私と朝日新聞

東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の33 田淵さんに人事の話を聞いた

時間軸を無視して、田渕社長の話を続ける。ある夜回りの日、私はずっと気になっていた人事の話を持ち出した。「副社長のSaさんですが、私の目には、副社長になるような能力の持ち主ではないと...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の32 ミッションを達成した

「大道君、先日はご馳走になったな。今度はこちらがご馳走そうする番だ。いつがいいか?」いつもの夜回りで田渕社長宅に上がり込んでお酒を頂いていたら、田渕社長がそういった。4人で鳳仙花で...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の31 田渕社長と飲み友だちになった

「田渕さん、飲みに行きませんか」と私が初めて誘ったのは、1988年3月だった。この年1月14日から、「週に1回はこの人の顔を見る」という原則を貫き続け、この頃には親しみが増していた...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の30  「長男に会ってやって欲しいんだ」

最初に。昨日書きわすれたことがあった。私は田淵社長に向かって「私はあなたの訃報を書く記者になりたい」といったような気がするのである。経済界の著名人が亡くなると、経済面で評伝を書く。...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の29 「梅原猛は革命家だから好きだ」

野村證券の社長、会長から電話1本で情報が取れる体制を作る。許された時間は3ヵ月。1987年末、そんな難題を課せられた私は、どうすれば課題をクリアできるかを考え続けた。どう考えても、...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の28 野村證券にあいさつに行った

新しい業界、企業を担当する。まず行うべきは、あいさつである。そして、企業を知るにはまず社長を知らねばならない。翌23日、私は野村證券の広報部に足を運び、「今日から証券業界担当になっ...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の27 野村證券の社長、会長に食い込め!

「Tokyo Money」の連載が終了したのは1987年12月21日・日曜日である。札幌から東京に帰任したのが5月。それから8ヵ月の長丁場がやっと終演した。この間、ほとんど休みも取...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の26 長男はスター・ウォーズで英会話を学んだそうだ

そろそろ、私の世界一周の旅も終わりである。ニューヨークで重いスーツケースを引きずりながら歩いた空港がラ・ガーディアだったかジョン・F・ケネディだったかは忘れた。当日、もう一つ忘れて...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の25 CNNはニュースをエンターテインメントにした

東京とニューヨークの時差は13時間である。ニューヨークで6日午後6時の時、東京は7日午前7時ということになる。朝日新聞東京本社はまだ目覚めていない。やっと目覚め始めるのは東京時間午...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の24 ブラックマンデーに飛び込んだ

私がニューヨークに着いたのは1987年10月18日の日曜日である。この日付は明瞭に記憶にある。ニューヨーク証券取引所で株価の大暴落が起きたブラックマンデーの前日だったからだ。ニュー...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の23 ワシントンで体力回復に努めた

米国の首都ワシントンには、経済部の先輩Taさんが特派員としていた。テレビ朝日・ニュースステーションの解説者として活躍した時代もあるから、顔を見れば思い出される方もいらっしゃるかもし...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の22 グランドケイマンでパーパーカンパニーを見た

グランドケイマンで取材に訪れた先は、カナダ・インペリアル銀行(CIBC)ケイマン支店である。これは、記事を引用した方が話が早いだろう。「キューバ島上空を南に突っ切って間もなく、米テ...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の21 グランドケイマンでの亀料理

グランドケイマンに到着したのは夕刻だった。まず、予約してあったホテルにチェックインする。次はお腹を満たさねばならない。メキシコシティから続いていた腹痛は、旅の途中で服用した「ワカ末...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の20 グランドケイマンへの飛行機ですこぶる付きの美女に会った

今回は、激痛を発し続ける腹を抱えて私がグランドケイマンにたどり着くまでの経緯を書かねばならない。そこで「グルメらかす」を見た。いま改めて書き起こすより、こちらの方がはるかに詳しく、...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の19 メキシコの空港で激しい腹痛に襲われたのです

