08.15
#34 : シモーヌ - 虚と実のいま(2005年5月27日)
夕方、銀座を歩いていた。有楽町マリオンの前で見覚えのある顔に出くわした。長髪を風になびかせ、黒いマントを羽織っている。頭頂部はやや薄い。
「あれっ、あいつ、誰だっけ?」
私は人の名前を覚えるのが苦手だ。数回会っただけの人の名前を記憶するのは至難の業である。ところが、困ったことに顔だけは何となく記憶にある。
このまま知らん顔をして行き過ぎるのは失礼だ。だけでなく、次に会ったときに何を言われるか分かったものではない。ここは声をかけずばなるまい。
とは思うのだが、誰だっけ、こいつ……。
(余談)
この点については、同僚H氏を笑えない。忘却具合は、彼と同等と見なさざるをえないからである。
知り合いの名前を度忘れするのは、私だけの属性ではないらしい。かつて聞いた落語のマクラに、相手の名前を度忘れしたときの対処法があった。落語のネタになるほどだから、多くの人が同じ症状を自覚しているものと思われる。
落語で紹介された対処法はこうだ。
まず、にこやかに近づく。
「よーっ、久しぶりだねえ。何年ぶりだろう? しばらく見ないうちに立派になったなあ、お前」
大事なのは、手が届く範囲まで接近することである。
「おーっ、いい背広着てるじゃん。どれどれ」
といいながら、相手の左襟をつかんで裏地を見る。
「ほら、裏地にまでいい生地を使ってら、長田君」
裏地を見るふりをして、裏地に刺繍されたネームを読むのである。
だが、常に通用する対処法ではないというのも落語が教えてくれたことだ。
「ほら、裏地にまでいい生地を使ってら、ん~ん、えっ、これは、えーと、御幸毛織君」
ネームを刺繍していない人もマレにいる。
銀座で、私は記憶に残っていたこの対処法を実践しようかと思った。俺、この男を知ってる、でも名前が出てこない。このモヤモヤから逃れるにはそれしか手がない。
彼に向かって1、2歩歩き始めた。その時、電光のように閃いた。
「俺は彼のこと知ってるけど、彼は俺のこと知るはずがないや」
最近はほとんど見なくなったが、数年前まで、我が家には日曜日の午後7時になると必ず見るテレビ番組があった。
さんまのスーパーからくりTV
夕食をとりながら、家族全員で笑い転げていた。
加藤淳。彗星のごとくこの番組に登場し、素人なのか玄人なのか判然としないまま、独特のペダンチックなボケを売りにした、不思議なキャラクターである。
目の前を歩いているのは、いままさに声をかけようとした男は、加藤淳であった。
瞬時とはいえ、テレビで一方的に見たことしかない人間を、我が知り合いと勘違いする。勘違いも甚だしいが、しかし、世の中にあまねく行き渡ったメディアはそのような勘違いを生み出し続ける。
「シモーヌ」は、コンピュータが生み出した虚像が、大衆を熱狂させ、俳優や映画会社の経営者を振り回し、ついには生み出した当人を破壊させかねないまでにふくれあがる話である。ハリウッドの現実、大衆社会の現在、利益至上主義の経営を俎上に乗せたスパイスのきいた皮肉と、いつもながらのアル・パチーノの熱演に、久しぶりニヤニヤしながら楽しんだ。が、楽しんだあと、ちょっと怖くなった。
メディアに取り囲まれて生きる現代人を支配しているのは、詰まるところ虚像なのか?
