2017
08.10

#21 : 理由 - 約束違反(2005年2月4日)

シネマらかす

人の世は、様々な約束事でできあがっている。

 赤は止まれ、は進め

は、人と車の流れを安全に、スムーズにするための約束事である。無視する人がいると、私の愛車が大破したような事故が起きる。

(CM)
交通事故に遭う」を参照してください。

 「小菊」でとびきりの魚料理とおいしいお酒をいただいたら、帰りに代金を払うのは約束事である。破ると、2度ととびきりの魚料理とおいしいお酒をいただけなくなる。

「おい、来週あたり一杯やらないか?」

 「いいね、いつにする?」

と個人間で成立した合意も約束事である。忘れると、良き友、飲み友達を失う。

とにかく、約束事を守ることで成立しているのが人の世なのである。1人1人が約束事のルールで自分の行動を律し、他人の行動を予測する。だから、世の中はそれなりに安定する。

理由」は、映画と観客との間に存在するはずの、暗黙の約束事を破っていないか?
何度見ても、そんな思いにとらわれる。

駄作というわけではない。よくできた映画である。頭が薄くなるのに比例して味が出てきたショーン・コネリーは素敵だし、どんでん返しも意外性があって楽しめる。
だけど……。

フロリダで白人の少女が誘拐され、レイプされ、殺された。容疑者として逮捕されたのは、コーネル大学を卒業した黒人、ボビー・アールだった。8年後、ボビーは死刑囚として処刑を待つ身である。

死刑反対論者であるハーバード大学法学部のポール・アームストロング教授がボビーの祖母の訪問を受けたのは、死刑の是非をテーマにした公開討論会を終えて会場を出ようとした時だった。孫は無実だ、助けてほしい、と彼女は懇願する。教授を訪ねるように言ったのは、ボビー本人だという。その場では断ったアームストロング教授だったが、地方検事補、弁護士の経験がある妻に、是非引き受けるべきだと説得され、事件を解明するためにフロリダに飛んだ。

調査を進めるに従って、次々と新しい事実が見つかる。杜撰な捜査、欠落の多い証拠、おざなりな弁護、地域社会の黒人差別、先入観を持った目撃者。ついには真犯人、犯行に使われた凶器までまで探し出すことができ、ボビーは晴れて自由の身になる。だが……。

話は、米国社会に根強く残る黒人差別、目には目を、の報復主義の暴力性を告発する社会派ドラマとして始まる。これでもか、これでもかと、差別主義者どもを告発する。

自宅でくつろいでいるところを警官に連行されたボビーは取調室で、そんな少女など知らない、自分は犯人ではないと繰り返す。無実なら当然だ。そんなボビーを待っていたのは、殴る、蹴る、の暴行だった。分厚い電話帳で頭も殴られた。ついには、刑事が1発だけ弾を込めた拳銃の銃口を口に押し込み、引き金を引く。ロシアンルーレットというやつだ。

こんなことをされてはたまらない。ボビーは恐怖におののいた。抵抗力が失せた。すると刑事はテープレコーダを取り出し、でっち上げたとしか思えない犯行の経緯を自分で吹き込み、ボビーの口の前に突き出す。ボビーは力無く、

“Yes.”

と答えるだけ。取り調べは、食事も水も睡眠もなく、そしてトイレに行く自由もなく、22時間続けられた。
完全な見込み捜査、拷問による自白のでっち上げ。これが冒頭のシーンである。

調査を始めたアームストロング教授は、次から次へと驚くべき事実に遭遇する。

最初に検死官を訪れた。
強姦があった。では精液は?

「なかった」

加害者の血液型はどうやって調べた?

「少女の歯についていた血液から。少女が抵抗して噛んだのよ」

ボビーの手に残った歯形と照合したか?

 「してないわ。だって、彼、自供したもの」

22時間にわたる拷問の結果の自供と言うが?

「怪しいものね」

彼の手についた傷は拷問でできたものかも?

「都合がよすぎるわ」

杜撰すぎる検死報告である。

担当した弁護士。
裁判地の変更申請は却下された。自供の削除申請も却下された。しかも、陪審員は全員白人だ。ボビーは有罪を認めれば25年ですんだのに、無実の一点張りだったから。
血液型? ああ、私からは取り上げていない。反対尋問もしなかった。だって、法定内の半数は検死官と親しいし、彼女、地元では名医で通っているんだ。
自供が録音されたテープの鑑定? ああ、やろうとしたさ。でも、地元が求めるのは復讐なんだ。

無能な弁護士がボビーを死刑にした、と観客は思う。

殺された少女の教師。少女が誘拐された日、少女は学校のそばに止まっていたボビーの車に乗り込んだと証言した目撃者でもある。
彼女が知っているボビーの車は、警察が見せた、横から写した写真だけだ。しかも、少女が車に乗り込んだとき、彼女は右後ろからしか車を見ていない。それで、ボビーの車だったと断言できるのか?

