いの取材で書き上げた連載は、どこまで真相に迫っていたのだろう。

特ダネ街道
特ダネが特ダネを呼ぶ。マツダとフォードの提携を抜き、勢いに乗る私の前に、次なる大きな標的が現れた。トヨタの広報マンが漏らした「No.1との結婚」という比喩。それがは「トヨタ・GM提携」に違いない。調子に乗っている自覚はあったが、3つ目の金星を掴もうと、私は再び迷宮の取材へと足を踏み入れた。

血の気が引いた話

1982年3月8日早朝。日経新聞が「トヨタ・GM提携」を報じた。世界的な特ダネを抜かれた衝撃に血の気が引き、豊田英二社長へ5分おきの電話を開始する。しかし社長は鮮やかに逃げ、後輩と手分けして情報の断片を集めた。10年後、その特ダネが日経記者による「仲介」から生まれたものだと知らされたが…。

▼ 【その3:「緑一色」の送別会】

加藤さんの話
なぜか私を可愛がってくれた加藤さんとの、役満で終わった送別麻雀。それは「忘れられない記憶」という餞別だった。最後は動かなくなった鉄の塊・ビートルを脱ぎ捨て、ディーゼル音を響かせる中古のゴルフで東京へ。新たな戦場、東京経済部へと向かった。

東京経済部 編・1回目
▼ 【その1:通産省(現・経済産業省)】

浦安というところ
家族五人を乗せた中古のゴルフが辿り着いたのは、朝日新聞社員寮がある浦安だった。不動産価格の暴騰に絶望してマイホームの夢を諦め、社宅住まいを続ける決意をする。そこで直面したのは「戸建て・分譲・賃貸」という子供たちの間の身分制度だった。

通産省という役所
初陣は「悪名高き通産省」。東大卒の俊才がひしめく各課を回って議論をふっかけた。完敗を繰り返しながら見えてきたのは、かつて学生運動に身を投じたがゆえに「内側から国を変えよう」と思い立った同世代の課長補佐たち。ノミニケーションを重ね、私は経済というレンズを通した世界の運動法則を掴んだような気がした。

またまた引っ越しました
「朝日新聞の給料では都内に家は持てない」――港北ニュータウンの分譲価格に絶望した私は、横浜の義父の厚意を受け、敷地内に家を構えることにした。三階建て、重量鉄骨、ヘーベル板。通産省の取材知識を総動員して建てたわが家。50代でローンを完済したその家には、今も次女一家が住む。

通産大臣たち
「政治家より官僚に聞け」――それが当時の私のスタイルだった。だが、中曽根内閣の山中貞則通産相とは奇妙な思い出がある。経済部の旅行先から徹夜明けで直行した会見場。ラフな格好に釣り竿持参という私に、山中氏は「釣りかね?」。今思えば、あの「怖い大臣」の懐に飛び込んでいれば、また違う世界が見えたか。

質問をしろ!
「分からないことはその場で聞け」。Haデスクのアドバイスに従い質問を繰り返す中で、私は知識の欠如を恥じなくなった。記者が「嫌なこと」を聞かなければ、読者の期待に応える記事は書けない。発表者の意図を運ぶだけの「ポーター」ではなく、批判的視点を持つ「レポーター」であれ――。

方針原稿
通産省担当時代、私のスクラップブックは「通産省方針」の見出しで埋め尽くされる。役所の青写真をスクープとして競い合う官庁取材特有の熱気。役所の机から書類を盗む情報泥棒」も現れる熾烈な情報戦が繰り広げられていた。今思えば読者を迷わせるだけの内容も多かったが、当時はそれが経済記者の主戦場だった。

IBM産業スパイ事件
戦後最大のハイテク事件。太平洋を越えて飛来した「IBM産業スパイ事件」の衝撃は、通産省担当の私を情報収集へと駆り立てた。初めて体感する国際経済のダイナミクス。私は「技術後進国・日本」の現実に焦点を当て、構造を批判する記事を書き上げた。世界と繋がる経済記者の醍醐味と厳しさを、身をもって知った。

バッティング
夜回り取材。深夜のチャイムにも関わらず、「日本を背中にしょって立つ」通産官僚たちは記者を招き入れた。困るのは他社との「バッティング」だ。日経の記者と同席すれば、特ダネの端緒を悟られまいと疑心暗鬼になり、午前1時を過ぎても腰を上げられない。ウイスキーを啜りながらの空虚な世間話と意地の張り合い。

釣り仲間
地価高騰に怒りを込め、住宅産業の再建策をいち早く報じた1982年の春。取材先の課長とは釣りを通じて、役所の中だけではできない絆を築いた。船酔いに苦しむエリート官僚を見、時には鮎釣りで競い合う。接待ではない、対等な立場で酒を酌み交わし遊んだ日々。

天下りをしない官僚
京大卒の異才・Saさん。一切の便宜を図らない彼と議論を重ね、私費で酒を酌み交わし、やがては家族ぐるみの付き合いへ。後に民主党政権の秘書官も務めた彼は、官僚機構の悪弊である天下りを「必要ない」と一蹴し、国際弁護士として自立した。国家権力の中枢にありながら、最期まで己を曲げなかった「快男児」である

▼ 【その2:建設省(現・国土交通省)】

建設省の担当になって柔道を再開した話
通産省から建設省へ。一人きりの経済記者として乗り込んだ私は、社会部の先輩に誘われて「丸の内柔道倶楽部」に入る。現役時代の勘を取り戻し、有段者相手に得意の内股を極める喜び。形ばかりの昇段には興味がなかったが、断りきれずに手にした二段の免状。

大道なら記事にしてくれるのではないか?
1983年、建設省を舞台に「住宅問題」の取材に力を入れた。ミサワホーム三沢社長をはじめとする業界トップに取材し、そして建設官僚たちとの信頼構築。「サラリーマンの持ち家という夢」を書き続けた。接待やインサイダー取引の誘惑を撥ねつけたこともある。

お上意識
建設官僚との「フェイス・トゥ・フェイス」の付き合いは、時に酒席での政策談義にまで及んだ。官庁に知恵がなければ民間から借りればと助言した私が、官僚たちが当然のように相手を「呼びつけた」ことに怒る。予算を持つ「お上」が、知恵を持つ「民間」を見下す構造。事業官庁ならではのお上意識を目の当たりにした。

キーボードにミスタッチをしても地球は爆発しない!
建設省担当時代、パソコンを始めた私は、省内誌にIT時代の到来を説くエッセイを綴った。当時のパソコンはワープロソフトすらなく、プログラムを自作・入力するだけの「高価な玩具」だったが、私の原稿を信じて購入した官僚が続出した。「罪作り」な思い出だ。

入社試験用作文の指導をした
新卒で落とした逸材を、中途で拾い直す。かつて作文を添削したHa君が、日経を経て朝日の同僚となり、金融の専門家として大成した姿は採用の難しさを物語る。一方で、朝日とNHKの双方に合格した学生に「理性の新聞か、感性のテレビか」と説いた日から数十年。両メディアが凋落し、ネットの玉石混淆な情報に晒される日本の将来に強い不安を抱く。

吉永小百合さんと昼飯を食った話

担当企業の広報に冗談半分で持ちかけた話が叶い、スタジオで吉永小百合さんと昼食を共に。同行した強面の先輩記者が憧れのスターを前にあがり、一言も発せず汗を拭う横で、私は至近距離からその美貌を眺めた。シワ一つない39歳の美しさに、「この人はお化けではないか」。

私の記事、朝日新聞の紙面で褒められていました
自らのインタビュー記事が、上司であるデスクのコラムで大きく取り上げられていた。経営の若返りを説く発言を掘り起こした私の取材は、期せずして「デスク手帳」の格好の素材となったのだ。若さか、熟練か。組織論に思いを馳せつつ、他方では八十近い大物経営者から赤裸々な艶福話を聞かされることも。

国と地方の上下関係を如実に見て、でも記事にできなかった話
建設省の局次長と出かけた海釣りは、自治体職員が立ち働く異様な接待の場だった。飲み物から土産の魚まで用意し、国の機嫌を伺う地方の悲哀。思いがけず「共同正犯」の立場に置かれた私は、この事実を書けなかった。記者としての正義と現場での貸し借り。権力の構造的腐敗を目にしながら筆を折ったあの日の後悔。

タートルネックが目をつけられた
横浜に念願の新居を構えた矢先、北海道での若手指導役(BB)への辞令が下る。半年で家を空ける未練よりも、新天地での生活に好奇心を燃やす中、知らされた異動の真相は「タートルネック姿が北海道を連想させた」ことらしい。1985年3月、一家五人の新しい物語が千歳行きの機内から始まる。

北海道報道部 編
▼ 【その1:ああ、札幌】

ああ、札幌
1985年3月31日、一家五人で降り立った札幌。愛車ゴルフで「雪の壁」に突っ込み、南国育ちゆえの無知からフロントを大破させた洗礼。DIY精神で自作した家具の記憶。

一村一品運動
横路道政誕生の熱気の中で出会ったブームの虚実。特産品と政治的思惑への鋭い仮説。

函館にて
「東京コンプレックス」の痛感。北海道の自立に必要なのは、足元の技術を結びつけるデータベースだという確信。

自民党道連からクレームが来た
企業経営者の本音と建前。政治家・横路知事の実像と民主主義の「評価のドーナツ化現象」。

衆参同日選の惨劇
Muデスクの強引な差配が招いた、朝日新聞の歴史に残る誤報の失態。

耳の穴にウイスキーを注ぎ込まれたヤツがいた
不条理に拳で応じる伝説の「快男児」Maさん。Muデスクとの壮絶な夜の記憶。

炭鉱の閉山が相次いだ
マクロな経済視点と、ミクロな産炭地の人々の声。北炭真谷地炭鉱の社長との葛藤。

厳冬の峠道
夜の峠越え、制御不能の滑走。極寒の取材現場で経験した九死に一生の瞬間。

「お車代」を押しつけられた話
自らの記事を信じ続けるために。封筒を突っぱね、記者としての矜持を守り抜いた一線。

▼ 【その2:こんなことも】

道内経済面
週1回の独自誌面の創設。ニトリの躍進を予言し、本社の経済部長と議論した日々。

札幌では風邪をひかず、東京で風邪をひいた話
油断から招いた高熱と、大蔵省取材での官僚の露骨な態度。「取材は鐘を鳴らすが如し」。

テレビ局に天下れなかった話
30年前の因縁が、定年後の進路を阻む。組織の私怨が招いた意外な結末。

仕事のあれこれと不倫の話
報道部での家族鍋パーティーの笑い声、社会党の内情、他社記者の大胆な不倫劇まで。

餞別の問題
「お餞別」受領を巡る葛藤。組織の堕落を予感しつつ、真心の籠もった万年筆だけは手にした。

▼ 【その3:北国での暮らし】

札幌ア・ラ・カルト
半年間の銀世界と、春を待つ人々の遊びへの情熱。「百貨店の真の客は1000人」の話。

札幌で横浜の博多ラーメンを食べた話
名店「火の国」のスープをペットボトルで空輸。札幌の地で「パパの特製出前」を囲んだ夜。

道東を旅したの 1
愛車ゴルフでの家族旅行。長男の運転初体験、摩周湖、アイヌの楽器ムックリの音色。

道東を旅したの 2
露天風呂にカジカ釣り、車内で響くチェッカーズ。北の恵みを満喫した家族の絆。

札幌ジンギスカンのガイド
名店「だるま」こそが真髄。羊の旨みが溶け出したタレを番茶で割る究極のスープ。

札幌、我が家のあれこれ
転校生の洗礼、中学受験の二人三脚、ニセコの雪山。北の大地と向き合い刻んだ物語。

札幌の悪い思い出
冬に発症した妻の難病。過酷な病との闘い。憧憬の裏側に刻まれた、家族の長い道のり。

東京経済部 編・2回目
▼ 【その1:41日間世界一周】

私が国際金融の取材なんて……
札幌から帰任した私への特命は、世界を席巻する日本マネーを追う大型連載。金融には疎く、英語も覚束ない。それでも「海外取材」に見せられ、見知らぬ世界へ足を踏み出す。

