08.07
#5 :レイダース 失われたアーク《聖櫃》-47.875秒に1回の興奮(2004年9月24日)
それまで酔眼朦朧としていた我が目が、ぱっちりと開いた。午前2時過ぎ、場所は伊豆・修善寺の旅館である。
(余談)
私が目をぱっちりと開いてテレビに釘付けになっていると、妻が膝掛けを持ち出して私に掛ける。
「起きてるぜ」
というと、
「あら、眠っているのかと思った」
そりゃあ、テレビを見ながら昼寝をすることがないとはいわない。でも、今はぱっちりと開いているだろう!
「だって、起きてたって寝てたって、開いてるのか閉じてるのかわからないんだもの」
私の目って……。
旅館、午前2時過ぎ。あなたは、当然、変な想像をする。無理もない。
だが、残念なことに、あなたの想像は不正解である。私は、他人の、いやどこかのカップルの、見てはいけないあられもない姿を目にしてしまったのではない。
会社の旅行でこの旅館に来た。宴会が始まったのは前日の夕刻である。終わって飲み直し、部屋を換えてさらにアルコールをつぎ足し、さて、そろそろ頭のてっぺんまでアルコールが満たされたか、そろそろ布団に入るか、と自分の部屋に戻りかけたのである。
世の中は広い。いや、我が社内は広い。充分に酒をいただいたと私が感じているのに、まだ起きてるヤツらがいた。10人ほどのヤツらが集って、ゴソゴソやってる部屋があった。
「こんな遅くまで遊んでるなんて、こいつら、不良ばかりだ!」
このようなとき、人は自分のことはさておく。さておかないことには、風紀の乱れを嘆くことができない。
(でも、こいつら、何をやってんだ?)
部屋に入った。部屋の一角に大型テレビが置いてあり、みんな食い入るように見ていた。
「なんだ、ここは映画の部屋か」
戻って寝ようかと思ったが、ヤツらの視線が気になった。テレビの画面に食い入っているのだ。何を見てるんだろう?
私は好奇心旺盛なタイプである。知的探求心がすべてを支配するタイプである。人はこのような私のすばらしい性格を、「野次馬」の一言で片づけようとする。不満である。
いずれにしても、私はヤツらの仲間入りした。空いている場所を探し、ごろりと横になって肘枕をし、テレビ画面を眺めやった。
始まったばかりだった。密林を行く男たち。この帽子を被ったやつはどこかで見たな。えーと、そうそう、「スター・ウォーズ」に出てた奴じゃないか。あの映画では主役ではなかったなあ。準主役というところか。名前は知らないが、そうか、こんな映画にも出るのか。
最初は余裕たっぷりだった。なにせ、夜が遅いのである。いや、もうすでに朝が早いのである。草木も眠る丑三つ時である。
そんじょそこいらの映画だったら、途中で抜け出す予定だった。抜け出して、心地よい眠りをむさぼる。酔いが回った身には、それ以上の幸せはない。
画面では、あの主役が深い穴を飛び越え、締まりかけた石の扉の下をくぐり抜けた。扉が閉まりきる直前、置き忘れた鞭をたぐり寄せた。
やれやれと思うと、突然大きな石が転がってきて追いかけられる。
このあたりまでくると、私は完全に映画の術中に陥った。目をぱっちりと開き、横に居並ぶヤツらと同様、画面に釘付けになってしまったのである。
キャッチフレーズ風にいうならば、3分に1回はドキドキ・ハラハラする映画である。画面から目を離す暇がない映画である。
「おい、これ、何という映画?」
「えっ、大道さん、知らないの?」
知っていれば聞かない。無駄な質問の極みである。それでなくてもこちらは酔っておる。早く答えてほしい。
「インディ・ジョーンズっていうんですよ」
誰かが、さも面倒くさそうに答えた。メロメロに酔った頭に、この固有名詞だけはしっかりたたき込んだ。再び画面に集中した。
主役インディが大学の教壇に戻り、政府の要請でエジプトらしきところへ行き、蛇がうようよいる穴に潜り込み……。
ハラハラして見続けていたのに、人間、五欲に勝つのは難しい。あれほどぱっちりと開いていた目がやがてショボショボし始め、やがて上下のまぶたがキスしたがってどうしようもなくなった。
「なにくそ、俺は見る。見るんだ!」
自分に気合いを入れた記憶はある。なのに、ふと気がつくと窓が明るくなっていた。テレビの画面は真っ黒である。やがて幹事さんが、
