08.24
#52 : ひまわり - エンディングから始まる物語(2005年10月7日)
8月末、東京・築地の浜離宮朝日ホールでジャズを聴いた。前田憲男、国分弘子のピアノ・デュオにストリングスがからむ、一風変わったジャズコンサートだった。なにしろ、
「このホールは、弦の音が本当に美しく聴けるんですよね」
という前田憲男氏のコメントのあとに現れたのは、
J.S.バッハの「G線上のアリア」だった。
「えっ、これがジャズ?!」
と、思わず口に出かかった。だが、まあいい。音楽をジャンルで区切るなんざ、どこかのオタクに任せておけばよろしい。音楽には、いい音楽と良くない音楽の2種類しかない。
演奏曲の1曲に、「ひまわり」があった。ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニの主演で、世界中の人々の涙を絞り出した名作である。流された涙への、ヘンリー・マンシーニの美しい音楽の貢献は大きい。国分弘子さんのピアノにストリングスが被る美の世界に陶然としながら、
「そういえば、この映画、うちにあったなあ」
とぼんやりと考えていた。その時である。突然、大変な事実に気がついた。
「えっ、俺、この映画見てない……」
「ひまわり」がどのような映画であるかの漠然とした知識は、何故か、ある。無論、「ひまわり」という題名はしっかりと覚えている。主題曲も、最初の数小節を聞いただけで分かる。なのに、いつか見るつもりでDVDに録画したのに、一度も鑑賞していない。我がコレクションの中に埋もれているだけである。 宝の持ち腐れとは、このような状態をいう。
「これはいかん!」
次の週末、早速引っ張り出して見た。
「らかす」をお読みいただいている方々には、よもや、私のような迂闊な方はいらっしゃらないと思う。ほとんどの方が、世に聞こえた名画である「ひまわり」はすでにご覧になっているに違いない。
とは考えたが、念のために粗筋を書き留めておく。
第2次世界大戦が生んだ男と女の悲劇を、印象深く描いた作品だ。
アントニオは、アフリカ戦線への派遣が決まっているイタリア軍の兵士だ。2日後に出発という日、彼は美しい女、ジョバンナに遭い、2人はたちまちにして恋に落ちる。となると、戦争なんか行きたくない、戦争になんか行かせたくない、というのは、与謝野晶子の「君死にたもう事なかれ」をひくまでもなく、世界共通の心理である。
いや、与謝野さんの場合は、確か弟であったが……。
イタリアの軍隊には、結婚に伴う12日間の休暇制度があった。
「私とでなくてもいいから、結婚したら? 休暇中に戦争なんて終わっちゃうよ」
ジョバンナの提案を、
「もう結婚しただろ? 30分前に」
とジョークで返したアントニオだったが、翌日、2人は結婚、早速12日間の新婚旅行に旅立った。
(余談)
30分前に結婚したということは、つまり、30分前に、情熱の赴くままに歓喜の時を過ごしたということですな、これは。
いや、我が夫婦も、出会いから結婚までの時間の短さでは人後に落ちないつもりでした。なにせ、旅先で出会い、じっくり話したのは、1ヶ月後に妻が福岡の我が下宿に遊びに来たとき。この2回目の出会いは5日間をともに過ごしましたが、その3日目には結婚することに合意しておりました。若さとは短慮です、恐ろしいものです。その短慮の結果が現在に至るまで続いておるわけです。
とはいえ、我々の結婚の合意は「30分前の結婚」に基づくものではありませんでした。我々の短慮は、「30分前の結婚」もなしに生まれたのでありました。
まあ、国柄の違いというのか、時代の違いというのか、人の違いというのか、よく分かりませんが……。
だが12日たっても戦争は終わらない。むしろ戦火は広がるばかりで、新婚旅行先も敵の爆撃を受ける始末だ。そこで2人は一計を案じ、アントニオを精神異常者に仕立て上げた。しかし、国家権力は甘くない。あっさりとばれてしまい、アントニオは懲罰の意味も込めてソ連戦線に投入される。