「A級債」⇔「永久債」
連載「Tokyo Money」の取材が始まり、金融のベテランYaさんについて銀行や証券会社を回る日々。耳慣れぬ「エイキュウサイ」を、「A級債」だと思い込んでノートに。それが償還期限のない「永久債」だと知った時、前途多難を痛感する。

バイリンガルの苦労
私は標準語と大牟田弁の「バイリンガル」だが、英語はからきし。しかし米証券会社トレーダーへの英語での電話取材を強いられる。必死のやり取りの中、翻訳を省いて英語でメモを走らせた自分に驚くが、結局トリリンガルへの道は遠かった。

香港・Excelsior Hotel
1987年9月、41日間世界一周の旅へ。香港を皮切りに、国際金融の現場を追う。宿泊先の「Excelsior Hotel」へ向かうタクシーで英語が全く通じず立ち往生。「えくせるしあ!」という運転手の発音に、前途多難な旅の幕開けを実感する。

内外価格差
香港でアクアスキュータムのコートやバリーの靴が日本の数分の一の価格で売られている「内外価格差」。高級靴を安く手に入れて喜ぶも、サイズが合わず激痛に耐える羽目に。形から入ったアタッシュケースも早々に傷つき、軽薄さを思い知る。

同文同種の話
香港で国際金融市場に台頭する中国の動きを取材。通訳がいなくなった食卓で広州の商人と二人きりに。窮余の策としてノートに漢字を書き合う「筆談」で意思疎通を図る。後の大国化を予感させる貴重な接触だったが、肝心の内容は忘却した。

香港での路上ナンパについて
香港最後の夕食。1人では多種類の中華を味わえない。路上で日本人女性2人組へのナンパを敢行する。必死の説得で食卓を共にし、和気藹々と「食の利害一致」を楽しむが、名刺を渡す寸前にツアコンが現れ彼女たちは失踪。そのままロンドンへ。

ロンドン到着
ヒースロー空港からロンドン市内へ。タクシーのメーターが故障し、「ぼられるのでは」と戦々恐々。25ポンドの請求に不信感を抱くが、10日後の帰路、正常なメーターが27ポンドだったのを見て、あの運転手の無実と誠実さを知る。

プロジェクト金融
目撃したのは、ドーバー海峡トンネル等の巨大事業に資金を注ぐ日本金融界の狂熱。外観を変えぬシティの再開発に感心しつつ、アジの開き定食6000円に愕然とする。自国の食に頓着せぬ英国で、安くて旨いインド料理を拠点に取材を続けた。

ダブリンに足を伸ばした
山之内製薬の工場を訪ね、高度な国際節税スキームを取材。一方、食はアイリッシュコーヒーに集約される。専用カップの線まで注ぐウイスキーとコーヒー、「寒冷地のパイロット(あるいは水先案内人)」を温めるための起源説。土曜のダブリンで、知的な藁を一筋くわえたロバになれたか。

ロンドンの日曜日
日曜のロンドンは商店が全滅。アクアスキュータム購入を断念し、無料公開の大英博物館へ。収奪品の展示に皮肉を感じながらも、堪能する。夕食は「茹ですぎ」の英国料理を避け、安くて旨いインド料理。ビールとタンドリーチキンに救われ、衣服に香辛料の臭いを染み付かせてホテルへ戻る。

ミュージカル
ビートルズの聖地「アビー・ロード」を地図で見つけられず断念する痛恨のミス。一方、先輩の勧めで観たミュージカル『Me & My Girl』では、言葉の壁に阻まれ周囲の爆笑に取り残されたが、月収30万円のタクシー運転手が「妻と3回観た」と誇る姿に、経済大国・日本が置き去りにした「生活の豊かさ」と文化の厚みを知る。

キャピタル・フライト
メキシコ国境の街サンディエゴで、自国通貨ペソの暴落から資産を守るため、米ドルへと資金を逃がす「キャピタル・フライト」の実態を取材。10年余りで価値が80分の1に溶けゆく恐怖の中、農園主の妻や市民たちが国境を越え預金に走る姿を、地元の銀行ネットワークを駆使して取材した。

サンディエゴで遊ばせて頂いた
現地駐在員とアメリカのストリップ劇場へ。大学生が女給として働き、チップが収入に繋がる「実力主義」に日米の文化差を感じる。広すぎるホテルのベッドとパサパサのステーキに1人旅の孤独を噛み締めつつ、酒の力で眠りに。かつて日本の温泉地で見た「股間で呼吸するタバコ」の芸と比較しつつ、世界の広さを再確認。

サンディエゴでは遊んだ記憶しかないのです

週末はシーワールドでシャチのショーに興じ、水しぶきを浴びて童心に帰る。ホテルではボーイに誘われるまま、ピアノ伴奏でジョン・レノンの「Imagine」を熱唱。拍手喝采を浴びるという、映画のような一夜を過ごす。仕事の記憶を上書きするほどの強烈な「遊び」の数々。それらを経て、次はインフレの嵐が吹き荒れるメキシコシティへ。

サンディエゴ空港でのハプニング
乗り継ぎのためロサンゼルスへ向かう際、出発遅延が発生。慌てて連絡に走った日本人ビジネスマン2人組が戻らぬうちに搭乗が開始される。私は「あと5分待って」と英語で粘るも、彼らは現れず無情にも離陸。機転が裏目に出た同胞に同情しつつ、動じなかった私だけが間一髪、メキシコ行きの便に間に合った。

メキシコシティの空港で恐喝された
空港の税関で、土産の「フグひれ」を「禁制品の食べ物」と言い掛かりをつけられ、別室へ。不毛な英語の押し問答の末、50ドルの「袖の下」で決着。「You are a good man」という皮肉な賛辞と共に釈放される。

メキシコシティで公債局長にインタビューした
武装衛兵が固める国立宮殿で、公債局長アンヘル・グリア氏にインタビュー。元記者の通訳で「資本還流」の建前を聞き出す。一方、地元紙の「株高による一時的現象」という冷ややかな指摘通り、直後のブラック・マンデーで再流出が発生した。

メキシコの空港で激しい腹痛に襲われたのです
メキシコの日常に驚きつつ、日系企業の「病院へ行くな」という警告を胸に厳戒態勢で過ごす。だが、離陸直前の空港で激しい腹痛が。原因は最終日のサラダに付着した「すすぎ水」か。激痛と後悔を抱えてグランドケイマンへと飛び立った。

グランドケイマンへの飛行機ですこぶる付きの美女に会った
激痛を「ワカ末」で凌ぎながら、グランドケイマンへの機内へ。隣席したロス在住の「すこぶる付きの美女」が、青ざめた私を案じ、紅茶とチーズで介抱してくれる。不動産ビジネスの奇縁に話が弾むも、語学の壁と腹痛、そして彼女の意外な肌荒れに、芽生えかけた恋心は萎え、タックスヘイブンの島へ。

グランドケイマンでの亀料理
病む腹を抱え、特産の亀料理に挑む。スープを期待して注文した「タートル・シチュー」なのに、登場したのは無骨な肉の煮込み。完食叶わず二口で断念し、一生に一度の味覚体験はサラダの余波に消えた。

グランドケイマンでペーパーカンパニーを見た
グランドケイマンの銀行ビルで、ロッカーに収まる「書類だけの会社」を取材。一方、ホテルのカード支払いが限度額突破で拒絶される事態に。現金払いを試みるも、現地の銀行で日本円の受け取りを拒否される。念願の潜水艦も台風で運休し、「山(The Mountain)」とは名ばかりの丘をドライブしてワシントンへ。

ワシントンで体力回復に努めた
疲れ果てた体でワシントンの先輩宅へ。抗生物質を服用し、泥のように眠り続けた。ホワイトハウスや博物館を巡る「お上りさん」気分を味わいつつ、都心で自由に走り回るリスの姿に、日米の自然と精神的ゆとりの差を実感。

ブラックマンデーに飛び込んだ
旅の最終地ニューヨーク到着の翌日、歴史的な株価暴落「ブラックマンデー」に遭遇。同期の支局員に頼まれ、「空から人が降ってこないか」と警戒しつつ、騒乱のウォール街で日本人金融マンを取材する。バカンス気分のはずが、世界恐慌の再来かと囁かれる激動の渦中で、1ヶ月に及ぶ「お金の旅」は最高潮に。

CNNはニュースをエンターテインメントにした
CNNのライブ感あふれる報道に、「ニュースも伝え方次第でエンターテインメントになる」。一方、オイスターバーで生牡蠣を堪能し、ホテルの便せんで「領収書」を自作して出張赤字を補填する、当時の朝日新聞らしい世俗的な知恵も授かった。

長男はスター・ウォーズで英会話を学んだそうだ

帰国後、ズタズタに切り刻まれながら連載を完遂。一方、土産の字幕なし『スター・ウォーズ』は、長男が100回超見て猛勉強する教材となり、語学力の源となった。義父に贈った高級ウイスキーは、その美味さゆえに瞬く間に空に。

▼ 【その2:田淵義久という人】

野村證券の社長、会長に食い込め!
「世界一周」の連載を終えた直後、長期休暇の夢はHa部長の「明日から証券担当」の一言で霧散する。課せられた使命は「3ヶ月で野村證券のトップに食い込め」。株屋への嫌悪感を抱きつつも、社長の「小タブ」をターゲットに定めた。

野村證券にあいさつに行った
野村證券社長・田淵義久氏を訪ねる。「だらしない座り方で名刺を仰ぎ見る」田淵氏に「品のない株屋の親分」という第一印象を抱く。しかし会談後、エレベーター前で深々と頭を下げる彼の姿に、先入観が揺らぐ。