この程度の証言が積み上がって、死刑判決が出たのか?

事件の担当だった刑事タニーが運転する車に乗り込んだ。現場を案内してもらうのだ。タニーは冒頭のシーンで、ボビーの口に銃口を突っ込んだ刑事である。
車で待っていたタニーは、蓋をねじ込むようになっているガラス瓶から直接紅茶らしきものを飲んでいた。飲み残した分は窓からこぼした。品のない男である。顔つきも卑しい。
現場に向かう途中、タニーが突然、シートベルトでアームストロング教授の首を絞め始めた。
ほら、叫べ! 叫べ! ここは叫んでも誰にも聞こえないんだ! 少女はこんな場所で誘拐されたんだ。
タニーは薄ら笑いを浮かべながら首を絞め続ける。この男、狂ってるんじゃないか? 暴力をふるうことに喜びを見出す変態ではないのか? この男だったら、ボビーの口に銃口を突っ込んでロシアンルーレットをやったはずだ!

それだけではない。事件を引き受ける前、死刑の是非をテーマにした公開討論会で、アームストロング教授はいう。
1890年からの100年間で、23人が無実の罪で死刑になった。白人を殺して死刑になった人間の数は、黒人を殺して死刑になった人間の7倍である。
冤罪の多さ、黒人差別が客観的データで示されるのである。

そして、アームストロング教授に会いに来たボビーの祖母は言う。

「裁判官は87歳の白人だった。あの男は、私の孫をケダモノと呼んだ」

さて、いかがであろう。これだけの材料を畳み掛けられれば、100人の観客は、100人全員がボビーの冤罪を信じるはずである。いや、映画は、観客を一方的に誘導するのである。私のようなへそ曲がりでも、

「いや、ボビーが真犯人に違いない」

とは考えることができない。ボビーの有罪を推定する材料は1つもないのである。

果たして、「真犯人」が登場する。このあたりは一気呵成だ。ボビーと一緒に死刑囚房に入っている男である。旅をしながら女を犯し、殺してきた連続殺人犯だ。この男から話を聞き込んだのはボビーだ。ボビーは言う。

「奴は、僕のことを『俺の最後の被害者だ』といったんだ」

アームストロング教授がこの男、ブレア・サリバンに面会すると、奴は言を左右にして自分が真犯人だとは言わない。が、凶器に使われたナイフを捨てた場所のヒントを出す。タニー刑事と探しに行くと、8年間も発見されなかったナイフが、そのヒント通り見つかる。

サリバンが犯行に使っていた車の写真を調べた。ボビーの車とそっくりだ。

そして、ついに決定的な証拠が見つかる。
サリバンは不思議な男だった。死刑の執行を待つ房の壁に壁画を描いていただけではない。自分が殺した被害者の遺族に手紙を書き続けていたのだ。あまりに多すぎるし、サリバンからの手紙を喜ぶ遺族がいるはずがない。刑務所長は投函せず、自分の部屋に置きっぱなしにしていた。
アームストロング教授とタニー刑事がその手紙を調べた。あった、少女の遺族に宛てた手紙が。

「シュライバー夫妻 死の準備に忙しく、連絡が遅れました。お嬢さんとの時間はとても甘美なものでした。それは熟したメロンを切り分ける感触、チェリーを摘む喜び。畑を耕し、種をまく。だが、この種が実りの時を迎えることはない。 ブレア・サリバン」

再審裁判が開かれ、ボビーの無罪が確定する。差別された黒人、無実の罪を押しつけられた青年、拷問の末にやってもいない犯罪を自白したボビーが、やっと自由の身に戻る! 観客がホッとする瞬間である。

だけど、待てよ。上映時間は、まだ30分以上残っているぞ。これから何が……?

大どんでん返しが始まる。

勝訴の美酒を楽しむアームストロング教授へ、サリバンからかかってきた電話が始まりだった。

「できすぎとは思わなかったか?」

こうして映画は一変し、事件の裏に、いや観客の目に触れないところに隠されていた事実が次々と明らかになる。

本当の犯人は誰か?
サリバンが、自分が真犯人だとの示唆し続けた理由は何か?
ボビーがアームストロング教授に弁護を依頼した理由は何か?
犯されて殺された少女の体内に、犯人の精液が残っていなかった理由は何か?

かいつまんでいうと、やっぱり真犯人はボビーなのだが、でも、これって約束違反じゃないかい?

前半で観客が見せられるのは、ボビーの冤罪を示すデータだけ。特に、冒頭の警察官による拷問シーンは、観客を決定的にボビー贔屓にする。
なのに、ずっとあとになって、拷問は、ボビーが「やられた」といっているだけで、取調室で実際に起きたのは、警官が2、3発、ボビーをぶん殴った程度、というのだ。
だったら、冒頭で延々と見せられた拷問シーン、あれ、何だったの?