「朝食は大広間に用意してありますから」
といいながら回ってきた。映画の途中で、不覚にも眠り込んでしまったらしい。
「おい、インディはあのあとどうなったんだ?」
だが、人に聞くわけにはいかない。映画に見入りながら寝込んでしまったのは私なのである。
それに、一緒に見ていたのがいったい誰であったのか、全く記憶になかった。聞けたとしても、誰に聞いたらいいのかわからないのである。
「インディはあのあとどうなったんだ?」
疑問が疑問として残ったまま、修善寺の宿を発った。
疑問を解消できたのは札幌に転勤してからだった。我が家にもやっとビデオデッキなるものが導入され、レンタルビデオショップに出かけて幾ばくかの金を支払えば、目的の映画を自宅で鑑賞できる環境が、やっと整ったのである。
(余談)
確か、1985年のことである。せっかくならと、ステレオ録音に対応したデッキにした。驚くなかれ、当時は20万円近くもする高級家電であった。雪に閉じこめられる札幌の冬を楽しむ道具として、巨額な資金の放出を決断した。ま、伝手をたどって、11万円弱で買ったのだが。
それが、今は2万円も出さずに買える。いや、すでにビデオの時代は終わり、DVD全盛である。
そして、価格。
我が家の、80ギガバイトのHD内蔵DVDレコーダは、6万8000円で入手した。
DVDプレーヤーは2万円である。もっとも高価なデジタルビデオデッキにしても、8万円。
この20年で、家電品の価格は劇的に下がった。
で、「レイダース 失われたアーク」である。
札幌の、公団住宅の6畳間におかれた、ビデオデッキが接続された21インチのテレビで、家族5人、最初から最後まで、途中で眠ることもなく、じっくり鑑賞した。
話を少し脇にずらす。
それまでの私の世界では、たとえば文学は2つの世界に分かれていた。純文学と大衆文学である。
純文学は、概してわくわくドキドキするものではない。何となく難しい。何が書いてあるのかよく分からんものも多い。が、その難しさの分、ありがたい感じがする。読めば頭がよくなりそうな気がする。少なくとも、読んだことを他人に自慢できるのではないか?
大衆文学は、ドキドキハラハラさせて読者を引き込む。はっきり言って、面白い。が、その分、頭が悪くなりそうな感じがする。読むときは、ブックカバーが必需品である。何を読んでいるかを他人に知られたくないのだ。
私のような知識人、知的エリートは、当然のことながら、純文学の世界の住人である。
(余談)
高橋和巳著「邪宗門」の解説で、吉本隆明氏が
「これは知識人の大衆文学である」
と書いていた。大衆文学?
高橋和巳氏の作品は、我が愛読書だったのである。
こうした価値観を生きてきた私の中では、映画も2種類あった。
見る価値のある映画と、見る価値のない映画である。
ATGをはじめとした哲学的、思想的、思弁的、前衛的、美的、実験的映画が、見る価値のある映画である。何よりも、世界を読み解く視点と、観客へのメッセージがある。と思われる。
ハリウッドを代表とする娯楽映画が、見る価値のない映画である。ただ面白ければよい。映画館の暗闇での2時間、矛盾に満ちた現実を忘れさせ、夢幻の世界に遊ばせればよい。所詮、映画とは見せ物にすぎない。であれば、何故に、知性を誇る私がそんな世界とおつきあいをしなければならないのか? 究極の無駄である。
私は、見る価値のある映画しか見ない者なのである。
ところが。
1時間55分のこの映画で、そんな私の人生観、価値観がひっくり返った。
娯楽? 結構ではないか。
面白いことの、どこが悪い?
映画も本も、エンターテインメント性に欠ければ観客、読者をつかみ得ない。どのように深遠な哲理を説こうとも、誰も映画館に歩を運ばず、本を手に取らなければ、力とはなり得ないではないか。
眉間にしわを寄せて生きるだけが人生ではない。
はは、よくぞここまで変われるものである。お前には節操というものはないのか? 昨日まで説いていた論はどこに捨ててきたのか? 恥知らずめ!
変身したのが私でなかったら、いくらでも罵声を浴びせてやりたいところである。
変身したのは私だから、罵声は浴びせない。罵声は受け付けない。
君子は豹変す。
と語るのみである。
この映画は、それほどの衝撃があった。
この映画の何が?