「梅原猛は革命家だから好きだ」
田淵義久氏への夜討ちを決行。公邸で目に留まった「梅原猛」の著作を機に会話が弾む。「梅原は既存の学説を覆す革命家だから好きだ」と語る田淵氏の、現状を破壊し続ける変革精神に深い関心を抱く。翌日、梅原猛の著作を買い込み、「怪物」の懐へ飛び込むための猛勉強が始まった。

「長男に会ってやって欲しいんだ」
日経新聞との強固な癒着を「崩せない」と諭す周囲の声を背に、愚直に週1回の夜討ちを継続。対話は年金制度から生き方に及び、ついには深夜、田淵氏から「挫折を知り、初めて可愛いと思えた」という長男・智久氏を紹介される。

田渕社長と飲み友だちになった
自腹を切って田淵社長を麻布の韓国料理店へ招待する。野村のトップを質素なテーブル席で迎えるも、和やかな酒席を経て銀座のクラブを3軒梯子。数倍の「お返し」をされながらも、2人は名実ともに「飲み友達」となった。

ミッションを達成した
「君のポケットマネーで飲むわけにいかない」という田淵社長の矜持を受け入れ、野村の全額負担で飲み会を重ねる決断を下す。それは御用記者の誹りを受けるリスクを負ってでも「懐」へ飛び込むための賭けだった。アルタミラ壁画や幕末史を語り合う中で、物事の本質を二者択一に還元する思考法を学び、ついには社長の車載電話番号を預かるまでに。先輩たちが「不可能」と断じたミッションを完遂した。

田淵さんに人事の話を聞いた
田淵社長から「人事の真意」を聞く。副社長に据えたのは、悲劇にも沈黙を貫いた「媚びない男」であり、称賛に溺れがちな自分を律する「安全弁」だった。また、自身の昇格を不服として大タブ氏に抗議した際、「私が副社長になった年齢だからだ」と諭された逸話も。組織の論理を超えた「野村の浪花節」に魅了された。

野村證券支店長研修に1日とちょっとだけ参加した

門外不出の支店長研修に参加。チャーチルや哲学書を読み解く研修を通じ、目先の損得を超えた「教養ある専門家集団」を目指す社長の理想に触れる。また、顧客のために敢えて営業成績を落とした京都支店長が取締役に昇格した事実で企業の核心を目撃した。

田淵さんと塩野七生さんを繋いだ話
田淵さんの依頼で塩野七生氏を紹介し、札幌での音楽祭「PMF」ができた。それは彼の「余生の道楽」となるはずの夢だった。しかし、バブル崩壊後の損失補填問題や後任社長の不祥事が勃発。「野村が嫌になった」田淵氏は、塩野氏や私の説得を振り切り、一切の役職を辞して浪人となった。

田淵さんと「割り勘」で飲むようになった

浪人となった田淵氏と、「割り勘」を条件に飲み始める。渋谷の狭い一杯飲み屋で体を斜めにして飲むなど、利害を超えた友情を育む。後日、田淵夫妻を横浜の自宅へ招き、友人の料理と長女のピアノでもてなした。焦がしてしまった自慢のカレーもまた気取らない夜の良き思い出となった。

次女の結婚式に参列していただいた
田淵夫妻との交流は深まり、家族人全員でマンションへ押しかける仲に。次女の結婚式には田淵氏も参列。祝辞を述べ、多額の祝儀で門出を祝う。かつて「怪物」と恐れられた男は、わが家の子供たちの成長を温かく見守る親戚のような存在となっていた。

どうしてコンサルなんかを使うんですか?

ハイヤーでの酔いどれメモは失われたが、田淵義久氏から授かった「組織を動かすリアリズム」や「経営の孤独」は私の脳裏に深く刻まれている。単なる取材源を超えた信頼関係を築けたのか。バブルの狂乱期を駆け抜けた巨星は、私にとって生涯最高の「師」であり、その教えは今も鮮明な記憶として生き続けている。

▼ 【その3:証券担当】

野村證券のあれこれ
野村證券の深部へ入り込み、役員らと「人間」として交流。料亭ではなく気取らぬ店へ誘い、多忙な部長と本を語らい、取締役の新居のためにアンプを自作。見返りに贈られたクラシックの名盤に開眼する。

キャップに抜かれた!
1988年夏、Kiキャップが「新日鉄・三協精機事件」のインサイダー取引を夕刊トップで報じた。Kiはかつて津支局時代、私のネタを横取りした因縁の相手。夏休み中、先輩のTsu氏との酒席でその報に接したKiを抜き返すための孤独な取材へ。

「大道さん、ちょっと来ませんか?」
夏休みを返上してインサイダー取引の「5W1H」を追う。顧客情報の壁は厚く、成果ゼロのまま焦りが募ったある日、以前から交流のあった山一証券の女性社員から「面白いことが分かった」と急報。逆転の糸口を掴むべく、山一証券へ。

インサイダーを特定できた!
実行犯である新日鉄幹部の氏名や取引記録を網羅した決定的証拠を得る。1面トップ確実のネタだが、「法改正を控えた今、必要なのは糾弾ではなく、なぜ彼が手を染めたかの動機を世に問うことだ」と判断。あえて格下の扱いとなる「本人インタビュー」の形を模索した。

インタビューのアポイントを取り付けたのだが
新日鉄幹部A氏の自宅を特定し、近隣への配慮からあえて訪問せず車中から電話で接触。取引の全容を掴んでいると伝え、「スキャンダルとして暴くより、警告となる記事にしたい」と説得した。一度は面会を承諾させたものの、約束の場所には現れず、直前の電話で「やはり会えない」と拒絶を突きつけられた。

インタビューは出来なかった
「取材に応じないなら、社名と役職を出し、会社にコメントを求める」という最後通告もA氏を翻意させるには至らず、私は即座に原稿用紙に向かい、実名こそ伏せたが、日付や株数、職責を緻密に記した告発記事を執筆。翌1988年8月17日、記事は1面トップを飾った。

インサイダー事件の報道合戦に圧勝した
取材競争で決定的な特ダネを連発し、日経新聞を圧倒する「完全勝利」を収めた。日経のエース記者からも敗北を認められ、会員制雑誌『選択』への執筆を誘われるが、一方で苦い思いも。実名を伏せる条件で協力した『週刊朝日』の先輩記者が、実名を掲載したのだ。身内の人権感覚の欠如に激しい憤りと虚しさを覚えた。

落ちこぼれる?

後輩のKo君が「落ちこぼれるのが怖い」と夜中に相談に来た。私は「朝日新聞で落ちこぼれても、せいぜいエリートの中の変わり者になるだけだ。評価は他人がするもの。自分が納得できる仕事をすればいい」と彼を諭した。

「銀座のクラブにご招待しよう」とMoさんは言った
キャップのMo氏と炉端焼き屋へ。Mo氏は初対面の女性客に「自分は朝日新聞記者だ」と猛烈にアピールした末、銀座のクラブへ招待すると言い出した。下心があるわけでもなく、ただ自尊心を満たすためだけに散財するその姿。横にいた私は、エリート特有の強烈な虚栄心に心底恥ずかしさを覚えた。

▼ 【その4:経済企画庁で】

3回連続で訂正を出してしまった
経済企画庁担当。苦手な「数字」で痛恨のミスを重ねる。統計記事で過去の数値を引き間違え、細心の注意を払ったはずの次も、その次も連続して誤報。前代未聞の「3回連続訂正」という事態にデスクは呆れ、私は自信を喪失した。言い訳の立たない数字のミスに、原稿を書くこと自体が怖くなった。

こんな訂正もありました
地価高騰が社会問題となる中、経済企画庁から「宅地並み課税で地価が2割下がる」という報告書を独占入手し、1面トップの特ダネに。しかし、後の正式発表の場で自ら検算したところ、役所の計算ミスを発見。結果として自分の特ダネが誤報となり、自ら指摘して訂正記事を出すという前代未聞の経験。

50 ワープロの話
四半期別GDP速報(QE)の執筆に導入されたばかりのワープロで挑むも、いざとなると頭が真っ白になり1行も書けなくなる。しかし、原稿用紙に戻した途端、スラスラと筆が進んだ。脳内の執筆回路がまだ指先のキーボード操作に直結していなかったのだ。

51 日本経済の曲がり角
1990年春、バブルの熱狂が続く中で日経新聞のNa氏が放った「バブル終焉」を断じる記事に、私は戦慄した。世間が楽観視する中、時代の屈折点を鮮やかに見抜いたその筆致に、インサイダー事件の成功で高慢になっていた鼻を叩き折られた思いだった。

52 高天原景気
初の女性民間閣僚・高原須美子長官と親交を深めたが、彼女が自分の名にちなみ景気を「高天原景気」と命名しようとした際は、その姿勢を記事で揶揄もした。退任時には記者クラブ幹事として、クラブ費を投じた異例の「追い出しコンパ」を企画。私物のアンプや大型スピーカーを官庁に持ち込み、盛大な宴で送り出した。

53 記者クラブというもの
経済部長から、他クラブに拒絶されたシンクタンクの発表を経済企画庁の記者クラブで受けてほしいといわれ、快諾した。記者クラブ、情報は開かれているべきだと考えていた私は、門戸を閉ざされた者の受け皿になることは当然の務めだと自負していたが、この善意による独断が、後に思わぬ災厄を招くことになる。

54 実力部長と喧嘩をしてしまった……
経済部長が紹介したシンクタンクの会見で教授の論理破綻を追及し、記事化を拒否した。翌日、他紙が報じたことで部長の激昂を買い、「教授と議論してこい」と一喝される。将来の社長候補と言われた実力者の面子を潰し一時は胃を痛めたが3日で開き直り、再議論の命令も無視した。

55 私が「忙しい」を口にする人間を信用できないわけ
東京から名古屋への異動が決まり、前任者のShiに引き継ぎを求めたが「忙しい」と拒絶された。しかし赴任後に聞くと、彼は役所のソファーで昼寝を繰り返していた。能力の欠如や虚栄心を「多忙」で取り繕う人物が後に系列局の社長へ登用された。

▼ 【その5:ウイークエンド経済という職場】

56 ウイークエンド経済
経企庁の後、「ウイークエンド経済」の担当に。バブル期の経済紙面拡張で生まれた場だが、経済の枠組みを借りて自由に社会を切り取る仕事は痛快だった。自衛隊海外派兵の是非を問う特集で武器の価格一覧を載せるなど、経済という「ふりかけ」を使い、記者として追求すべきテーマを楽しみながら発信した。

57 福岡のマンション狂想曲
中古マンションの値崩れを追う特集で、福岡の異常な価格急騰を発見。大阪の業者が買い占め、価格を釣り上げた後に売り抜けるという、仕手戦さながらのマネーゲームを暴いた。私はアンカーとして若手の取材を一本にまとめた。

58 ウイークエンド経済は楽しい!
「福岡の中古マンション狂想曲」の続報で、過剰融資や節税目的の「損益通算」など、投機を煽る社会構造を暴いた。ウイークエンド経済は出世の主流ではなかったが、専門領域に縛られず「面白い」を追求できる仕事に、私は最高の充足感を見出していた。

