2024-03

朝日ホール・事業本部編

私と朝日新聞 朝日ホール総支配人の4 世界で最も響きが美しい室内楽専用ホール

経理をごまかさず、本当に経費を減らす手法はないものか? あれこれ考えていた私は、1つのことを思いついた。ポスター作りの内製化である。キヤノンも出資するデジキャスにいたことはすでにご...
朝日ホール・事業本部編

私と朝日新聞 朝日ホール総支配人の3 ごまかし決算をやめよう!

人間とは暇をもてあますものである。もてあました暇は、ろくでもないことに使われることが多い。ホールの事務室に毎日通うようになった私は、おおむね暇であった。何しろ、ホール運営なんてやっ...
朝日ホール・事業本部編

私と朝日新聞 朝日ホール総支配人の2 1年間の赤字が11億5000万円だと!

私の前任者をO君といった。経済部の同僚で、あのキヤノンのHa氏と同じ麻布学園の出身。大学は確か一橋である。父は日本経済新聞社の社長を務めた。いわゆる御曹司で、だからだろうか、自らチ...
朝日ホール・事業本部編

私と朝日新聞 朝日ホール総支配人の1 なんで私がホールの支配人に?

朝日ホール総支配人時代の話は、2019年はじめに連載した。よってこれからしばらくは、その時の原稿をコピペで再利用する。読み継いでいただいている読者の方々に2019年の原稿を探す手間...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの18 「らかす」の誕生

本来なら、今回から「朝日ホール総支配人」の話が始まるはずである。だが、今回もタイトルは「デジキャス」となった。私は、朝日ホール総支配人の仕事をしながら、密かにデジキャスの仕事もして...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの17 デジキャス勤務が終わりを迎えた

2004年の終わり頃だったと記憶する。デジキャスに勤務する私に、朝日新聞電子電波メディア局長から電話が来た。すぐにピンと来た。人事異動である、朝日新聞に戻ってこいというのに違いない...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの16 キヤノン組と肝胆相照らした

企業という人の集まりには、所属する構成員を一定の色に染め上げる魔力があるのだろうか? 朝日新聞に長年勤めれば何となく朝日色になり、キヤノンの社員はキヤノン色に、富士通は富士通色に、...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの15 英語の台詞を書き出し始めた

英語の映画の台詞を、英語で書けないか?いったいどうしてそんなことを考え出したのか、よく分からない。何度も書いたように、私は生まれ故郷の福岡県大牟田市の方言と、標準語の双方を操るバイ...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの14 「シネマらかす」あれこれ

デジキャスのHPは毎週1本の原稿をアップすることを原則としていた。このペースが途切れてはいけない。私は常に、原稿のストックを5本持つように心がけた。5本のストックを維持するため、毎...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの13 シネマらかすの書き方について

さて、「シネマらかす」を私はどう書いたか。最初は、映画選びである。もっとも、最初の数本はすぐに決めた。・Let It Be=The Beatlesと同世代である以上、書かざるを得な...
らかす日誌

私と朝日新聞 デジキャスの12 日誌のネタに困ったのです

新聞記者とは、取材をして原稿を書くものである。取材のきっかけは事件、事故の勃発、記者会見、記者クラブに配られた広報資料は当然として、雑談の中でひらめいたインスピレーション、日頃から...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの11 どんな工夫をしたらWeb用の原稿が書けるのか?

さて初期の頃、私はどんな原稿を書いていたのか? それを知ろうと、「らかす日誌」の一番古い原稿を取り出してみた。原稿が多すぎて、最古の原稿に行き着くのに5分ほどかかった。読者の皆様に...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの10 「らかす」の現形が生まれた

デジキャスの内側のことにも触れておこう。初代社長はテレビ朝日のマルチメディア局長だったOさんだった。Oさんと私、それに朝日新聞から来たKo君は開局前からの知り合いである。この事業を...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの9 私は詐欺師にはなりたくなかった

オンエアされたデジキャスのデータ放送を見た瞬間、「これは売ってはいけない商品だ」と思ったことはすでに書いた。自分が売る商品に確信が持てなければ営業は出来ない。口八丁手八丁に頼って粗...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの8 ローカル局の若手たちと親しくなった

デジキャスはBSデジタル・データ放送局であるとともに、データ放送用のコンテンツをBMLという記述言語で制作する制作会社でもあった。BML制作組の棟梁は、キヤノンから来たあのHa氏で...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの7 売らねばならない商品への自信をなくした