ストーリーはたわいないものである。
哲学? 恐らく、ない。
思想性? 恐らく、ない。
思弁性? 皆無である。
世界を読み解く視点? 皆無である。
メッセージ? 皆無である。
では、何が?
サービス精神である。徹底したサービス精神である。とにかく、これでもか、これでもかと観客を楽しませる、しつこいまでのサービス精神である。
見ている私は、息をつく暇もない。息もつかずに、「レイダース 失われたアーク」の世界に、頭のてっぺんまで引きずり込まれてしまったのである。
哲学も思想も思弁も、世界を読み解く視点もメッセージも、そんなもん、関係ないじゃん!
冒頭のシーンから、ハラハラドキドキを拾ってみよう。
1) | 森林の中を行くインディ一行が大きな石像に行き着く。石像の口から無数のコウモリが羽音とともに飛び出す。 ドキッ! |
2) | しばらく歩くと、木に吹き矢が刺さっている。 「ホビト族だ。毒が塗ってある」。 何が始まるんだ? |
3) | 2人の従者の1人がそっとピストルを抜こうとする。後ろ向きだったはずのインディの鞭がスルスルと伸び、ピストルをたたき落とす。 格好いい! |
4) | 洞窟に入る。すぐにインディと従者の背中にびっしりと毒蜘蛛が。 ギョッ! |
5) | 細い穴から一条の日光が差し込んでいる。日光を遮ると、数本の槍の穂先が飛び出し、そこに白骨が。 ビクッ! |
6) | 深い穴が道を遮っている。天井部分に伸びている木に鞭を絡ませ、まずインディが飛び越える。後に続こうとした従者は、着地に失敗して穴に落ちかかる。 ハラハラ! |
7) | 目的の黄金像が見えてくるが、床のある部分を踏むと矢が飛び出してくる。 ギャッ! |
8) | 砂を詰めた袋と像を置き換えるが、直後、台座が沈み、洞窟が崩壊し始める。逃げる2人。 逃げろー! |
9) | 先に穴を飛び越した従者が 「黄金像を渡さないと鞭を渡さない」。 仕方なく像を渡すと、鞭は渡さぬまま、下がり始めた石の扉の向こうに逃げ去る。 この裏切り者め! |
10) | 仕方なく、鞭なしで穴を飛び越そうとするインディ。飛びきれず、必死につかまった木の根がずるずると抜け始める。 がんばれ! |
11) | 何とかよじ登り、人1人分を残すだけにまで降りてきた石の扉の下を間一髪くぐり抜ける。置き忘れた鞭は、扉が落ちきる寸前に引き寄せる。 フーッ! |
12) | やれやれと振り向くと、逃げた従者が串刺しになっている。額と胸から突き出す槍の穂先。 ドキーッ! |
13) | 黄金像を拾ってふと振り向くと、巨大な石が転がり落ちてきている。逃げるインディ。 ギョギョ! |
14) | 洞窟から転がり出し、やれやれと目を上げると槍や弓を抱えたホビト族がいた。 あれま! |
15) | 隙を見て逃げるインディ、追うホビト族。 走れ、走れ! |
16) | 2座席の水上飛行機が待っており、無事離水。ホビト族からは逃げおおせてホッとするが、すぐに前の座席のインディが 「おい、でかいヘビがいるぞ!」 巨大なニシキヘビである。 「俺のペットのレジーだ」 「ヘビは苦手だ。嫌いなんだ」 「なんだ、肝っ玉が小さいな」 とパイロットと怒鳴りあいながら、膵臓飛行機は雲の彼方に消えていく……。 気持ち悪うー! |
ここまで、12分46秒である。私がピックアップした16のシーンがすべてワクワクドキドキシーンであることにご賛同いただけるとすると、3分に1回どころか、実に47.875秒に1回である。
こんな、ワクワクドキドキシーンの連射、てんこ盛りの映画って、ほかに知ってるか?
私は、ほかに知らないのである。
こいつを、筋の通った話として見ようと思うと、これほど荒唐無稽な話もない。
最初のシーン、インディは従者を5、6人連れ、ロバに荷物を積んで森林の中を進む。2座席の水上飛行機に、5、6人の人間と、ロバと、荷物が乗るはずがない。インディ一行は、歩いてこの森林に分け入ったのに違いないのである。だとしたら、水上飛行機って、何で待ってるわけ?