59 「マイポケット」の話
著名人の財布から経済観念を探る連載。38歳当時の小池百合子氏は留学時代の「ちびた鉛筆」を宝物とする節約家を自称していたが、今の都政を思うと隔世の感がある。一方、ピアニストの高橋アキ氏とは意気投合し、予定を大幅に超えて語り合った。

60 桝谷英哉さんにコラムの連載をお願いした
「ウイークエンド経済」で、オーディオ設計者・桝谷英哉氏にコラム「ハイテク品定め」を依頼した。桝谷節全開のワープロ批判は痛快だったが、私の添削に「自分の原稿ではない」と激怒し、執筆辞退を切り出されたことも。電話越しに必死に説得して繋ぎ止めたのはいうまでもない。

61 カタログ、というコーナー
「暮しの手帖」に倣い、記者自ら商品を試す「カタログ」コーナーがあった。新発売のビールをブラインドテストした際は、私が毛嫌いするアサヒビールが最多得票に。また、自宅にメンバーを招き、酒を片手にプロジェクターの画質を比較したことも。

62 城南電機の宮路年雄社長に会った
家電の価格差のからくりを探るべく、激安で名を馳せた城南電機の宮路社長を取材した。ルイ・ヴィトンの鞄に現金を詰め、倒産品や横流し品を闇で買い叩く「バッタ屋」の手法を聞き出したが、裏取りを求めると「あんた、殺されるわ」。

63 宮路社長を記事にした
裏取りが困難な闇の流通を報じるため、社長の告白形式をとる連載「ビジネス戦記」に宮路さんを取り上げた。これが「まともなメディア」初の掲載となり、その後、宮路氏はテレビ番組の過激な演出に依存し、現金3000万円を見せびらかす危険な振る舞いを繰り返すように。

64 ロールス・ロイスの後部座席に乗った
宮路社長と急速に接近し、高級フグ料理屋へ誘われる日々。渋谷から赤坂まで、運転手付きのロールス・ロイスの後部座席に同乗したが、分不相応な空間が恥ずかしい。車内の自動カーテンが250万円もすると聞き絶句したが、実は故障して閉まらないという。金満な私生活と「安売り王」の裏に隠れた異世界の金銭感覚。

65 防弾仕様のロールス・ロイスが中古車になった
子供たちの願いで宮路社長のロールス・ロイスに乗せてもらったが、彼らも私同様「見られて恥ずかしい」。そのまともな感性に安心した。一方、社長は買い替え時、6500万円の防弾仕様車が3年で1000万円の下取り値をつけられたと激怒。しかし、中古の防弾車を欲しがる富豪はいないという販売店の理屈に納得した。

66 宮路社長を我が家にお招きした
ご馳走への返礼として宮路社長を自宅に招いた。社長は私の子供たちに、膨らんだ財布から現金を渡そうとしたが、教育上よくないと必死で制止した。後で息子から「なぜ邪魔した」と不満を言われたのも今では笑い話だ。家電を贈ろうとする厚意も「癒着になる」と固辞し続けた

67 城南電機は安い!
「ビジネス戦記」の原稿確認作業。送り返された修正原稿は、ほぼ平仮名で埋め尽くされていた。正規の教育とは無縁の人生を歩みながら、持ち前の商才で既存の流通を打破し、安売り帝国を築いた開拓者の凄みを感じた。当時の価格比較表を見ても、全国の有力店を圧倒する城南電機の安さは際立っている。

68 宮路年雄という人
宮路社長には、愛人に費やした分を店で無給労働させる一面も。中内功氏をライバル視したが、人を信じきれず仕事を任せられない性格ゆえ、城南電機は一代限りの「個人商店」で終わった。彼は家電安売りの先駆者であり、時代を切り拓き、やがて時代に追い越された不世出の経営者だった。

69 ウイークエンド経済ではこんな記事も書いたのです
東西ドイツ通貨統合に際し、東独製プラモデルや楽器、カール・ツァイスの測定器などを通じて国際情勢を身近に描いた。また、酷暑対策として「夏のビジネスウエア」をデザイナーや漫画家と考案。この記事が縁で出演したCS番組では、生放送の不意な質問に冷汗をかいた。

70 朝日新聞の珊瑚礁事件
1989年、記者が自らサンゴを傷つけ捏造した「珊瑚礁事件」は朝日新聞を揺るがした。「なぜこの事件が起きたと思うか」と問われてて、評価を恐れて事実を曲げる「記者のサラリーマン化」だと私は指摘した。責任を問われ更迭されたはずの局長は後にテレビ朝日の社長へ。

名古屋経済部 編・2回目
▼ 【その1:暮らしの基盤】

独り暮らしの基礎は食事である
鶴舞公園近く、味も素っ気もない37㎡のワンルーム。安物ベッドのためか酷い腰痛に襲われ、這うようにして鍼灸院へ向かった。家計のパンクを食い止めるため、自炊生活へ。

朝食は作りダメルことにした
丸元淑生の「システム料理学」に触発され、効率的な調理法を確立。週末の出汁取りや小分け冷凍を駆使し、わずか5分で一汁三菜の健康的な朝食を用意する。

独り暮らしの基礎が出来た
レシピ本を頼りに、鶏ガラから煮込むカレーや鍋物など、試行錯誤を経て食の体系を構築。「適当」の難しさを学びつつ自炊を極める。

▼ 【その2:東海銀行】

東海銀行の不正融資事件
巨額不正融資に切り込み特ダネを連発。一刻も早い幕引きを図る経営陣に対し、組織の再生を願う記者としての矜持を貫く。

今度は名古屋経済部長と喧嘩をした
疲弊する若手記者の休暇を巡り部長と衝突。しかしそれは取材競争を勝ち抜くための熱さゆえ。夜の店で「記者のあるべき姿」を論じ合う。

阿呆なデスクがいた話
的外れな指示を連発するデスクへの「悪口大会」を30分限定で開催。自らも禁を破るほど、現場は困惑に包まれていた。

敵と味方
中傷する怪文書が流れる一方で、「膿を出し切らねば」と願う味方たちが情報を寄せた。組織の健全化を促すための報道の意義。

最高権力者の出処進退
引責辞任という名のトカゲの尻尾切り。真の責任はワンマン会長にあると確信し、連載最終回でその進退を鋭く問うた。

松永亀三郎さんのこと
一介の記者に「俺に辞めろと言ってくれ」と託した高潔な覚悟。広報との交流や原発見学を通じ、後の報道の糧となる言葉を得る。

▼ 【その3:トヨタ自動車との再会】

足首が半年間も痛かった話
野村證券との飲み比べで「ウイスキーのビール割り」に挑んだ代償。勝利の瞬間に足首を負傷、全治半年の深手を負う。

渡辺捷昭さんと仲良くなった
後のトヨタ社長・渡辺氏に車の不満をぶつけたところ、「技術陣と話してくれ」と懇談に。たった一人で専門家集団と対峙することに。

技術者の率直さ
トヨタ技術者たちとの懇談で、開発者自身も同様の不満を抱いていることを知る。技術者ならではの率直さに感銘を受けた記憶。

トヨタ自動車の飲み友だち
広報課長・Ya氏と酒席で反論し合える仲に。贈答品慣習の廃止を訴え、彼もそれに応えた。真の信頼関係に基づいた業界浄化。

▼ 【その4:会社員として】

News That’s Fit to Print.がない時は
「報じる価値のあるニュースがない」と執筆を拒否した半年間。余った時間で映画の翻訳に血道を上げた、頑固な記者の空白期。

入社試験の面接官になった
受験生の「有能」という鎧を剥ぎ取り、素顔をさらけ出させるための真剣勝負。一人の人間を評価する難しさと疲労を刻む。

採用面接で素敵な青年に出会った
名鉄の改札で恋人を待ち続けた青年の誠実さに「満点」を叫んだ。人を思いやる想像力と行動力を持つ逸材への喝采。

▼ 【その5:息子、後輩、そして名古屋の終わりに】

父親不在の家庭
横浜で「背伸び」をする長男を名古屋へ呼び寄せ酒を酌み交わす。父親不在を悩みつつも、逞しく育つ姿に安心した父の情景。

見た目にも気をつけないと
クリスキットのアンプ作りに挑む後輩を指導。ピンジャックを外側に付けた「大物」後輩を「ズボンを裏返しに履くのか」と諭す。

忘れていたが、東海銀行にはもう一つ事件があった
過去の切り抜きから「転がし取引」の特ダネを思い出す。トカゲの尻尾切りを批判し、会長に引導を渡した記者の執念。

それにしても、加藤会長という人は……
美術館誘致の混乱を機に起きた「加藤おろし」。副会頭全員が辞任を迫った叛乱劇と、権力にしがみついたワンマンの終焉。

東京の部長には嫌われていたらしい
「東京はいらないと言っている」との宣告を受けつつも、現場の信頼を糧に東京転勤へ。加藤氏の皮肉な送別を受け名古屋を去る。

東京経済部 編・3回目
▼ 【その1:身辺の変化とデスクの日常】

妻女殿が入院した
東京帰任直後、妻が膠原病で半年間の入院。主婦不在の危機を、平日の炊事は高校生だった長女で、私は土日当番だった。そして一番効きのいい古いクーラーの下での「雑魚寝」で酷暑の夏を乗り切った。

初めての老眼鏡を買った
新聞製作のOA化が進み、ディスプレイを睨むデスクワークが増える中、仕事のために始めた「お絵かきロジック」の面白さに没頭。ミリ単位のマス目と格闘した末、44歳で初めての老眼鏡を手にした。

コラム欄の新設を命じられた
ウイークエンド経済のコラム新設を託され、「食と健康」「技術」の2テーマを立案。とはいえ、あてはない。編集長から手渡された赤池学氏の著作との出会いが、新たな企画の呼び水となっていく。

「食楽考」は素晴らしいコラムだった
新コラムの筆者を探し。精神科医・栗原雅直さんに相談に行く。「私が書きましょう」という案に半信半疑で目を通すが、その論理の妙と面白さに即決。連載は「食楽考」として結実し、編集長をも唸らせる名物企画となった。

「ものづくりの方舟」の話
赤池学さんの連載「ものづくりの方舟」は法隆寺を技術面から称賛したが、寺側から「焼失と修復の歴史」を指摘される。単なる訂正に留めず、赤池さんを再取材に派遣。柱の修復跡から「技術以上に守る人の想いが寺を支えてきた」真実を導き出した。

十読しても分からない原稿と格闘した話
難解な精神科医の原稿に直面した。十読しても意味不明な「呪文」を、筆者の意図を推測しながら解読・再構築し、「商品」へと仕上げた。エリートの知性と「一読して分かる」文章の技術は別物なのか。