日本でBSデジタル放送が始まったのは2000年12月1日午前10時である。その日、私たちデジキャス一同は会社のテレビの前に集まり、固唾を飲んで10時を待った。そのころ、営業局にはス...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの6 私が営業局長に就任した

楽しくて痛いラスベガス出張から帰国した私は、再び営業活動に力を入れた。16枠を売りきらねばならない。デジキャスはBS放送の933チャンネルを使った。ここでデータ放送を流すには、まず...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの5 ラスベガスとモルヒネと腰痛と

死ぬような思いでトイレを出てきた私を、同僚が、手持ちぶさたそうに待っていた。彼は、私を見るなり心配そうな声でいった。「どうしたんだ、えらく青い顔をしているが」   「いや、中でさ、...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの4 ラスベガスで腰痛が悪化した!

なるほど。ああいうのをウンの尽きというのか。私がラスベガスで陥ったみじめな状況を、時間を経て振り返っての感想である。痛い思いをし、苦しみ悶えたのは私自身であったのに、いま思い起こす...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの3 サンノゼに行った

営業に動き回る日々を送っていた2000年4月、私にラスベガス出張の命令が朝日新聞から突然下った。すでにデジキャスの社員になっている私に、朝日新聞が出張命令を出すとは、いったいどうい...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの2 デジキャスの営業担当になった

デジキャスが開局する少し前、私はテレビ朝日から来た社長、Oさんに呼ばれた。「大ちゃん、君はどんな仕事をする?」そうなのだ。デジキャスに記者の仕事はない。さて、私はこのデータ報道局で...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 デジキャスの1 デジキャスが始動した

デジキャス=デジタルキャスト・インターナショナルが生まれたのは、2000年2月3日である。前にも書いたが、日立製作所、富士通、キヤノンが5億円ずつ、さらにエヌ・ティ・ティ移動通信網...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 電子電波メディア局の8 大道さん、あんたはどうなんだ?

私の出向が言い渡される少し前、データ放送会社の社長が決まった。テレビ朝日のO氏である。私と同僚のKo君は、「データ放送に最も詳しいのは我々2人だ。ここはO氏に会い、データ放送の仕組...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 電子電波メディア局の7 電子電波メディア局次長にご意見申し上げた話

マーケットリサーチのチームは、私たち朝日新聞組2人に加えて、テレビ朝日、ABC、名古屋テレビなどからも人が集まり、総勢10人ほどいた。手分けをして約200社の企業を回り、感触を探っ...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 電子電波メディア局の6 ハイビジョンと軍事

デジタルデータ放送局の設立準備。具体的にいえば、そのようなメディアを使いたいという企業が世の中に存在するかどうかを調べることだった。そんな市場が果たして日本にあるのか。市場調査をす...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 電子電波メディア局の5 デジタルデータ放送局に関わった

もうひとつ仕事ができた。デジタル・データ放送局設立の準備である。ご存知の通り、BSデジタル放送が日本で始まったのは2000年12月1日である。この日に向けて朝日新聞は、この電波を利...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 電子電波メディア局の4 系列局の経営分析に取り組んだ

朝日新聞電子電波メディア局のなんとか部長とは、なんと気楽な稼業か、と呆れていらっしゃる方々も多かろう。確かに、ただ役員会議に出席したあとは宴席に連なって酔っていればいい。各局は年に...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 電子電波メディア局の3 テレビ大分と大分の話

テレビ大分に行くには大分空港まで飛行機で飛ぶ。大分空港は国東半島にある。テレビ大分がある大分市までは、別府湾沿いにぐるりと遠回りして車で行くか、ホバークラフトで別府湾を直進するか、...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 電子電波メディア局の2 山口朝日放送に行く

山口朝日放送に行くには、宇部空港で飛行機を降りることになる。宇部市から山口市までは結構距離がある。タクシーで行って会社に請求する手もあったが、何故かバスを使った。確か、どこかで乗り...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 電子電波メディア局の1 琉球朝日放送に行った

さて私は、電子電波メディア局のなんとか部長になった。前回書いたように、与えられた仕事は朝日新聞が出資しているローカルテレビ局を、出資者の立場から管理・監督することである。とはいえ、...
東京経済部編・3回目

私と朝日新聞 3度目の東京経済部の44 ペンを手放す日が来た

経済部におさらばする時がやって来た。記憶を整理すると、1998年ではなかったかと思う。それとも1999年だったか。ある日、経済部長に呼び出しを受けた。勤務時間中に経済部長に呼び出さ...