しかし、である。入国の際のゴタゴタから始まって、メキシコは思い出深い国である。メキシコシティ市内でタクシーに乗った。車はあのかぶと虫のような形をしたフォルクスワーゲン・ビートルであ...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の18 メキシコシティで公債局長にインタビューした

メキシコシティを訪れたのも、「キャピタル・フライト」の取材の一環である。そもそも、金が逃げ出す国、メキシコの政府はいったい何をやっているのか? 通貨安を招くキャピタル。フライトにど...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の17 メキシコシティの空港で恐喝された

サンディエゴ空港であんな出来事があったのである。私の旅、無事に済むわけがない。ロサンゼルスの空港から乗った飛行機がメキシコシティに降り立つと、今度は私に災難が襲ってきた。恐喝にあっ...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の16 サンディエゴ空港でのハプニング

サンディエゴからメキシコシティに行くのは、ロサンゼルス経由である。この乗り継ぎ便で一騒動あった。「グルメらかす」からコピペすると、こんな騒ぎであった。乗り継ぎ便の出発予定は午前10...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の15 サンディエゴでは遊んだ記憶しかないのです

サンディエゴでは、国境の検問所を見た。アメリカからメキシコへ、メキシコからアメリカへ、人や車が行き来していた。国境が海の上にある日本では絶対に目に出来ない風景である。東京銀行の方々...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の14 サンディエゴで遊ばせて頂いた

サンディエゴについては、やっぱり「グルメらかす」で書いている。ここも読者の手を患わせることがないよう、コピペで私のサンディエゴをお読み頂こう。サンディエゴは砂漠の仲にできた街だった...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の13 キャピタル・フライト

次の目的地は、アメリカ・サンディエゴである。ここでは「キャピタル・フライト」を取材する。キャピタル・フライトとは、お金がより有利な投資先を求めて国境を出入りすることをいう。サンディ...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の12 ミュージカル

そろそろロンドンを離れなければならない。ロンドン最終回の一部はコピペ、残りは『確か、まだ書いてなかったよな」という組合せにする。思いつくままのオムニバスになるが、お許し頂きたい。コ...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の11 ロンドンの日曜日

ダブリンで1泊した私は、再びロンドンに戻って「プロジェクト金融」の取材を続けた。ロンドンでの滞在は2週間ほどになった。その2度目のロンドン、日曜日に戻ったロンドンを私は次のように書...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の10 ダブリンに足を伸ばした

実は、ここまで書いてきてある障害にぶつかった。私の「Tokyo Money」世界一周の旅は、以前書いた「グルメらかす」で結構書いているのだ。これまでも何度かリンクを張ったり、コピペ...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の9 プロジェクト金融

その頃、東京で膨れあがったお金は国内では使い切れなかった。米国の金融市場、不動産市場に流れ込み、それでも運用し切れなくて海外の大型プロジェクトにも注がれていた。これを「プロジェクト...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の8 ロンドン到着

ロンドンはもちろん初めて足をおろす町である、確か、ヒースロー空港に着いたのだと思う。私は行く先々でトラブルに恵まれるらしく、到着早々の騒ぎは、「グルメに行くばい! 第36回 :番外...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の7 香港での路上ナンパについて

「パンダとクマ」の原稿を仕上げた私には、もう香港に用はない。次の目的地、ロンドンを目指すばかりである。香港を発つ日のドタバタは、「グルメに行くばい! 第35回 :番外編1 香港」に...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の6 同文同種の話

もちろん、香港では買い物ばかりしていたのではない。ちゃんと取材もした。ところが、どんな人に会って、どんな話を聞いたのか、トンと思い出せない。私の記憶はホントに頼りにならない。ただ、...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の5 内外価格差

「Tokyo Money」の旅は、私にとって「内外価格差」の実情を知る旅でもあった。取材が入っていない時間、私は香港のデパートに出かけ、アクアスキュータムが陳列されているコーナーに...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の4 香港・Excelsior Hotel