見ているうちにそんな問いが浮かんだ。どう考えてもNo! という答えが見つからなかった。なにしろ、この私ですらが、テレビで見た人間を自分の知り合いと思いこんでしまう時代なのだ。
私はこの映画に、メディアが作り出す虚像に振り回される私たちの姿を見てしまったのである。
アル・パチーノ演じるヴィクター・タランスキーはうだつの上がらない映画監督である。かつてはアカデミー賞に2度ノミネートされたが、それがピークだった。いまや、女優からも出演を拒否される。スタジオの幹部に成り上がった元の妻からは、とうとう首を言い渡された。彼には落日の哀愁がつきまとう。
借金取りに怯えながら、撮影途中の映画を何とか仕上げる方策をあれこれ模索していた日、ヴィクターは小包を受け取る。中身はリムーバブルのハードディスク。訝りながらコンピュータに向かった彼の目前に、絶世の美女が登場した。シモーヌ。コンピュータ・グラフィックスで作成されたとはとても思えない、現実の人間以上に女の魅力に溢れた創造物だった。夭折した天才プログラマー、フランクが健康を冒してまで作り上げた革命的虚像である。シモーヌ = Simoneは、Simulation Oneを略したに過ぎない。
9ヶ月後、1本の映画が完成した。
“Sunrise Sunset”
ヴィクターが途中まで撮影しながら、主役の女優が突然降板し、宙ぶらりんになっていた映画である。撮り貯めたフィルムを生かし、主演をシモーヌに置き換えて完成させた。こわごわ映画会社に持ち込むと、作品は絶賛される。それどころか、世界中にシモーヌブームが沸き起こる。
2作目、
“Eternity Forever”
は、1作目を上回るヒットを記録した。こうなると、もう流れは止められない。撮影所幹部は、シモーヌをテレビのトークショーに出せと迫る。生のシモーヌを大衆の目にさらし、シモーヌ人気をさらに盛り上げようというのだ。
かと思えば、シモーヌにメロメロになった雑誌編集長は、ヴィクターがシモーヌに出演料を払っていないと恐喝、表沙汰にしない交換条件として、生きたシモーヌを見せろと迫る。
“I want to see her. Unless you show me Simone live as in person, I show these photos to the police.”
(注)
いつもの通り、聞き間違いもあると思います。
こうしてシモーヌは、中継でテレビに出る。10万人入るスタジアムでライブショウをやる。すべては、コンピュータが作り出す幻影である。
そしてその年のアカデミー賞。司会者は、
「今年の主演女優賞は2人です」
と高らかに宣言する。
1人目。「Sunrise Sunset」のシモーヌ。
2人目。「Eternity Forever」のシモーヌ。
シモーヌ・ブームはさらに高まり続けた。
最初は、自分を捨てたハリウッドとスターたちへの復讐だった。ヴィクター・タランスキーという監督を世に認めさせるための手段だった。ところが、手段だったはずのシモーヌが一人歩きを始め、世界中を翻弄し続けている。
“She doesn’t really exist.”
と真実を告げても、誰も信じない。このマスヒステリアがヴィクターは怖くなった。シモーヌブームに歯止めをかけねばならない。
そのために作ったシモーヌ主演の映画、
“I am Pig”
は、期待を裏切って、またまた大ヒットする。これはいかんとテレビのトークショーに出し、酒に酔っている姿、数々の暴言をお目とお耳にかけるのだが、コメンテーターは
「ほかのセレブと違い、シモーヌは自分に正直だ」
と賞賛する始末。0と1からなるデジタルデータに過ぎないシモーヌは、もはや歯止めがきかないほど実在のスターになってしまったのだ。
打つ手がなくなったヴィクターは、とうとうシモーヌ「殺害」を決意した。シモーヌのデータにウイルスを感染させ、リムーバブル・ハードディスクなどは海中に沈めた。これで一件落着のはずだった。
ところが、ヴィクターはシモーヌ殺害の容疑で逮捕されてしまう。えっ、デジタルデータの破壊が殺人罪になる……?
