2014
07.17

2014年7月17日 HCV

らかす日誌

昨日の、今日である。私にも、

「確かめておかねば」

と思う事柄はある。昨日書いたHCV抗体だ。
昨日はああいう風に書いた。が、いかんせん、素人の自己診断である。判断に誤りがあっては、悪くすると取り返しがつかない。

で、本日、会社の健康相談室に電話をした。

「ということで、精密検査を受けろといってきたんだけど、受けなきゃだめかな? ねえ、HCV抗体が私の体内にあることは分かってたんだし、それはすでにすませた精密検査で『ウイルスなしの抗体だけ』と分かっているわけだし」

彼女(そう、相談先は女性なのである)はいった。

「あら、大道さん、お電話いただいて嬉しいわあ」

どうやら彼女は関西系である。

「そうなんですかア。ええ、精密検査、受けなくっていいですよ。そりゃあ、前の検査の後で、またまた感染したってことはあり得ますけど、普通ないですから」

「そうだよねえ。最初に入ってきたウイルスと闘って打ち破った、頼りがいのある抗体がまだ体内にあるということは、その後新しく感染したとしても、抗体がいい仕事をしたはずだもんね」

こうして、私は精密検査を逃れた。

「あ、ついでなんだけど、俺さあ、この半年ほど週に2回休肝日をつくってレバーを休ませてるんだけど、その割にはγ-GTPの数値が下がらないんだわ。休肝日を作っても無駄かね?」

「ああ、そうなんですか。大道さん、休肝日、もっと増やせません?」

「無理」

「そうですよねえ。だったら、お水を飲んでもらえませんか?」

「水は飲んでるぜ。いつもそばには水のペットボトルがあるし、そうねえ、おおむね3日で2リットル程度飲んでる。もっと飲めってか?」

「ええ、もう少し増やしてもらってもいいかなと思うんですけど、そうじゃなくて、お酒を飲むときに、一緒に水を飲んでもらえません?」

「酒を胃の中で薄める訳ね。そんなんで効果あるの?」

「ええ、多分。それと、朝起きたら水、夜起きたら水……」

「君ねえ、日本語は正確に使おう。朝起きたら、はいい。でも、夜起きたら、って何? 夜は寝るもんだろ」

「ああ、そうじゃなくて、夜中に目が覚めたりするじゃないですか。その時に水を一口二口飲んでいただけないかと。だから、朝起きたら、夜起きたら、まず水を飲む、って習慣をつけて欲しいんです」

ま、その程度ならできる。それで肝臓関連の数値が良くなるのなら、喜んで水ぐらい飲んでやる。

ということで、当面、私の健康に危惧はないらしい。


中高年 健康常識を疑う」(柴田博著、講談社選書メチエ)

日本の高齢化社会へのドアが開いたいま、多くの方に読んで欲しい本である。

著者は、桜美林大学大学院老年学教授である。この方が説かれることはいちいち腑に落ちる。

例えば。

よくメディアを賑わす論法に、

「2025年には2人で1人の高齢者を支える時代になる」

というのがある。どこかで目にしたり耳にしたりして、

「俺は逃げ切り世代だ」

と胸をなで下ろす高齢者もいらっしゃるかも知れない。逆に

「冗談じゃねえぜ」

と怒る若者がいるかも知れない。
が、著者によると、このような論法は間違いである。

これは、15歳から65歳までの「生産人口」で、それ以上の年代の高齢者人口を割った数値である。それは確かに2前後になる。
だが、生産人口が支えるのは、高齢者だけではない。生産人口に達しない、つまり0歳から14歳の子供たちも、生産人口が支えなければ社会は成り立たない。
つまり全人口に対する生産人口の割合を問題としなければいけないのだが、その数値は1990年で69.5%である。2025年には59.5%になるが、それは1955年頃の数値と変わらない。しかも、一人あたりの生産能力は1955年とは比べものにならないほど大きくなっている。だから、2025年になったって、そんなもの、支えられないわけがない、と著者は指摘する。

しかも、65歳以上はすべて支えられる人たちである、というのも誤りである。80%~90%の高齢者は、支えられなくても生きていけるし、逆に、社会を支える側に回る能力だってある。

ふむ。私、65歳。確かに、まだ誰にも支えられることなく生きている。だけでなく、ひょっとしたら、生きていることが人様の役に立っているかも知れない。
そうか、歳をとったからって、卑屈になることはないんだ!