そのほかの、ボビー冤罪の傍証も、ま、ボビーが真犯人と分かってしまえば、その程度の間違いは誰にでもあるわさ、という話にしかならない。司法としての厳密さなんて、どこにもない。

加えて、繰り返される黒人差別批判。結局、黒人の青年であるボビーが真犯人だったのなら、その批判は心からの叫びではなく、ま、世の中にはそんな見方もある、こいつは観客をだますのに便利がいい、という程度の材料でしかない。

ミステリーは、観客や読者をだましてもいい。いや、種も仕掛けもないように見せかけながら見事にだますのが、監督や作家の力量である。最終局面にいたって意外な犯人が浮かび上がり、やられた! と感心するのは、ミステリーの醍醐味でもある。
でも、約束事があるはずだ。目をカッと見開き、眼光紙背、あるいはスクリーン背に徹していれば、事件の真相に達することができる材料が与えられていなければならないのだ。あるいは、だまされた後、もう一度見たり読んだりすれば、なるほど、ここでだまされたのか、この材料にどうして気がつかなかったのか、と思わず膝をたたきたくなるところがなければいけないのだ。

前半は、誰が見ても冤罪事件。後半にいたって、実は冤罪ではなかった、という展開は、だまされた方に快感がないのである。例えてみれば、妻子のある男が女性を口説く際に、

「結婚を前提に付き合ってください」

といっているようなものだ。どう考えてもフェアではない。

妻子ある男は、

「結婚していることを前提に付き合ってください」

といわなければならない。まず、すべての材料を示す。その上で口説くのが、真の口説き上手なのだ。

(余談)
いや、難しいことは分かっております。はい、充分に分かっております。
しかし、困難を避けていては、光り輝く栄光の世界に到達することは不可能なのであります。

 映画として困るのは、憎まれ役のタニー刑事役で登場するローレンス・フィッシュバーンと、ボビー役のブレア・アンダーウッドだ。
ローレンス・フィッシュバーンは、いかにもいかにもの悪人面で、下品な仕草といい、警察の権力を悪用したサディスト以外には見えない風貌といい、卑しげな目線といい、どこをとっても悪徳警官にしか見えない。
話が解決編に入ったころ、彼の娘が登場する。殺された女の子の親友だったといい、いまは高校でトップの成績でバージニア大学に行きたいと思っていると話す。ん? あんな知性のかけらもないような男の娘が高校でトップの成績? 殺された娘の親友で、この家にも遊びに来たことがあったって?
だとしたら、凶暴そうな外面の裏側には、ひょっとしたら豊かな知性が隠されているのか? 娘の友達を殺した犯人を何としてでも逮捕したいと真面目に捜査してボビーに行き着いたのか、などと考え始めるのだが、いかんせん、悪役がはまりすぎていて、なかなか頭が切り換えられない。

ブレア・アンダーウッドは逆である。知的で美しい顔立ちをしたこの青年は、前半、冤罪の被害者、言われなき人種差別に苦しむ若者の役を見事に演じる。ところが、誘拐と強姦殺人の真犯人だったことが分かり、殺人鬼の本性をあらわにした後でも、知的で美しい顔立ちはそのままで、歪むこともない。目が狂気を帯びることもない。あまり怖くないんだなあ。

逆を考えれば分かる。ブレア・アンダーウッドがタニー刑事に扮して、ローレンス・フィッシュバーンがボビーを演じる。さて、この配役でこの映画は成立したろうか?

と友人に話したら、

「それは君、時代が分かっていない」

と反論を食らった。彼によると、最も犯罪者らしくない人間が罪を犯すのが現代なのだという。

「いや、だけど、冤罪だと主張している間はともかく、自分が真犯人であることが明からになり、アームストロング教授の妻と娘を誘拐し、殺そうとするシーンでは、もっとおどろおどろしい雰囲気を持っていないと変じゃないか。人を殺すって、やっぱりどこかが狂わないとできないことだろ?」

と反論したが、

「平然と人を殺す。それが現代だ。『理由』は、だから、現代を、現代の狂気と怖ろしさを、実にうまく描いた作品なのだ」

とやりこめられた。

うーん。
私にご賛同いただくか、我が友人に一票を投じていただくか。
いずれにしても、この映画を一度ご覧になって決めていただいたらどうだろう?

【メモ】
理由 (JUST CAUSE)
1995年6月公開、上映時間102分
監督:アーネ・グリムシャー Arne Glimcher
出演:ショーン・コネリー Sean Connery = Paul Armstrong
ローレンス・フィッシュバーン Laurence Fishburne = Tanny Brown
ケイト・キャプショー Kate Capshaw = Laurie Armstrong
ブレア・アンダーウッド Blair Underwood = Bobby Earl
ルビー・ディー Ruby Dee = Evangeline
アイキャッチ画像の版権はWARNER BROS.にあります。お借りしました。