ま、最後にはハッピーエンドとともに、さらなる発展が待っているのだが、ストーリーはこのあたりでよろしかろう。
最初は、まあ、痛烈に自分たち = ハリウッド関係者を撃つ映画だわいと、クスクス笑いながら見ていた。ハリウッドの現状に対する告発が満載なのである。
“Sunrise Sunset” に途中まで出ていた主演女優、ニコラに突然降板されたヴィクターは、撮影所幹部の元妻エレインにぼやく。
・ | モデル上がりの女が契約書に明記した。各部屋にタバコを7箱置け。うち3箱は開封しておくこと。楽屋から80歩以内に専用ジャグジーを用意しろ。飛行機で移動の時は乳母もファーストクラスで。彼女に子供はいないのに、だ。 |
・ | 映画スターはやりたい放題で、俺たちを舐めきっている。 |
・ | 昔のスターは撮影所や映画監督のいうことを聞いた。何を着て、誰とデートするかも監督が決めた。その気になれば名前も変えられた。 |
エレインの返事はつれなかった。
・ | 理想論など何の役に立つ? 映画はビジネスよ。 |
・ | いい作品、意味のある作品を作る時代は終わったのよ。 |
・ | あなたの作品は大コケばかり。あなたとの契約は打ち切りよ。お金になるスターはあなたと仕事をしたがらないし。 |
こんな台詞もある。モニターのシモーヌにヴィクターが話しかけるシーンだ。
・ | 役者のあまりに理不尽な要求の数々 |
・ | 本物の役者たちの出演料は上がる一方。だが偽物は安くすむ。状況は大きく変わった。偽物にとって有利な方向に。 |
へーっ、そうなんだ。最近のハリウッドは役者の出演料が鰻登りに高騰し、当たるもの、興行収入がペイラインを越えるものしか作れないんだ。もちろん、映画もビジネスだから、儲からなければいけない。でも、理想なしの金儲け一辺倒なんて、なんか寂しいね。
そうか、役者は高慢になるばかりなのか。無理が通って道理もげんこつも引っ込む時代というわけだ。
確かに、最近のハリウッドは行き詰まり始めている、いやすでに行き詰まっているのかも知れない。小粒の作品、独りよがりの作品、リメイク、日本の漫画にヒントを得たもの……。わざわざ映画館まで足を運びたくなる作品にはめったにお目にかからない。
でも、そんな映画に出て、目の玉が飛び出そうになる出演料を取り、王侯貴族も羨むばかりの暮らしをしているのはあんたたちだろうが!
こいつはSFファンタジーの形式で自分たちの足下を撃ち、このままじゃハリウッドが、映画がダメになる、という危機感を表明したマニフェストなのだ。
でも、俺たちにには関係ないぜ。ケラケラと笑ってやろうじゃないか! という楽しみ方もできる。
だがニコル監督が放った矢は、実は笑いを突き抜け、ハリウッドの堕落ぶりを飛び越え、現代社会の核心にぐさりと突き刺さっている。
虚が実を支配する時代への危機感である。
シモーヌは0と1で構成されたコンピュータ・コードに過ぎない。そもそもコンピュータは人の暮らしを便利に、豊かにする道具に過ぎない。はずである。道具は人間の婢女(はしため)なのである。
ヴィクターは当初、シモーヌを本物の人間と思わせようと腐心する。シモーヌに、
ジェーン・フォンダの声、
ソフィア・ローレンの体、
グレース・ケリーの優雅さ、
オードリー・ヘップバーンと天使を合わせたような顔、
を与え、「ティファニーで朝食を」でオードリーが振り返り、
“How do I look?”
と言った瞬間の表情を付け加えて、ひとり、
“Perfect!”