「すぐに帰ってくる。毛皮を土産に」
アントニオは2人を待ち受ける運命も知らず、そう言い残して列車で旅立った。
過酷な戦線だった。一面の雪。3分も体を動かさないと凍り付いてしまう気温。そして負け戦。ついに力尽きたアントニオは、崩れるように雪原に身を横たえ、死を待つばかりとなった。
そんなアントニオを助けたのが、ソ連の娘マーシャだった。マーシャの献身的な介抱で生死の境から蘇ったアントニオは、記憶をなくしていた。ジョバンナの記憶がないアントニオはいつかマーシャを愛し始め、2人は家庭を築いて子供をもうける。カチューシャという可愛らしい女の子だ。
一方のジョバンナは、待ち続けた。アントニオ戦死の知らせは来ない。だが、戦争が終わっても戻ってこない。いったい、アントニオはどこでどうなっているのか……。
ジョバンナは自分で探しに出た。知らぬ国を訪れ、写真1枚を手がかりに探し続けたジョバンナの努力は無駄ではなかった。とうとう、アントニオを見つけたのだ。だが、ジョバンナの前に立ったアントニオには、妻と子供があった……。
「ひまわり」は、男と女の愛を通じて、戦争の残酷さ、非情さを描いた反戦映画の傑作である、と紹介されることが多い。全く異論はない。
ヴィットリオ・デ・シーカ監督は、そのテーマを浮き彫りにするために、アントニオとジョバンナの愛の姿を綿密に描く。
いまのハリウッドがこの映画を作ったら、恐らく2人のセックスシーンが何度も登場するだろう。ソフィア・ローレンのゴージャスな裸体も、たっぷり拝めるに違いない。だが、ヴィットリオ・デ・シーカ監督は、2人の愛欲シーンを一度も見せない。海辺で行われる「30分前」の結婚も、ボートの陰での儀式で、観客には見せてくれない。残念である。無念である。
だが、ハッとするほどエロチックなシーンがある。新婚旅行に出かけた2人が食事をする場面だ。
食事は、パンと、ワインと、アントニオが24個の卵で作ったオムレツ。さすがに食べきれず、うんざりした表情でオムレツの皿を押しやる2人だが、その時アントニオがさっと手を伸ばし、ジョバンナの豊かな左の乳房を、服の上からむんずとつかむのである。
それから始まる喜びの歌に向けたforeplayではない。2人はベッドには向かわず、そのまま散歩に出かけてしまうのだ。だからこそ、男と女の間にある深くて暗い川が完全に埋め立てられていることを思わせる。2人は、身も心も溶けあって一体化しているのである。それはエロスの極地であろう。
ジョバンナの、どうしても消えない恋心はちょっとした小道具 - イヤリングが見事に描き出す。
海岸での「30分前」の結婚のとき、アントニオはジョバンナのイヤリングを飲み込んでしまう。顔に、首に、耳に唇をはわせていて、ジョバンナの耳を飾るイヤリングを口に含んでいるうちに、弾みで嚥下してしまったのだ。
結婚式を終えて新婚旅行先に向かう列車の中で、アントニオはジョバンナにプレゼントを贈る。イヤリングである。2人を結びつけたエロチックな瞬間を思い出させる粋なプレゼントだ。男たるもの、この程度の遊び心がなければ生きている価値はない。
このイヤリングを、ジョバンナが身につけるシーンがあとでやってくる。ソ連までアントニオを探しに行き、妻と娘がいることを知って泣きながらイタリアへ戻ったあとである。
それはこんなシーンだ。
イタリアに戻って幾年かがたち、ジョバンナも結婚して子供ができた。そこへ、突然アントニオから電話が来る。
「いま、ミラノにいる。会いたい」
妻と娘をソ連に残し、アントニオはジョバンナに会うためにミラノまでやってきた。1度は拒絶したジョバンナだったが、2度目にアントニオから電話を受けると、自宅の住所を教える。理性は、会ってはならないという。だが、心の奥深くでアントニオを求める炎が燃え続けているのである。
電話を切ると、ジョバンナは部屋中を探し始めた。探し出したのは、あの、アントニオからもらったイヤリングだった。ソ連から戻ってすぐ、服も、写真も、手紙も、アントニオのものはすべて捨て去った。なのに、このイヤリングはどうしても捨てることができなかったのだ。