私が世界一周の旅に出かけたのは1987年9月のことだった。香港からロンドンに向かい、アイルランド・ダブリンへ足を伸ばす。再びロンドンに戻り、取材が終わればアメリカ・サンディエゴ、メ...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の3 バイリンガルの苦労

「Tokyo Money」の連載は7月から始まった。まず2回目が私の担当だった。掲載されたのは7月13日である。タイトルは「東京トライアングル」。東京の兜町、大手町、内幸町を結んだ...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の2 「A級債」⇔「永久債」

「Tokyo Money」はYaさんと私でまとめる連載である。Yaさんは、直前は確か金融担当だった。この企画も、多分彼の提案だったのだろう。私と違ってYaさんは時代を見抜く鋭い目を...
東京経済部編・2回目

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の1 私が国際金融の取材なんて……

東京に戻ってきた。時は1987年5月である。横浜の我が家では長男が公立の中学校1年生となり、娘たちは自宅すぐそばの市立小学校に通い始めていた。長女は5年生、次女は1年生である。1ヵ...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の21 札幌の悪い思い出

妻女殿の両腕の手首か先が真っ白になったのは、札幌で初めて迎えた冬だった。「なんでこんなになるのかしら」「血の巡りが悪いんだよ。もともと血の巡りが悪いだろう? お前」最初はたいして気...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の20 札幌、我が家のあれこれ

私は家族を、三重県津市⇒岐阜県岐阜市⇒名古屋市⇒千葉県浦安市⇒横浜市鶴見区⇒札幌市、と連れ歩いた。おかげで長男は幼稚園4つ、小学校3つ、長女は幼稚園2つ、小学校3つ(1、2年を鶴見...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の19 札幌ジンギスカンのガイド

札幌出身、東京の女子中高一貫校で長く働き、いまは桐生に移り住んでいるMa氏なる友人がいる。定期的に飲み会を催す仲だが、しばらく前に札幌の話になり、「ジンギスカンなら『だるま』だよね...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の18 道東を旅したの2

道東旅行3日目。何事もなくバンガローで目覚めた。手近なもので朝食を済ませると、私たちは車に乗り込んだ。今日の目的地はサロマ湖畔にある民宿である。根室半島の根っこを北東から南西に横切...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の17 道東を旅したの1

夏休みを利用して道東を旅したのは1985年8月である。「旅をしたい」と言い出したのが誰だったかは忘れた。まさか子どもの1人が言い出すはずもないから、私か、あるいは妻女殿だったに違い...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の16 札幌で横浜の博多ラーメンを食べた話

蘇ってくれる記憶に関する限り、札幌での仕事の話は出尽くした。これからしばらく札幌での暮らしをご報告する。札幌ラーメンといえば全国に通用するブランドである。そんなに美味い店ばかりでは...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の15 札幌ア・ラ・カルト

札幌に赴任したサラリーマンは2度泣くといわれる。1度は札幌転勤の辞令が出て「ああ、俺も花の都東京から都落ちか……」と泣く。2度目は「もう東京に戻るのか。もっと札幌にいたいのに……」...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の14 餞別の問題

私に、東京経済部に戻れとの辞令が出たのは1987年3月末か4月頭のことである。この年、統一地方選挙があり、1ヵ月東京帰任が伸びた。子どもの学校があるので家族は3月末に横浜に帰し、私...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の13 仕事のあれこれと不倫の話

札幌での仕事に関することでまだ書いていないことをを思いつくままに拾ってみる。【大晦日勤務】新聞社には1年365日、1日24時間、人がいないことはない。突発する事件、事故への備えであ...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の12 テレビ局に天下れなかった話

人には相性というものがある。北海道にどうしても相性が合わないデスクがいた。社会部から来た I という男だった。酒は一滴も飲めない。だが、部下を引き連れて宴会をするのは好きだったよう...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の11 札幌では風邪をひかず、東京で風邪をひいた話