とつぶやく。
(余談)
私見ですが、オードリー・ヘップバーンって、そんなにいいですかねえ。それほどの美人女優ではないと思いますが……。
イメージを作り上げたら、次はシモーヌが現実に存在すると周りに信じ込ませなければならない。このようなとき、もっとも使い勝手がいいのはマスメディアだ。
ホテルのスイートを「Enomis」(= Simoneを逆から書いた)名でとり、監督と主演女優との密会 + チョメチョメを捏造するのである。部屋には女性用の下着をさりげなく置き去りにし、ベッドはしわくちゃにする。歯ブラシをぬらし、いや、便器に落としてしまうからわざわざぬらす必要はなかったのだが、バスタブには石けんを転がす。スキャンダルの捏造だ。
マスメディアはまんまと引っかかった。雑誌編集長に至るや、ホテルのボーイに金を渡して1人っきりでこの部屋にこもると、シモーヌが残したものを集める。そして、あの便器に落ちた歯ブラシに、なんとキスまでしてしまうのである。
新しく撮影する第2作 “Eternity Forever” では、ほかの俳優に、シモーヌの実在を疑わせてはならない。彼らを一室に閉じこめると、ヴィクターはコンピュータがあるスタジオに急行する。連中を閉じこめてきた部屋とスタジオは無線でつながっており、ヴィクターはシモーヌに代わって一同と会話をするのである。声は、もちろんコンピュータがシモーヌの声に変換する。
ここまでは道具としてシモーヌを育ててきた。だが、こうしたイメージがマスメディアを通じてばらまかれると、いつの間にかシモーヌは、実在の人間以上に実在し始める。
粗筋で触れたが、
“Simone doesn’t really exist.”
と何度いっても、誰も信じない。映画会社も、マスメディアも、大衆も、スクリーンとブラウン管でしか見たことがないシモーヌの実在を頭から信じ込み、シモーヌを崇め奉る。映画は次々とヒットし、雑誌の表紙を飾り、かつてはヴィクターの映画から途中で降板した女優ニコラまでが、シモーヌと共演したいとヴィクターを誘惑にかかる。
0と1の集合体でしかないシモーヌが、本物の人間を振り回す。
(余談)
ニコラがヴィクターを誘惑にかかるシーン、こいつは凄いです。いえ、別に極めてエロチックなシーンが展開するのではなく、ニコラを演じるウィノナ・ライダーの演技が凄いのです。
ニコラはヴィクターの前で台本を読む。不倫中の人妻の役である。それまで媚びを含んだ目と声でヴィクターに迫っていたニコラは、数秒間目を伏せ、次の瞬間には表情が一変している。夫と寝ている自宅に、夜中に忍び込んできた不倫相手の男を前に、夫にばれはしないかと恐れながらも、そこまでして自分を求めてくれる男への愛おしさが全身からほとばしる、実に難しい演技をスッとこなすのである。
いやいや、役者とは化け物かも知れません。私なんぞにはとても真似のできることではありませんです、はい。
ヴィクターは、俺がシモーヌを通じて奴らを振り回していると思っていた。世界のアイドル・シモーヌは俺だけのもの。シモーヌの言葉は俺のもの。シモーヌは俺の婢女。これは気分のいいものである。おまけに、車はロールスロイスに変わり、ヨットまで持てるようになった。
満ちて欠けない月はない。何事もピークを迎えれば、あとは下り坂が待つだけである。
あまりのマスヒステリアぶりに恐れをなしたヴィクターは、最初はシモーヌ人気の冷却をはかり、それが無理と分かると、シモーヌ抹殺を試みる。そこはショウビジネスの世界。麗々しく葬儀まで執り行うのだが、その葬儀の最中にヴィクターは逮捕される。シモーヌ殺害容疑である。
”Bernard,I’m a film maker. I was trying to say something. I wanted recognition. I wanted to be appreciated. So I created her. Bernard, there was no one to kill. Do you understand?”
(バーナード、俺は映画監督だ、俺は観客に何かを伝えたかった。理解されたかった。評価されたかった。だから俺は、彼女を作り上げた。バーナード、殺す相手なんていなかったんだよ。分かってくれるか?)
バーナード弁護士への必死の説明も通じない。
“Insanity defense? Beautiful! Fantastic!”
(心神喪失を主張するのか? そいつはいい! 素晴らしい!)