タクシー運転手を殴ったヤツがいた
私を蔑む記者Hの原稿は、能弁な口に反して拙いものだった。十数年後、Hは銀座で「朝日新聞の俺を乗せないのか」と運転手に暴行する。その特権意識に私は、かつて蔑まれたことを喜んだ。会社はHを不問に付した。

山本夏彦さんのこと
敬愛する山本夏彦氏が著作で、「ウイークエンド経済」を「素人に株を勧める、あってはならない欄」と断じていた。正論だろうが、私はかつて、経済面拡張に反対した。財テク推奨という指摘も腑に落ちない。

2冊の本が届きました
栗原・赤池両氏の著書が届いた。栗原氏の縦横無尽な筆致を再確認し、赤池氏の本のあとがきに記された私への謝辞が嬉しかった。記憶の食い違いも楽しみながら、「あなたも読んでみませんか?」との誘いも。

デスクという仕事
土曜夕刊のフロント面担当デスクの仕事は、金曜夜から徹夜。極限まで取材を重ね、頭が「麻婆豆腐」のように混乱した記者が書き上げるのをひたすら待つ。記者を急かさず、行き詰まった原稿の贅肉を「他人」の目で削ぎ落とし、道筋をつけた。

あの日は忘れられません
1995年3月20日、出勤途上で築地上空を舞うヘリの群れを見た。地下鉄サリン事件だった。至近距離で起きた未曾有のテロは、一歩間違えば私も被害者になり得たはずだ。阪神大震災に続く惨劇に、高学歴者がなぜ無差別殺戮に走ったのか。デスク席でテレビを凝視しながら不安な思いを抱いた。

▼ 【その2:記事審査室と建設省への再訪】

記事審査室に異動になった
経済部長の「半年で取材現場に戻す」という約束で大道は記事審査室へ。日々の紙面を全紙比較し、身内の「高い鼻」をへし折る御意見番の部署だった。 毎朝5時に起き、4紙を隅々まで読み込む速読から一日は始まる。会議では他部署のベテランと激論を交わし、午後は執筆の必要もない「気楽な」身分だ。

新年1面企画を書けと命じられた
記事審査室への異動後、「新年1面企画」への参画を命じられた。紙面批評という「死体解剖」から、生きた現実と格闘する取材現場へ戻れる喜びは大きかった。とはいえ、看板連載の重圧から逃避願望も抱えたのだが

また建設省担当になった
再び建設省へ。経済部内では非重点職場だったが、知らぬ世界を歩む取材を楽しんだ。大臣・亀井静香氏とは会見で財政論を戦わせたが、後にその筋の通った政治姿勢を知り、深く交流しなかったことを悔やむ。官僚や業者と親交を深めるも、仕事の記憶は空白。

▼ 【その3:財界担当】
▼ 豊田経団連

私は財界担当になりました
経団連を含む経済4団体の担当に。大企業の利益を優先する「民僚」や、現状維持に走る高齢の経営者たちが集う世界。賃下げや規制緩和を口にしながら、自らの価格破壊や改革には背を向ける財界の欺瞞を「NATO(話すだけで行動しない)」と一蹴したことも。

規制緩和と車検制度
規制緩和を叫ぶ財界が、身内の既得権益には甘い。私は「車検制度は社会的規制」という経団連会長・豊田章一郎さんを追及した。かつて車検直後の車のブレーキが効かなくって起きたが死亡事故を取材し、「車検は直後の安全すら保証しない」という実態を知っていたからだ。

豊田章一郎はプロレタリアートか?
豊田さんの「トヨタ哲学」には敬意を抱いていた。不祥事対策を「工程の完璧化」で防ぐという論理は、車作りの現場そのもの。 創業家出身でありながら「父から仕事だけを継いだ自分は労働者(プロレタリアート)だ」と真顔で語るその浮世離れした姿も。

豊田経団連会長の追い出しコンパ その1
退任する豊田さんのため、送別会を企画した。記念品には夫妻の生まれ年の古銭を用いたゴルフマーカーと、それを入れるコインケース。さらに、私が東欧で撮影した会長お気に入りの写真をジグソーに仕立てた。

豊田経団連会長の追い出しコンパ その2
豊田さんの送別会で記者らに「知性ある挨拶」を求めた。甘い社交辞令を排し、本音のユーモアこそが記憶に残る。宴は盛況に終わるが、後日、自腹を切るべき会費なのに、会社に請求するための領収書を求めるNHK記者を目撃する。

財界と企業献金の話
献金斡旋を廃止し英雄視された平岩外四氏さん。だが私には「出所の明らかな金を渡さねば、政治家はおかしなところから金を集める」と意外な本音を漏らす。献金復活をようという奥田碩氏らと議論を重ねるが、現実は再開へと流れた。

鉄は産業の米か
豊田氏の後任選びが始まると、本命の新日鉄・今井敬氏に対し、自薦を隠さない電子機器メーカー会長が「産業の米は鉄から半導体へ」と豪語し、「私こそ最適」とアピールした。名誉を追う露骨な自演だが、野心は一部の記者をを動かすほどに。

私は経団連会長人事を抜かれた
今井敬氏が有力になる中、私は「規制緩和の時代に新日鐵が適任か」と疑問を抱いた。一記者として出過ぎた真似と自省しつつも、前会長の平岩氏に豊田氏の続投を直訴。平岩氏を動かし、その説得結果を待つ間に他紙に今井氏決定の報を許してしまう。

今井さんは引き受けてくれるでしょうか?
抜かれた朝、豊田氏に電話した。返ってきたのは「まだ本人に話していない」「今井さんは引き受けてくれるだろうか?」。続投を推すコラムを書いた直後の決定に、経済部長からは「格好悪かったな」と皮肉られる。

名社長の条件
財界の論客から朝日の社長を「名経営者だ」といわれ、その手腕を問うた。返ってきたのは「歌が上手い」。それが名経営者の条件? 中江利忠社長は無類のカラオケ好きで、六本木のクラブでは他グループに競り勝つまで朝まで歌い続ける執念の持ち主だった。

神田取材センター
「取材先の便宜は受けない」ための神田取材センター。そこで、日銀キャップが「出世したければ俺の靴を舐めろ」と放言したとの話を聞く。一方、神田の飲食店で覚えた違和感から自身の変質に気づいた。大企業や官庁の体臭に染まり、中小企業の街に馴染めなくなっていたのだ。

夏の経団連フォーラム
経団連の夏季フォーラムへ、先輩Tsuさんを乗せて愛車で向かった。車内は先輩の弾む話で盛り上がるが、その饒舌さに気を取られた隙にスピード違反で御用となる。肝心のフォーラムの中身は、お偉方の不慣れな軽装と、反則金への落胆の影に消え、忘却の彼方へ。

経団連会長に必要なお金
経団連会長の椅子は驚くほど高くつく。トヨタの広報によれば、海外派遣や補佐員の人件費など、会長職の維持には年間15億〜20億円ものコストを出身企業が負担するという。キヤノンの御手洗氏就任時には、キヤノンの社員が「そんなにかかるの!」。

平岩外四さんと親しくなった
読書家で知られる平岩外四さん。訪ねると「この本読みました?」と本談議が始まる。ある日は娘の指定図書『全国アホバカ分布考』を紹介した。秘書が退席を促すまでの45分を読書論に費やし、残りの15分でようやく経団連人事に切り込む。

平岩さんは色っぽい爺、であった
毎月100冊を読破するといわれる平岩さん。分厚い眼鏡越しに天眼鏡で文字を追わねばならないのに、どうやったら? 「序盤と終盤で理解できたら読んだことにする」読書法を知る。85歳にしてワインをボトル半分空ける健啖家でもあった。その姿に、カルロスは「色っぽい爺だ」と感嘆する。

▼ 中東欧取材

チェコのビールは美味かった!
1997年、経団連随行で訪れたプラハ。「金の鎖」のような飛行機からの夜景に魅了されるが、インフラ不足で通信に苦闘する。シュコダの工場で旧体制の残影を見る一方、ピルゼンで飲んだ150年前の製法のビールは「異次元の美味」。

プラハを歩く
プラハ。装飾過剰な建築に圧倒されつつ、3万歩を歩いて街を味わい尽くした。路上ジャズや生煮えの「寿司」に異国を感じ、ドイツ・ドレスデンへ北上。共産主義から市場経済へ、激動の「壮大な実験」下にある中欧の実像と、日本企業の不在を肌で感じた。

なぜか、ワーゲン
ツヴィカウでVW工場を視察。かつて岐阜で愛した中古ビートルの記憶が重なる。空冷エンジンの音、独特の冷房、自動的に止まるエンジン……。不自由さすら楽しかった名車だ。視察後はパトカー先導の猛スピードで空港へ直行し、バスごと飛行機に横付けする異例の「特別待遇」で次なる地、ルーマニアへ。

ルーマニアの迎賓館
ブカレストで、国賓用「迎賓館」に宿泊。民間初らしい。30畳近い広間に従者が控える王侯貴族のような待遇の一方、敷地内には狂犬病の危機を孕む野犬が群れる。湯が出ず冷水シャワーに凍える財界の大物たち。

トイレットペーパー
ルーマニアの迎賓館のトイレットペーパーは不揃いで硬く、シーツは洗濯で擦り切れていた。国の貧しさとアンバランスな贅沢が同居する。街には排ガスを撒き散らす旧式車が溢れるが、女性たちの「三日月眉」の美しさは随行員一同を虜に。

マイケル・ジャクソンの新婚旅行
ルーマニアからハンガリーへ。機内では40度のぬるま湯にティーバッグという「衝撃の紅茶」が出る。ブカレストの「中世」からブダペストの「現代」へ。宿泊先はマイケル・ジャクソンが新婚旅行で泊まった名門ホテル。足の届かない高い便器に困惑しつつ、自国を毒舌で語る女性通訳との出会いや、老舗の美味に触れる。

国立オペラハウス
一行を離れて独自取材が始動。冬装備で猛暑に喘ぎつつ、金髪職人の「おにぎり寿司」に苦笑し、成功した女性実業家や工場を巡る。夜は国立オペラハウスで『ファルスタッフ』を鑑賞。マジャール語の字幕に翻弄されつつも、男の悲哀を描く物語とフォアグラの美味に酔う。

クッ、クッ、クッ
ハンガリーの夜、かつてのオペラハウスの食堂を改装した店で、音楽家の卵が奏でるピアノを背にフォアグラを食す。2000円で最高峰のオペラが楽しめ、隣の客が鼻歌を歌うほど芸術が生活に根ざす一方で、野暮ったい外壁の色や所得格差も目につく。天才を輩出する「ハンガリーの頭脳」を買う投資の現場を歩く。

シュコダ社での取材
チェコの名門シュコダ社を訪ねるが、旧態依然とした広報対応に呆れ果てる。プラハに戻り、学生がたむろする喫茶店で若者の生態を観察。女子学生の喫煙や人懐っこい犬に自由な空気を感じつつ、歌舞伎を愛する通訳・ホーリー君との奇妙な交流を深める。

