2023
10.09

私と朝日新聞 北海道報道部の20 札幌、我が家のあれこれ

らかす日誌

私は家族を、三重県津市⇒岐阜県岐阜市⇒名古屋市⇒千葉県浦安市⇒横浜市鶴見区⇒札幌市、と連れ歩いた。おかげで長男は幼稚園4つ、小学校3つ、長女は幼稚園2つ、小学校3つ(1、2年を鶴見、3、4年を札幌、5,6年を鶴見)と渡り歩いた。やや安定していたのは次女だけで、札幌で幼稚園に通い、鶴見で小学生になった。

前にも書いたが、私は

「転勤とは、会社の金によるディープな国内旅行」

と割り切っていた。それに、福岡県大牟田市で生まれ育った私は転校したことがない。転入してくる子、転出していく子が何となく羨ましかった。私も転校してみたい。だから、子どもたちに転校の機会を与えてやっているのだ、という気もあった。

だが、家族にとってはどうだったか。

「何いってんだよ。俺、札幌でいじめられたぜ」

と長男が私に語ったのは、ヤツがもうすっかりおじさんになってからの酒の席だった。いじめ? 俺の子が? たまに自宅で顔を合わせる時、誰も暗い顔はしていなかったが。

「偉そうに、横浜弁をしゃべりやがって、って目の敵にされてね。だって、それまで横浜にいたんだからしょうがないじゃないかといっても通じなかった」

そうか、そんなことがあったか。とすれば、長女、次女にもそんなことがあったか? 聞いたことはないが、子どもの世界では陰に陽にありうることだろう。どうやら苦労をかけたらしい。が、こんな親の子に生まれてしまった、と諦めてもらうしかない。

なーに、私だって小学生の時、いじめに遭った。それまで私が取り仕切っていると思っていた教室で、ある日、突然叛乱が起きた。たった1人を除いて、教室の全員が敵に回った。口をきいてくれない。私の支配のどこに遺漏があったのか? などと考えていたら、今頃はもっと人生の機微に通じる人間になっていたかもしれないが、当時の私はそんなに熟成した人間ではなく、

「ふーん、何でかな?」

と思いつつ、たいして辛いとも思わずに日々を過ごしていた。友だちとはいっても、たまたま同じクラスになり、共有する時間が多い問いだけの仲だ。肝胆相照らす親友というわけではない。そいつらに刃向かわれたからといって何のことがあろう。騒いだり焦ったりする必要はない。
というか、どうやら私は感受性の一部がかなり鈍いらしい。

話を元に戻そう。
その長男が

「中学受験したい」

と言い出したことがある。何でも、早稲田実業に行きたいのだそうだ。何故だ、と聞くと

「野球がしたい」

長男は小学年2生から横浜市鶴見区の野球クラブに入っていた。私が札幌に転勤する際、そのチームの監督に

「神奈川県1のキャッチャーに育てるから、息子を置いていけ」

と言われたことは、「グルメに行くばい! 第13回 :グルメ開眼」で書いた。
札幌に転勤して少年野球のチームに入ったが、締まりのない練習に呆れ果ててやめ、月寒小学校のサッカーチームに入り、キーパーをしていたことも、そこに書いた通りである。
それでも、長男の胸には野球への思いがあったらしい。早稲田実業に行きたい。恐らく、甲子園の常連校に進み、甲子園の土を踏むという夢を持っていたのだろう。

「わかった。実力で入試を突破できれば行っていい」

そうは言ったが、さて、中学受験とはいかなるものか。札幌は公立が優勢で、中学受験などという選択肢はほとんどない。ということは、それに備える塾もないということである。恐らく、特殊な学習が必要な私立中学受験(いまなら、瑛汰の受験を手伝ったことである程度理解しているが)を、札幌の地でどう乗り越えたらいいのか?

私は東京出張のついでに、当時評判が高かった四谷大塚(このとろSAPIXに押され、盗撮講師まで出てしまったが)に立ち寄り、テキストだけ買い求めた。札幌に受験塾がないのなら、私が面倒を見るしかないだろう、と思い至ったのだ。

札幌に戻り、そのテキストを見て驚嘆した。難しいのである。たかが中学受験なのに、算数の問題1つとっても、限りなく難解だ。長男に教えるために予習をするのだが、1問解くのに1時間も2時間もかかることがある。

「えーっと、植木算って、木が円形になってつながっている時は木の数と木と木の間の数は一緒で、円形につながっていない時は間の数が1つ少ないのか」

そんな問題を解き始めると、頭が混乱する。考えてみれば、私は中学受験のための勉強なんてしたことがないのだ。私が知っているのは、数学である。現役で受けた大学は数学で失敗したが、どちらかというと数学は得意科目だった。
それなのに、中学受験算数に手こずる。数学と算数は、かなり違う思考形態を必要とすることに気が付いたのは、瑛汰の受験を手伝ってからだった。

そんな私が指導教官なのである。長男の早稲田実業進学は夢のままで終わった。今思い返せば、まったく申し訳ないことである。あの時横浜にいて、それなりの塾に通わせて、長男がみごと早稲田実業の受験をクリアしていたら、彼の人生はどうなっていただろう?

その長男は、4、5歳から始めていたピアノを、札幌でやめた。ピアノの先生と馬が合わなかったのか、それとも小学5,6年にもなると

「こんな女々しいことやってられるかよ」

と思うに至ったのか、聞いたことがないから分からないが、のちに

「ピアノ、続けておけばよかったな」

と彼の口から聞いた。惜しいことである。

長女、次女の娘軍団に関しては、札幌でのこのような鮮烈な記憶はない。「グルメに行くばい! 第13回 :グルメ開眼」程度がせいぜいである。2人がまだ幼く、ある意味人生の分水嶺に差し掛かって選択を迫られる年代に達していなかったからだろう。

付け加えるなら、我がファミリーはよくスキーをした。札幌最初の年はスキー初心者だったからそうでもなかったが、2シーズン目はほとんどの日曜日、スキー場に通った。我がファミリーが気に入っていたのはニセコである。札幌から、スタッドレスタイヤを履いたフォルクスワーゲン・ゴルフで中山峠を越えてニセコ東山スキー場へ。約2時間の道のりである。朝8時に自宅を出れば、到着は10時頃。当時、リフトの半日券があり、午前10時から午後4時まで使えた。1日券の半額ぐらいだったから、それで楽しんだ。午後4時に引き上げれば自宅に着くのは6時。実に都合の良いスキーツアーだった。

いじめがあり、中学受験に対応できない問題もあった。だが総合的にみれば、我がファミリーは札幌の2年を楽しんだのだと思う。もっとも、

「お前、札幌は楽しかった?」

と聞いたことはないから、全員が私と同じ思いであるかどうかは分からないが。