道具だったはずの、婢女だったはずのシモーヌが、あろうことか、ご主人様のヴィクターの人生を破滅させにかかる。いまやシモーヌは世界中の誰よりも力を持ち、世界中のすべての人を支配するモンスターである……。
人は虚像に振り回されるか? 振り回されるのである。
メディアの利用価値に気がつき、大いに活用したのはナチスの宣伝大臣、ヨゼフ・ゲッベルスだった。嘘も百回繰り返せば真実になる。彼は新聞を、映像を活用してドイツ国民を動かした。
紙や電波や通信に乗って様々な情報といわれるものが世の中を駆けめぐる現代に、ゲッベルスはいない。だが、ゲッベルスが見抜いたメディアと情報消費者の関係は脈々と生き続ける。
友人がいった。
「○○新聞ってひどいね。うちの会社のことを書いてるんだけど、間違いばっかりでさ」
そこで聞いた。
「今日の新聞には他社の記事も載ってたけど、あれはどう?」
「あれはホントだろう。新聞が書くほどだもの」
「君の会社のことが活字になったら間違いだらけだったのに、他社についての記事は正しいと思うわけ?」
「………」
かつて、メディアがこぞって取り上げたテーマがあった。政治改革といわれた。いま断行しなければ、日本の政治が崩壊する。改革すれば、素晴らしい日本が誕生する。国民の多くもそう思った。小選挙区制が成立した。
何が変わったのだろう?
様々な政党から、「有名人」が立候補する。落語家、漫才師、元オリンピック選手、俳優、そして最近ではプロレスの選手までが立候補し、当選する。
いや、彼らが政治家になってはいけないのではない。元々の政治家だって、まあ、現状を見る限りそれほど褒めたものではない。様々な分野の方々に国会の赤絨毯を踏んで頂いた方が世の中はよくなる可能性は高い。
だが、いまの構造は健康ではない。何故彼らが立候補を働きかけられ、当選するのか。
テレビで顔が売れている。
それだけでしかない。どうも我々は、茶の間のテレビでしょっちゅう顔を見ていると、何となく親しみを感じるようなのである。
「あ、この人知ってる」
が投票の最大の理由になる。メディアの力というしかない。
新聞が書き、テレビが言ったから、住専への、いまとなってはわずか6850億円の公的資金導入に反対した。その結果、50兆円近い公的資金を銀行に注ぎ込む羽目に陥った。
多くの人が、あれほど危機感を募らせた環境ホルモンが、メディアの世界からパッタリ消えた。誰も環境ホルモンを語らなくなった。
長髪の首相に異様な高支持率を与え、ホリエモンのマネーゲームに胸のすく思いをするのに、メディアの力は関与していないか?
我々は、シモーヌに魅せられ続ける時代のまっただ中にいる。
「シモーヌ」を見て悟りを開き、
「そうか。そういえば、清純派で売っている女優の私生活にゴロゴロ男がいたり、肉体派女優が、案外純情だったり、正義の味方がいつの間にか警察に捕まっていたり、憎たらしい悪役が家に帰るといいおじいちゃんだったり、ってのはごく普通のことなんだ」
程度に思えるようになれば、我々は健康になる。健康な人間が増えれば、メディアの虚像に振り回されない時代が到来する。
のだが……。
「シモーヌ」、是非一度ご覧いただきたい。
【メモ】
シモーヌ (SIMONE)
2003年9月公開
監督:アンドリュー・ニコル Andrew Niccol
出演:アル・パチーノ Al Pacino = ヴィクター・タランスキー
レイチェル・ロバーツ Rachel Roberts = シモーヌ
ウィノナ・ライダー Winona Ryder = ニコラ・アンダース
キャサリン・キーナー Catherine Keener = エレイン・クリスチャン
エヴァン・レイチェル・ウッド Evan Rachel Wood = レイニー・クリスチャン
アイキャッチ画像の版権はギャガにあります。お借りしました。