小林一茶
大臣級との面会や英語での苦闘取材をこなしつつ、西洋の「過剰装飾」と日本の「引き算の美」を考えた。一茶の句にある「さりながら(でもね)」という余白こそが、受け手に自由を与える日本独自の優しさだと確信する。金(きん)に目が眩みピンクのグラスを選んで後悔するのも私。

帰国の1
チェコで聞いた「泥棒が金を盗むようになった」という言葉から戦後日本の復興期を回想した。ハルバースタム著『覇者の驕り』の原書を丸善で予約し、1.24kgの巨本を辞書片手に読み進める「知的格闘技」に挑んだが、読了前に日本語版が出版。翻訳の速さに完敗を喫した過去の思い出も。

帰国の2
取材を終えた私は、名刺入れを紛失しつつもバザールで義父への防寒帽を入手。ウィーンでは、娘の言いつけである「赤いダッフルコート」を、店員に試着させて買い求め、殺意(?)を免れる。最後に教会のパイプオルガンで荘厳な気分に浸り、自分の土産が酒しかないことに気づいて閉幕する。

▼ 書き残したこと

記者会見は公の場である
記者会見は「公の場」として重んじたので、納得するまで質問を繰り返した。バブル崩壊後、安易に「米国に学べ」と説く一部財界人に、「横文字を縦文字にする暗記の時代へ逆戻りか」と食らいついた。

経済同友会夏のセミナー
エアコンのないホテルで汗だくになり、先輩と次期会長人事を巡り激論を交わした軽井沢。セミナーでは「解雇の自由」を説く冷血な経営者に失望する一方、社員の幸福を願う真摯な発言に救いを見出す。パーティで見た宮内義彦の優雅なシルクシャツに、「おしゃれな経営者もいるんだ」。

▼ 【その4:ペンを置く日】

ペンを手放す日が来た
50歳を前に私は経済部長から異動を告げられる。行き先は「電子電波メディア局」。「特ダネ記者」としての実績を認められたが慰めだろう。ミロのヴィーナスの前で、取材競争に明け暮れた日々を終え、未知の経営の地平へと踏み出した。

電子電波メディア局・デジキャス編
▼ 【その1:電子電波メディア局:系列とメディアの現場】

琉球朝日放送に行った
琉球朝日放送など3局の社外取締役に就任。、那覇での役員会と「観光以上、視察未満」の沖縄歩きが始まる。宿の手配を巡る同輩の「清貧」への違和感や、21年ものの高級古酒がデジキャス時代の仲間との酒宴で消えていく顛末。

山口朝日放送に行く
宇部からバスで向かう閑静な県庁所在地・山口市。宴会でのフグの不在に肩を落とす一方で、ローカル局の現場が抱える切実な悲鳴が届き始める。朝日新聞から送り込まれた「選民意識」の塊のような出向者が職場を荒らす現状に、組織を蝕む情実人事と、やがて来る新聞の衰退の予兆を見出す。

テレビ大分と大分の話
別府湾を駆けるホバークラフトに心を躍らせ、大分市へ。グルメガイドで出会った名店「こつこつ庵」の味に魅了され、店主から高級古酒ならぬカボスが届くほどの仲になる。役員会の日程を間違えて「こつこつ庵」のためだけの出張になる失敗談や、湯布院でしか手に入らぬ「ゆず七味」を執念で取り寄せ続ける後日談など。

系列局の経営分析に取り組んだ
形式的な決算報告が横行する中、系列24局の10年分に及ぶ経営分析に独力で着手。不慣れなExcelと格闘し、膨大なデータを入力・検証して、野村證券の知己の助けも借りつつ真の経営実態を浮き彫りにする。しかし、組織は「経営」に無関心で、完成した分析表は後任に活用されることなく埋もれていく。

デジタルデータ放送局に関わった
BSデジタル放送開始を控え、朝日新聞は「テレビで新聞を配る」狙いでデータ放送局の設立に動き出す。大画面テレビに新聞を表示させるという同僚の夢を、「トイレで読めない」と一喝。SONYとの提携模索を経て、最終的にキヤノン、富士通、日立らを巻き込んだ新会社「デジキャス」の設立準備が始まった。

ハイビジョンと軍事
データ放送による「双方向テレビ」の可能性を探る日々。デモビデオを武器に企業を回りながら、1冊の本でハイビジョン技術の裏にある冷戦の影を知る。NHKが主導したアナログ技術に対し、軍事転用を恐れた米国が「日本への依存」を拒み、デジタル化へ舵を切った歴史があった。

電子電波メディア局次長にご意見申し上げた話
200社に及ぶ市場調査で事業化は可能」と結論づけた。しかし、その報告が仇となり、同僚Ko氏と共に新会社への出向することに。「前向きな報告をしたら出向させられるという前例を作れば、誰も新規事業に挑まなくなる」と局次長に直言しつつも、最後は責任を取ってデジキャス設立へと踏み出す覚悟を決めた。

大道さん、あんたはどうなんだ?
デジキャス社長に就任するO氏を六本木の酒場に誘い、他人事のように激励した。しかしO氏から「あんたはどうなんだ?」と退路を断つ問いを突きつけられる。高みの見物を決め込んでいた己を知り、その場で出向の覚悟を表明。テレビ出演の可能性を笑い飛ばされつつ、泥沼の新会社設立へと身を投じる決意を固めた。

▼ 【その2:デジキャス:始動と混迷、そして「らかす」の誕生】

デジキャスが始動した
2000年2月、大手メーカーが名を連ねる資本構成でデジキャスが誕生。出向早々、O社長から「俺はよく分からないから」と記者会見の質疑応答を丸投げされる。初の「答える側」として会見に臨むも難なく完遂。かつての同業者たちの浅い質問に「俺を立ち往生させてみろ」と毒づきつつ、慣れぬ大仕事に芯からの疲れた。

デジキャスの営業担当になった
記者から一転、デジキャスの「営業」を担うことになった。黒塗りのハイヤーから地下鉄移動へと生活が激変する中、不慣れな「頭を下げる仕事」に奔走する。理詰めで相手を圧倒する「説教営業」と揶揄されつつも、キヤノン出身のHa氏ら技術陣と協力し、開局に向けた放送枠の販売に苦闘する。

サンノゼに行った
2000年4月、世界最大の放送機器展NAB視察のため米国へ。ビジネスクラスに揺られ、まずはシリコンバレーのサンノゼに。アップル本社への表敬訪問や現地法人での勉強会をこなすが、週末のナパバレー観光が運命を変えた。ワンボックスカーの無愛想なシートに腰を砕かれ、激痛に耐えながら25ドルの高級ワインを啜る。

ラスベガスで腰痛が悪化した!
帰国前日、アウトレットモールのトイレ。小康状態を保っていた腰痛が、米国仕様の紙巻き器に右手を伸ばした瞬間、最凶の牙を剥く。身動きの取れぬ個室、届かぬ紙。愛用のハンカチを犠牲にし、パーティションを這い上がる。「上体を揺らさぬすり足」で戦場を脱出するも、それはさらなる地獄の序幕に過ぎなかった。

ラスベガスとモルヒネと腰痛と
激痛で座ることすらできない。同僚の機転でラスベガスのクリニックへ。日本人医師から「痛みの回路を断つ」ためにモルヒネ注射を提案される。二本目の注射で「全身が温水パイプを通るような」快楽に包まれ、数時間前までの地獄が嘘のように寛解。サポーターと消炎剤を武器に、無事成田への帰還を果たす。。

私が営業局長に就任した
帰国後本格化した営業活動。「説教営業」と揶揄されながらも、16の放送枠のうち8枠を売った。プロの営業マンたちの嫉妬をよそに、出資ゼロの朝日新聞出身ながら営業局長へ。かつて自分を経済部から追い出した局長に記者会見の腕を褒められ、複雑な想いを抱く。

売らねばならない商品への自信をなくした

2000年12月1日、BSデジタル放送開局。祝杯を挙げる仲間たちを横目に、私は画面に映るデータ放送の貧弱さに衝撃を受けたる。ビデオで見た理想とは程遠い、商品と呼ぶには未熟すぎる現実。自社製品への自信を失った営業マンは、説教営業の牙をもがれ、混迷の淵に立たされる。

ローカル局の若手たちと親しくなった
デジキャスはBML制作の技術を武器に、NHKなどテレビ局に営業を伸ばす。NHKのYo氏との交流では、制作費削減に喘ぐ現場を案じて受信料支払いを決意する一幕も。また、北陸朝日放送のNo氏が仕掛けた通販事業「金沢屋」のブランド戦略に感銘を受け、ローカル局経営の可能性に目を開かされる。こうした「現場の知恵者」との親交が、のちに退職後の進路として地方局を意識する原体験となった。

私は詐欺師にはなりたくなかった
データ放送の実力に絶望した私は、「確信の持てない商品は売れない」と営業ができなくなる。魔法瓶を使った安否確認に着想を得た「見守りサービス」や社会的弱者支援への活用を模索する。官公庁へも足を運ぶが、予算の壁に阻まれ活路は見出せず。デジキャスは徐々に追い詰められていった。

「らかす」の現形が生まれた
デジキャスHPの低迷に苛立っち、自らHP担当を志願。閲覧者数増加策として、制作会社から「元記者の経験を活かした日記」の執筆を迫られた。新聞原稿とは異なる「柔らかい文章」に戸惑うが、執筆を開始。これが「らかす」の原形となった。

どんな工夫をしたらWeb用の原稿が書けるのか?
2002年2月、デジキャスHPで初の日記を公開。愛犬との日常を綴った「フリスビー」の回を皮切りに、新聞原稿とは一線を画す「軽妙で柔らかい」文体を模索する。夏目漱石や人気サイト『侍魂』に学び、フォントや行間を駆使して読者の心を掴もうと腐心した。

日誌のネタに困ったのです
取材せずに書くWeb日誌の執筆に、深刻なネタ不足に陥る。過去の体験を掘り起こし「スキー」「音」「グルメ」と連載を広げるがやがて限界へ。窮余の策として趣味のD-VHS録画で溜め込んだ映画の山だった。評論の素人が「ネタ枯れ対策」の軽いノリで足を踏み入れたその一歩が「シネマらかす」の始まりとなる。

シネマらかすの書き方について
一作ごとに独自の切り口を模索しながら「シネマらかす」を執筆。コツなど存在しない「映画という一期一会」に対し、散歩や入浴中に絞り出した言葉で真剣勝負を挑む。やがてHPのアクセス数は週1万5000人超へと急増。経営難のデジキャスの収益には繋がらなかったが。

「シネマらかす」あれこれ
毎週の更新と5本のストック維持に心血を注ぐ日々。執筆中に涙が止まらず、喫煙所と自席を何度も往復した『おばあちゃんの家』や、スナックで即席上映会となりDVDを譲った『ウォルター少年と、夏の休日』。

英語の台詞を書き出し始めた
映画の真意を届けたいと、山場の台詞を英語で書き出す挑戦を開始。必死に耳を凝らし、辞書と格闘しながら、数々の名場面を原文で再現する。チャップリンの独裁者での熱い演説や、BMWの歴史を語る黒人少年の台詞。英語字幕と音声の不一致にさえ気づいたことも。

キヤノン組と肝胆相照らした
デジキャスでキヤノン勢とは不思議と馬が合い、生涯の友となる。Ha氏とは経営の厳しさを巡り激論を交わしながらも、互いの誠実さを認め合い、酒を酌み交わした。日立の酒豪たちとも親交を深める一方、自社で固まる富士通勢とは距離を感じる。

デジキャス勤務が終わりを迎えた
2004年末、朝日新聞本社からの帰還命令が下る。デジキャスの幕引きを担おうと「あと一年残らせてくれ」と1時間にわたり局長に直談判するが、組織の決定は覆らなかった。戦友・Ha氏への申し訳なさを抱え、未知のポスト「朝日ホール総支配人」へと転じることに。

「らかす」の誕生
デジキャス撤退後、「朝日ホール総支配人」を務めながら、閉鎖されるHPから書き溜めた原稿を救い出すべく個人HPを設立。知人Ya氏の「書き散らかす」という言葉から命名された『らかす』は、2006年3月13日に産声を上げた。

朝日ホール・事業本部編
▼ 【その1:朝日ホール総支配人】

■ 11億5000万円!