ジョバンナは鏡の前に立ち、イヤリングを耳にとめると、身繕いを始めた。
諦めたはずだった、憎んだはずだった、忘れたはずだったアントニオが、だがジョバンナの中でいまでも生き続けている。イヤリングが、切なくなるほどの女心を見事に象徴する名場面である。
そして、2人はジョバンナの部屋で会う。雷鳴が激しい豪雨の夜だった。
「自殺しかけたわ。愛なしでも生きていけるのね」
というジョバンナを、アントニオは
「一緒に行こう。愛している。君だって僕を……。別れられない。どこかへ行こう。もう一度新しく……」
と掻き口説く。だが、2人には許されない選択だった。いまでは2人とも、それぞれの家族がある。
突然、別の部屋で寝ていたジョバンナの子供がむずがり始める。アントニオは、ジョバンナにも子供がいることを初めて知った。
「子供の名は?」
「アントニオ」
「僕の名を?」
「聖アントニオの名よ」
アントニオはすべてを察した。カバンから土産を取り出す。ソ連のデパートで買ってきた毛皮である。ソ連戦線に向かうときの約束を、いま果たしたのだった。
翌朝、ミラノ駅のプラットフォームでアントニオを見送るジョバンナは、立ちつくしたまま泣き崩れるのだった……。
映画はここで終わる。ジョバンナの涙は、戦争に運命をもてあそばれた男と女の涙である。戦争の残酷さ、理不尽さと、時代の大波をなすすべもなく受け入れざるを得ない個人の非力さを描き尽くした見事なストーリーだと思う。
だが、アントニオとジョバンニの本当の物語は、実はここから始まるのではないか?
2人はこのとき、40歳前後と見える。人生は、まだ半ばである。2人が本当に苦しみと悲しみに悶えるのは、実はこれからなのではないか?
人が一番苦しみ、無力感に苛まれるのは、何とかしたいのに、体も心もよじれるほどに求めているのに、何もできない、永遠に手に入らないことを知らされたときである。
子供が病に陥って病院に駆けつける親は、心配でたまらないだろう。可能性は小さいが、助けるには手術しかないといわれた親は、何とか手術が成功してくれと手術室の前で神に祈る。
辛いに違いない。だが、目の前にやるべきことがある分だけ、まだ救われるともいえる。
最も辛いのは、
「残念ながら、現代医学の水準では、お子さんを助ける術はありません」
と宣言されたときである。子供はまだ生きている。息もしているし、体も温かい。時々うわごともいう。でも、この子は助からない。親としてできるのは、この子が息を引き取るのを看取るだけ。
人が神を呪うのは、そのようなときである。
アントニオが記憶を取り戻したとき、横にマーシャという妻がいた。ひょっとしたらカチューシャという2世も誕生していたかも知れない。ジョバンナを思い出して、叫び出したくなったかも知れない。だが彼には、守るべき家族がいた。懸命に尽くしてくれるマーシャへの愛も芽生えていたはずだ。
2つの愛に引き裂かれる。アントニオは辛かったに違いない。だが、まだ地獄は見ていない。すべては運命だと思って諦めるさ。なあに、あれからもう、ずいぶん時間がたっている。ジョバンナも、俺は死んだと思って諦めているさ。女心と秋の空、っていうじゃないか。
自分を慰める術があったのである。
戦場から戻らぬアントニオを思うジョバンナは苦しんだ。アントニオの生死を把握していない役人をののしり、ソ連戦線からの帰還兵を駅頭に迎えてアントニオの知人を捜し、ついにはソ連まで出かけて自ら探す。苦しく辛い日々であったに違いない。
やっと見つけ出したアントニオは、その地で妻を娶り、子までなしていた。しかも、アントニオの妻マーシャが、アントニオの命の恩人だった。最愛のアントニオを救ってくれたマーシャは、ジョバンナの恩人である。同時に、世界でもっとも憎い相手でもある。体と心がバラバラになるほどショックだったはずだ。
だが、それでもまだましではなかったか。