というのが、前分に書いてある。

その上で、いまの健康常識、つまり血圧がどれくらいだとやばいとか、脂質の取りすぎはどうだとか、コレステロールは低ければ低いほどいいだとか、メタボはいけないだとか、そういうのは基本的に誤っていることを、数値を持って示してくれる。

私が読み解くところ、いまの健康常識は縦割りにされたいまの医学が生み出した幻想らしいのだ。
脳出血の専門医から見れば、脳出血の原因となる高血圧は治療の対象となる。
心臓の専門医は、虚血性心疾患の原因と見られるコレステロール値を下げようとする。

だが、著者は、

「脳出血では死なないかもしれないが、血圧を薬で引き下げることが他の死因を招かないか。コレステロールを下げることが新しい死因を生み出さないか」

と考える。つまり、医療の目的は、個々の病気を退治することではなく、余命を長引かせることである。その立場から見ると、全く違った健康常識が生まれるのだ。

例えば、コレステロール値が低いと、急激にがんのリスクが高まる。もちろん、コレステロール値が高くなれば虚血性心疾患、脳卒中のリスクは高まる。だが、どの病気が原因であれ、死は1回限りのものである。という見地に立つと、トータルとしての死亡リスクが最も低いのは240~280であることを、著者はデータを元に導き出すのである。
いまの医学界では、総コレステロールの基準値は140~199。

「そんなに低くては、がんになりますぞ」

というのが著者の主張である。

ちなみに、先日の人間ドックで、私の総コレステロール値は222。いまの基準では高すぎるが、それでも低すぎることになる。

といった発見が沢山詰まった本である。

しかも、この方、単純な医学バカではない。

「人間は生まれて二年間は、ほとんどの生活機能に関して両親のケアを受けて育っていく。両親の終末もまた、子供から二年間くらいのケアを受けることは自然である。筆者は何も、血縁者の直接的なケアのみを強調しているのではない。社会的ケアの手段を活用するにしても、情緒的には子供の両親に対するケアがベースになければならないのである。三世代家族の普通であった時代には、両親の終末期を家族のケアにより看取ることができたが、家族形態も変わり、女性の職場進出のためもあって、直接的なケアは社会化せざるを得ないといった風に、具体的事情は年々変化している。そのことの是非を問題にすることは本質論から遠くなる。場合によっては、時代の流れを逆行させようとする反動的な発送にすら陥る議論ともなりかねない。肝要なのは、ケアの形態ではなく、その心のあり方なのである」

親と子という基本的な関係を生物学的にだけではなく、社会学的にもきちんと踏まえ、その上でいまの社会に適合した親子関係のあり方に目を配り、だが、最後は心の持ち方であるという人間の基本に立ち返る。

素晴らしい卓見というほかない。

この先生によると、人間、最後の2年間ぐらいは襁褓(おしめ)をするのが当たり前で、それを恥ずかしがったり、襁褓を当てた老人を蔑んだりするいまの風潮が歪んでいる、ということになる。

そうか、俺もいずれは、胸をはって高齢者用襁褓を身にまとう2年間を過ごすのか。

「ねえ、彼女、俺の襁褓はROEWEだぜ。見てみる? 遠慮すんなよ」

なんて自慢をしながら。ん、ROEWE、襁褓作ってたかな?

ま、それも一興である、と素直に受け入れられる論の進め方をする柴田先生の著書を、しばらく読み継ごうと思っている。