① なんで私がホールの支配人に?
2005年、デジキャスの正念場に下った帰還命令。門外漢であるクラシックの専用ホールも抱える「朝日ホール」の総支配人。ロックとジャズを愛し、クラシックに無関心な私にはあまりにも「ままならない」ポストだった。

② 1年間の赤字が11億5000万円だと!
前任から引き継いだ実態は4層構造の複雑な人間関係、そして突きつけられたのは年間11億5000万円という巨額の赤字。しかし会社はそれを「消せぬもの」と黙認し、わずかな主催公演の収支のみを問題にする。「我慢」の門出となった。

③ ごまかし決算をやめよう!
暇に任せて決算資料を読み解くと、巨額赤字の裏に「面積割りの税金」などの運営外経費が混入。実質的な赤字を3億3000万円と算出し、ごまかしを廃する「上下分離」の断行を決意した。前任者への不信が、静かに芽生えた。

④ 世界で最も響きが美しい室内楽専用ホール
経費削減のため、大判プリンターを導入しポスターの内製化を断行。さらに、音響学の権威の評価を元に、「世界で最も響きが美しい室内楽専用ホール」をキャッチコピーに据えた。

⑤ ホール経営改革のヒント
経営改善の糸口を求め他館を訪ねるが、参考にならず。現場で名手プレトニョフへの熱狂を目の当たりにし、再生のヒントは現場に落ちていると確信した。

⑥ ホールの経営改革案を示した
2006年度に向け「ブランド化」を目指す改革案を提示。赤字の新人公演を廃し、チケットが完売する「超一流」に絞る戦略を打ち出し、大勝負に出た。

■ 改革事始め

⑦ あのー、音がずれているように聞こえたんですが……
支配人として全公演を聴き、素朴な疑問を演奏家にぶつける。ド素人ゆえの無邪気さが、図らずもプロの聖域を揺さぶることとなった。

⑧ 1ステージ1200万円のピアニスト
世界最高峰ツィメルマン招聘を提案される。出演料1200万円に怯えつつも、ホールのブランド化のために勝負を決意した。

⑨ 超一流のピアニスト、ツィメルマンが浜離宮に!
チケット完売により収支トントンの成功を収める。ホールの格を上げ、再生への確かな一歩を刻んだ。

⑩ 50人超が参加した予算10万円の忘年会
就任2年目で黒字化を達成。自ら包丁を握る手作りの忘年会で、職場の士気を劇的に向上させた。

⑪ 朝日新聞という不思議な会社
「上下分離」で黒字化に挑む一方で、待遇格差に義憤。弱者の暮らしを支えるための独立法人化の夢が芽生えた。

⑫ 私、クレーム処理係になりました
自らクレーム処理を引き受け、ホールを食い物にしていたOBとの絶縁を断行。聖域の膿を出し切った。

⑬ 職場のがん細胞を剔抉した
特権意識の強い社員を異動させ、職場の空気を一変。自発的な提案が上がる組織へと再生させた。

■ 実践編

⑭ 皇室の方々の御先導役を務めさせられた
不本意ながら御先導役を完遂。エレベーター内での美智子妃からの問いに「ハーモニカを少々」と答え、静寂を招く。

⑮ PANTAと知り合いになった
心酔するPANTA氏と楽屋で交流開始。支配人の役得を活かした縁は、後に桐生での公演開催へと繋がった。

⑯ 私はクラシック音楽のファンが嫌いである
教養を誇示し、他人に不寛容なクラシックファンへの苦手意識を吐露。純粋に音楽を楽しむ若者を肯定する。

⑰ 室内楽専用ホールでポップスを始めた!
最高の音響を全てのファンへ。ポップス公演を始動させ、ホールの響きに涙する若者の姿に手応えを得る。

⑱ 研修で、Eric Claptonのコンサートを最前列で楽しんだ
全職員参加の研修としてクラプトン公演へ。雇用形態を超えた交流を深めるが、誘い忘れの痛恨事も。

⑲ 世界最高の舞台用音響機器=650万円を勝ち取った!
黒字実績を盾に、世界最高の音響機器予算を獲得。自らは姿を見ぬまま去ったが、今も舞台を支えているはずだ。

⑳ 朝日いつかは名人会を立ち上げた
若手落語家育成の場を創設。柳家喬太郎師匠の至芸に魂を揺さぶられ、落語の奥深さに開眼する。

■ 抜本改革へ

㉑ ホールの根本的改革を考え始めた
真の狙いは別法人化による格差是正。仲間が働きに応じて報われる「平等な職場」への夢を抱き始めた。

㉒ 朝日ホールの独立を志す
マルチユース構想や配信事業を画策。オーディオブック化などを実現させるも、道半ばで次代へ託すことに。

㉓ 夢は夢のまま終わったが……
ライツビジネスへの挑戦は不備により幻に。そして突然の人事異動。分社化の夢も、ここで途絶えた。

㉔ 朝日新聞の給与体系の話
昇格による手取りの乱高下。部下を思えば損をするという、朝日の不可解な給与体系を痛感した。

㉕ ホールのピアノあれこれ
ベーゼンドルファーなど4台の名器。音大出身の愛娘に弾かせた、支配人としての静かな想い出。

㉖ 売れ残ったチケットをいただきたいのですが……
「読者はゴミ捨て場ではない」と一喝。正論を叩きつけた相手が、後に出世していく皮肉。

▼ 【その2:定年を待つ日々】

㉗ 折り紙で、3次元の、ホントに飛ぶスペースシャトルを作った人がいた!
折り紙ヒコーキに傾倒。知育戦略を立案するも組織に阻まれたが、孫との楽しい想い出が残った。

㉘ 晴釣雨読の日々を思い描いた
定年後の海釣りの夢。かつて家族で楽しんだ釣行を懐かしみつつ、理想の隠居を夢想した。

㉙ 大学生になろう!
定年を機に「大学生」への再挑戦を画策。狙いは学び直しではなく「暇つぶし」と愉快な隠居生活。

㉚ 私はテレビ局に天下りたかった
テレビ局への道を狙うも、因縁の人物に阻まれ断念。まさかの結末に翻弄される定年前夜。

㉛ 任地が決まりました。桐生です。
月給16万円の再雇用。未知の地・桐生へ。「2年の辛抱」と割り切り、渡良瀬川の地へ向かった。

㉜ 桐生は美人の産地か?
「美人の産地」の噂に期待しつつ、定年直前まで働き続けた。現場無視の激励を背に桐生へ。

㉝ 朝日新聞と禁煙とルールと
禁煙ルールの陰で煙を燻らす経営陣。組織の欺瞞に、言葉を飲み込むしかなかった。

桐生・再雇用記者編
▼ 【その1:桐生再出発と、事件の激流】

桐生に引っ越した
2009年3月31日、桐生へ。横浜の自宅は1100万円投じてリフォームし、留守を守る次女一家へ託した。乗り込んだ新居は築40年の古びた支局。初日から昼食場所にも事欠き、片付かぬ荷物を前に隣町のホテルへ逃げ出す始末。「第二の記者人生」が始まった。

境野町に1戸建ての家を借りました
入居した支局官舎は、耐震診断で「柱が一本足りない」と宣告される欠陥住宅。自ら探して転居した境野町の新居は、広々とした150平米の豪邸。リビングの壁に夫婦喧嘩の跡らしき「拳の穴」はあったものの、オーディオも置ける桐生の拠点となった。

怪文書事件について
支局閉鎖の原因は、前任者が市長と建設業者との癒着を疑う「手書きの怪文書」をバラまいた不祥事。筆跡鑑定で露呈し、朝日新聞は桐生で総スカン状態に。私は鈍感力で地元実力者・O氏と近づきになり、元市長との和解の席へ。天下国家を語る氏の度量に触れた。

新聞記者として再出発しました
2009年4月1日、スーツで臨んだ再出発。桐生市長との初会談で「球都」を博多の食べ物「おきゅうと」と勘違いし前途多難なスタート。商工会議所では元記者の専務理事に会頭への取次を約束させるも、数ヶ月放置されるなど、地元の壁に直面する。

亀山市長に嫌われた!
重伝建指定に関する質問で亀山市長から激しく嫌われるが、「淡々と仕事をするのみ」と動じず。マイナスから始まったこの関係が、後に「亀ちゃん」と呼ぶ仲に育つ。記者の「嫌われ仕事」が、街の懐深くへ入るきっかけとなった。

松井ニットのマフラーは桐生で編まれていた!
広報課長に紹介された「松井ニット」のマフラー。その色彩の美しさに一目で心を奪われた。季節外れの4月に専門店を訪ね、段ボールいっぱいの名品を前に「多くの人に知らせたい」と記者の直感が動く。

桐生を盛り上げる記者になれないか?
還暦の体に堪える取材の日々。私は「記者は嫌われ者でいいのか」と自問する。暴くべき小悪よりも、街の課題「産業振興」に光を当て、街の再興を援護する記者になりたい。その決意が、松井ニットへの伴走へと繋がっていく。

松井ニットの話
異例の継続取材を通じ、「がん患者へカラフルな帽子を贈る活動」を掘り起こし、記事を執筆。その後も英国進出を発信するなど、廃業まで公私を超えて伴走した。一企業の物語を紡ぐことが、街の誇りを取り戻す一助となった。

小学6年生の女児が自殺した
2010年、新里町で小6女児が自殺。他紙が「いじめ」と決めつけ学校を糾弾する中、私は家庭崩壊の実態を掴み、安易なスキャンダリズムに走らず事実のみを報じる道を選択。本社から負けを揶揄されるも、物語の捏造を拒んだ誇りを通した。