心変わりをしたアントニオを憎むことができた。アントニオを忘れる努力をすることができた。まだジョバンナには、やることがあった。
2人がそこにたたずんでいれば、悲運を嘆きながらも、苦い思い出は、いつしか甘い昔話に変質していたはずである。人間はそのようにして、自分の精神のバランスを取る。
なのに、探しに来たジョバンナを見てアントニオは、ジョバンナの中に、火傷をしそうなほどの自分に対する恋が生き続けていることを知った。自分の中にもそれにも増した情熱が燃えさかっているのを知った。
ジョバンナは、ミラノまで出かけてきたアントニオに会って、アントニオの中にも、火傷をしそうなほどの自分に対する恋心が生き続けていることを知った。
世界で最も大事なもの、それなしでは生きて行けそうにないものがはっきりと分かった。相手が同じ気持ちでいることも分かった。なのに、それは永遠に手に入らないものであることも同時に思い知らされたのである。
男と女の間の関係は、煎じ詰めると単純である。双方とも特別の関心を持たないか、一方だけが恋愛感情を持つか、双方ともに恋愛感情を持つかである。
片思いなら失恋があり、その痛手は時間が癒す。
一時はうまくいった恋愛が、相手の心変わりで地獄と化す。相手を憎む。その苦しみも、時とともに薄らぐ。
成就した恋愛は、時間ともに成熟する。それは愛が冷めると表現されることもあり、愛が深まるといわれることもある。多くの場合、すべてを焼き尽くすような情熱が徐々に落ち着き、時に倦怠期と呼ばれながらも、いつしか、以前とは違った人間関係を育む。いわば、夫婦予備軍が夫婦になるのである。そして、やがて老いる。
だが、お互いに深く愛しあいながら、成熟を許されない愛は、いつになっても灼熱のままだ。
60歳になったアントニオの中で生き続けるジョバンナは、分かれた時のままの姿形でアントニオを愛し、求め、渇望し続けている。
60歳になったジョバンニの記憶にあるアントニオは、分かれた時のままの姿形でジョバンナを愛し、求め、渇望し続けている。
憎むことも、忘れることもできない。成熟することのない愛……。
それが死に抱き取られる日まで続く。ともすれば、足下でポッカリと穴を開けそうな大地の上で、狂いだしそうな心を抱いて、2人はそれぞれの家族とともに生きていく。耐え続けるのが、彼らの余生なのである。
忘れてはならない。アントニオの妻マーシャにとっても、ジョバンナが現れて以降の日々は、地獄である。夫であるアントニオの愛が、自分ではなく、ジョバンナに向いていることを知ってしまったからだ。だが、アントニオから離れることはできない。地獄の地獄を生き続ける夫のそばで、彼女もまた、別の地獄を生きるしかないのである。
60歳になったアントニオは、ジョバンナは、そしてマーシャは、どこにでもいる初老の男と女になっているのに違いない。ひょっとしたら可愛い孫にも恵まれているかもしれない。もともと、美男と美女である。傍目には、家族に恵まれて穏やかな日々を送る幸せな人々に見えるだろう。
だが、彼らの中では、消えることがない灼熱の炎が燃え続ける。彼らは地獄の地獄でのたうち続ける。
映画を見終わって、そんな思いにとらわれた。しばらく動けなかった。
映画が終わったあとを観客に考え込ませる。
それも名画の条件である。
【メモ】
ひまわり (I GIRASOLI)
1970年9月公開、上映時間107分
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ Vittorio De Sica
音楽:ヘンリー・マンシーニ Henry Mancini
出演:ソフィア・ローレン Sophia Loren = ジョバンナ
マルチェロ・マストロヤンニ Marcello Mastroianni = アントニオ
リュドミラ・サベリーエワ Lyudmila Savelyeva = マーシャ
アイキャッチ画像の版権のアンプラグドにあると思われます。お借りしました。