洞窟まで付き従うはずだった従者の1人が、突然ピストルを抜くのも解せない。ここまで従っておきながら、何で突然敵意をむき出しにするの? ここでインディを殺して何のメリットがある?
洞窟に入るインディは、布袋に砂を詰める。後に黄金像と置き換えるのだが、黄金像がどのようなところにあるのかも分からず、どのような仕掛けが施されているのかも知らずに、なんですべてを見通しているかのように砂袋を用意するのか?
これほどご都合主義のつぎはぎで成り立っている映画も、数少ないのではないか?
それでも、いいのである。
なにしろ、47.875秒に1回なのだ。世間の約束事、世の常識、そんなものは相手にしない。とにかく、面白ければいいのである。次から次へと面白いシーンをたたみ込めばいいのである。追い打ちをかければいいのである。観客は、人生を考えたくてこの映画を見に来るのではない。ひたすら楽しみたいのである
この割り切り。このしつこさ。この執念深さ。
見事である。「天才」と呼ぶしかない。私は、この映画を見て、スピルバーグ監督の天才の前にひれ伏したのである。
それに。
随所に散りばめられた遊び心が、私の琴線にビンビン響く。
水上飛行機のパイロットは、インディを待つ間、フロートに乗って釣りを楽しんでいる。やっと大物がヒットしたらしく、竿が大きくしなる。その時なのだ、ホビト族に追われたインディが姿を見せるのは。
「エンジンをかけろ」
「早く」
「早くしろ!」
インディは必死に叫ぶのだが、パイロットはなかなか飛行機に乗り込まない。追われるインディは目にしているのに、大きくしなった竿を眺め、躊躇する。このほんの少しの間が、いい味なのだ。釣りも趣味の1つである私には、このときのパイロットの心理がよく分かる。せっかくかかった魚が惜しいのである。この魚と、インディの命とどちらが大切か? と真剣に悩むのである。
うなってしまったのは、インディが大学で講義をしているシーンだ。考古学の授業なのだが、学生はほとんど女性。全員がうっとりした表情でインディ先生に見とれている。
女学生の1人と目があった。その瞬間、彼女は両目をゆっくりと閉じる。すると、
右の瞼に、「LOVE」
左の瞼に、「YOU」
の文字が書いてある。
ぎょっとするインディに、彼女はもう一度目を閉じてみせる……。
女学生のあこがれの的である先生がいて、女学生たちは何とかして口説き落とそうとする。授業の場だって例外ではない。使えるチャンスは何でも使うのである。
授業中に目があった。チャンス到来だ。で、このチャンスをどう生かす? 映画を作る立場からいえば、彼女に何をさせる?
私のような凡人に思いつくことといえば、せいぜいウインクである。これだって、大学の教室、授業中という状況を考えれば、結構積極的な求愛行動である。
スピルバーグ監督は、瞼に「LOVE」「YOU」と書いた。
いやー、このシーンには参ってしまった。度肝を抜かれた。
何という、豊かな遊び心の持ち主なんだろう!
何という、素敵なセンスの持ち主なんだろう!
何という、サービス精神の持ち主なんだろう!
私がスピルバーグ監督にいかれてしまったのは、このシーンのせいであると、今でも信じているのである。
その後、札幌の映画館で、リバイバル上映されたインディ・ジョーンズ第2作、「魔宮の伝説」を見た。第3作「最後の聖戦」を見たのは、川崎のシネチッタだった。
「インディ・ジョーンズの音楽を聴くと、どうしてあんなに浮き浮きしてくるのかしら?」
この原稿を書くために自宅でDVDを再生していると、娘がそう言った。
「ほんと、不思議だわ」
娘も座り込んで、もう何度も見たこの映画を、私と一緒に見始めた。
我が家の家族は全員、まだインディ・ジョーンズの魔法にかかったままである。
【メモ】
レイダース 失われたアーク《聖櫃》
(INDIANA JONES AND THE RAIDERS OF THE LOST ARK)
1981年公開、上映時間115分。
監督:スティーヴン・スピルバーグ Steven Spielberg
出演:ハリソン・フォード Harrison Ford インディアナ・ジョーンズ
カレン・アレン Karen Allen マリオン・レイヴンウッド
など
アイキャッチ画像はIMDbからお借りしました。