テレビの記者を殴りつけたくなった
女児自殺の会見で、事実を軽視し校長に罵詈雑言を浴びせるテレビ記者たちの傲慢さに激昂。裏付けもなく「学校が犯人」と決めつけ、居丈高に振る舞う彼らの姿に、報道という名の暴力の恐ろしさと醜さを痛感した。

専門家に聞くいじめと自殺
女児の死を無駄にせぬため専門家に取材。同情的な報道が自殺を正当化させる「暗示」になり得る現実を知る。根絶を叫ぶ正論が思考停止を招く中、安易な物語に逃げず、多角的な視点を持つ報道のあり方を追求した。

▼ 【その2:3.11震災と原発事故】

桐生は震度6弱でした
2011年3月11日の激震。咄嗟にテレビを支えて家族に揶揄されつつも、即座に市役所へ。倒壊の危機に怯える職員を横目に、がれき受け入れや支援取材に奔走。計画停電の夜はランタンの下で、記者の視座から被災地の影を見つめた。

福島第一原子力発電所
事故後、桐生に広がる不安。私は「正当に怖がる」知見を求め、近藤宗平著『人は放射線になぜ弱いか』に出会う。生命の修復能力を知り、いたずらに恐れず客観的事実に基づき行動する、記者としての原点を再確認した。

放射線の人体への影響
「直線しきい値なし仮説」に対し、具体的な事故データから実態を読み解く。数シーベルトの高線量でも適切な処置で回復し得ることや、200ミリシーベルト以下の低線量ではがんリスクが認められない事実を、科学的な数字で解体した。

人体は放射線に弱くて強い
放射線は細胞内に毒物を作るが、人体は日常的に修復し続けている。細胞分裂が活発な組織は影響を受けやすいが、傷ついた細胞を自爆させる「アポトーシス」という精緻な防衛本能が、生命を放射線という毒から守り抜いている。

放射線と発がん
p53遺伝子が正常なら、傷ついた細胞は自爆し発がんは防がれる。実験データでは総被曝量200ミリシーベルトまでリスクは実質ゼロ。生命は30億年の進化で酸素や放射線という「猛毒」を克服する術をDNAに刻んできたのだ。

放射能にびくともしない人体
高線量地区の住民がむしろ健康的であるという調査結果や、低線量被曝者の死亡率の低さは、直感を裏切る真実。放射線の「益」の側面を知り、不安を商売にする言説に惑わされない「知る力」こそが最大の防御であると確信した。

板橋工学部長にインタビューした
「正当な怖がり方」を伝えようと、群馬大学の板橋学部長に取材。過度に不安を煽る言説を否定し、人工放射線と自然放射線に科学的差がないことを示した。大学と連携し理性の旗を掲げ、根拠なきパニックを鎮めるべく努めた。

桐生市議会に、庭山由紀という議員がいた
明晰な頭脳を持ちながら過激な言動で知られた庭山議員は、原発事故後、桐生を「高度汚染地区」と思い込み、SNSで献血活動や農産物を中傷する投稿を繰り返した。市議会は懲罰動議を可決し、彼女は失職した。

亀ちゃんに1000円のタバコをプレゼントした
震災瓦礫の処理問題で、私は「同じ日本人として負担を分かち合うべき」と、会見のたびに亀山市長へ受け入れを迫った。住民の反発を懸念して明言を避けていた市長だが、ついに受け入れを英断。上毛新聞に先を越されたものの、私は嬉しくて、彼の好物の高級タバコを贈った。

「これ以上桐生を汚すな」だって……
試験焼却用瓦礫の搬入日、反対派が現場を封鎖するが、警察に排除された。SNS中継を優先し、「パフォーマンス」に終始する反対派。その傍らで、被災地職員は「風評被害が復興を妨げる」と痛切に訴えた。桐生市はその後、2万トンの瓦礫を完遂した。

▼ 【その3:桐生で見た政治、人】

政権が変わる選挙を取材した
2009年、日本中を襲った「政権交代」という熱病。保守王国・群馬ですら自民党支持層が「一度下野すべき」と口を揃え、私も世の中が変わる期待を持った。しかし、官僚然とした民主党候補と、ベタな演説の自民党候補の対決に、政治家という存在への絶望も。

小沢のじっちゃんの話
政権交代の嵐の中、「選挙の神様」と称される小沢のじっちゃんに出会う。占拠の裏も表も知り尽くした彼から流し込まれる生々しい政局の裏話に辟易しながらも、2人の間には奇妙な友情が芽生えていった。晩年、孤独を深める彼に、私は自腹でプレーヤーを買い、数百本の戦争映画を届け続けた。「情けは人のためならず」。

あなたは1期目の4年間、何もしていない
2期目を目指す亀山市長に、私は「4年間何もしていない」と直球を投げた。市長は怒らず、保守分裂の傷跡を修復することに心血を注いだ4年間だったと吐露。さらに「桐生で生きる我が子のために街を再生したい」と切実な覚悟を語った。

副市長人事を相談された
「あの記者と飲むな」と部下に禁じていた亀山市長とも、いつしか飲み友達に。3期目を迎え、市長から副市長人事の相談を受け、自前での登用を助言する。市長の意中の人物を説得するため、自ら「お先棒」を担いで酒の席を設けるが、相手の清潔な信念に触れ断念した。

野鍛冶、小黒定一さんの話
伝統工芸士・小黒定一さんと、彼に押しかけ弟子入りした医学生・斉藤悠さん。科学の徒である学生が職人の勘を「レーザー温度計」で証明したことも聞き出す。亡き息子を思う師匠と、技を継ぐ弟子の絆を描いたこの記事は、後に私自身が他紙の取材を受けることに。

からくり人形師・佐藤貞巳さんの話
看板屋の本業を持つ佐藤さんは、稀代の「からくり人形師」でもある。佐藤さんが世界初とも言える「実際に布を織る白瀧姫人形」を完成させた機を逃さず記事にした。この記事を読んで遠く沖縄からわざわざ桐生へ見物人が訪れる事態に。

海江田万里経財相をからかった話
010年、松井ニットを視察に訪れた海江田経財相に不敵な質問を投げかけた。「貰ったマフラーの価格、大臣の収受ルールに抵触しませんか?」。狼狽する大臣の誘いも「突然訪ねて会えるほど暇なのか」と一蹴。民主党政権の体たらくに業を煮やしていたからだろう。

▼ 【その4:記者クラブ改革など】

記者クラブの1 桐生市役所には記者クラブが2つあった
桐生市役所には、全国紙・県紙のクラブと、地元の桐生タイムスらが属する第2クラブが併存していた。同じテーマの会見を2度行うという「究極の無駄」を目の当たりにし、周囲を説得して会見の一本化を実現した。

記者クラブの話、の2 記者クラブ費の有効活用
記者クラブの冷蔵庫が故障した際に積み立てられたクラブ費で購入することを決断。公私混同を排する「記者の自立」を促した。また、味気ない昼間の送別会を夜の宴席へと改め、市長らも交えた血の通った交流の場へと変貌させた。

記者クラブの話、の3 異動する記者に松井ニットのマフラーを贈り始めた
桐生を去る記者へ「松井ニットのマフラー」を贈ることを提案。自ら各記者のイメージに合う1本を選び、餞別として手渡した。この試みは朝日新聞前橋総局にも広がり、今や群馬を離れた多くの記者の首元を桐生の色彩が飾っている。

記者クラブの話、の4 記者クラブ主催の花見をしようではないか!
兜町時代に雨天の室内花見を成功させた経験から、桐生でも記者クラブ主催の観桜会を企画する。市幹部も招き、パエリアを振る舞う構想に広報課も賛同したが、「夜の桐生はダウンジャケットが要るほど冷える」という助言に断念。東京と桐生の気候の差を痛感した。

ざっくばらんな飲み会の話、1 呑まなきゃ何も始まらないでしょ?
バーでの偶然の出会いから始まった群馬大学の篠塚教授との交流。形式ばかりで実のない既存の産学連携会議を打破するため、「胸襟を開く飲み会」を提案する。この構想を実現するため、「出ない杭は腐る」と語る市職員・I君を幹事に指名した。

ざっくばらんな飲み会の話、2 私は手こね寿司、パエリアをつくった
口コミで膨れ上がった飲み会は、ついに古民家カフェ「プラスアンカー」を定例の拠点とする。自作の手こね寿司やパエリアを振る舞うこともあり、新聞を離れてもなお続くこの会は、異分野の接触から「千三つ」の奇跡を狙い、酒を酌み交わし続けている。

鼻毛のはなし
桐生の床屋で見つけた「鼻毛脱毛」を、若手の練習にと前橋総局の記者に譲った。自ら撮影までこなしたが、後日その記者が「仕事を押し付けられた」と不満を漏らしていたことを知る。善意が仇となった苦い結末。鼻毛を抜く一瞬の痛み以上に、世代の違う若手との付き合いの難しさが身に染みた。

▼ 【その5:朝日新聞をさる日】

PANTA桐生公演の1 PANTAが桐生にやって来る!
「頭脳警察」のPANTAが桐生を訪れた。彼を「ながめ余興場」などへ案内する。ついには桐生でのライブ開催を熱望するが、現実は甘くない。招聘元としての責任、集客の不安、立ちはだかる「採算」の壁。私はの人脈を頼りに、不可能を可能にする道を探り始める。

PANTA桐生公演の2 そんなに長くやるのかよ!
ジャズバー「ヴィレッジ」を舞台に、40人のライブが実現。集客から夕食の手配まで奔走したが、本番ではPANTA氏が予定を大幅に超える3時間の熱演を披露。自分に捧げられた曲に感銘を受けつつも、予約した夕食会の時間を気にするという、主催者ならではの可笑しみと幸せに満ちた夜となった。

私、引っかかってしましました……
「ポケモン GO」の桐生版で街を盛り上げると豪語したクリエーターTo氏。は特ダネとして報じたが、実態は8000万円の公金を食いつぶした末の「実体なき事業」だった。裏付けの隙を突いたTo氏と、利権に群がった地元関係者。一度も稼働せず放置された100個の電池式発信器は、公金詐欺の残骸となった。

私、2016年8月31日限りで朝日新聞との縁が切れました
2016年夏、朝日新聞を退職。祝杯の席となった桐生の名店「さいとう」で、自身の退任と同時に桐生支局が閉鎖されることを知らされた。合理化の名の下に地方取材網を縮小する会社の方針に、私は「若手はどう育つのか、何が武器になるのか」と鋭く問いかけた。新聞の凋落を肌で感じながらの退職だった。

終わりにオムニバス風に
2016年、朝日新聞を退職。現役時代の10分の1に激減した収入に驚き、倹約を体に叩き込む日々から年金生活が始まった。腰痛という「友」を抱え、様変わりした警察取材に失望し、前任者の遺したリストの浅さに苦笑する。しかし、引退後に親友となった刺繍作家・大澤紀代美さんからは「ズバズバ言うから信用できる」という言葉をいただいた。

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