何度か東京に出張した。そのたびに、人の感覚の不思議さを思った。札幌は大都会だと言われる。しかし、東京から札幌に転勤して、初めて見る札幌の街は田舎じみて見えた。ビルが低い。まだ根雪が...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の10 道内経済面

仕事の話を続けよう。道庁を担当して半年ばかり過ぎたころ、私は「道内経済面」を立ち上げた。上からの要請だった。1985年、日本経済がバブルに突っ込もうとしていた時期である。これからは...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の9 「お車代」を押しつけられた話

まだ道庁担当だったから、札幌赴任から半年もたっていない時のことである。北海道の自民党が集会を開いた。そんなもの、記事になるはずはないのだが、なぜか記者クラブに案内が来た。記者席を用...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の8 厳冬の峠道

あれは選挙の取材だった。季節は真冬。厳寒期の2月だったと思う。私は池田ワインで有名な池田町に取材に行く必要ができた。取材先に電話を入れる。明日の朝来てくれという。よかった。締め切り...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の7 炭鉱の閉山が相次いだ

私が札幌にいた1985年から87年という時期、北海道は不況のどん底にあった。造船が振るわない。製鐵がダメ。石炭はエネルギー源の王の座から追い払われて長く、林業も不振。「道内経済を立...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の6 耳の穴にウイスキーを注ぎ込まれたヤツがいた

Muの話を続ける。ある朝、Muは私の顔を見るなりいった。「Ma、あいつはひどいヤツだよ」聞けば、前夜、彼らは札幌の繁華街、すすきのに飲みに出た。かなり酔ったMuがソファで横になって...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の5 衆参同日選の惨劇

前回ご登場いただいた、政治部から来たデスクをMuという。私の着任時は、政治部から来たデスクはFuさんであった。ところが、1986年の衆参同日選挙が確実になったころ、北海道支社の編集...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の4 自民党道連からクレームが来た

横路知事がらみのの話を続ける。1987年、横路知事は再選を目指して道知事選に立った。私は知事選取材グループに編入された。まず、必要なのは情勢判断である。札幌市内を取材して回る。その...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の3 函館にて

横路知事に同行して、函館に行ったことがある。知事が函館の若手経営者と懇談する。その会合は公開で行うので取材をどうぞ、というわけだ。札幌から函館への移動は国鉄を利用した。さて皆さん、...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の2 一村一品運動

実は、札幌以降のことはほとんど記憶に頼るしかない。そのころから自分で書いた記事の切り抜きをサボり始めたからだ。そのため、時系列が頭の中で混乱している。よって、これからはエピソード主...
北海道報道部編

私と朝日新聞 北海道報道部の1 ああ、札幌

札幌のことは、「グルメらかす」で書いたことがある。これからの記述は、あの時書いたこととダブることになる。であれば、わざわざ「グルメらかす」に飛んで頂く手間を省くため、あの時の原稿を...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の19 タートルネックが目をつけられた

ほぼ週1のペースで柔道を楽しみ、時にはおかしな釣りに出かけ、取材をして特ダネで1面トップを飾る。考えてみれば、東京本社で発行する朝刊は1年間で360ほど(休刊日が増えたから、よく分...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の18 国と地方の上下関係を如実に見て、でも記事にできなかった話

役所内を廊下トンビする。官庁担当記者の毎日である。聞き出したい話を持っている官僚氏、暇そうな官僚氏のそばへ寄って取材をしたり、雑談をしたりする。雑談は大切で、滅多にないことだが、相...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の17 私の記事、朝日新聞の紙面で褒められていました

建設省担当時代を思い出すため、当時の切り抜きを見ていて、1つの記事が目にとまった。「デスク手帳」とあるから、私が書いた記事ではない。それなのに、何故私のスクラップ帳にある?不信に思...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の16 吉永小百合さんと昼飯を食った話

新聞記者にも、ほんのちょっとした役得はある。私が経験した役得は、どうでもいいような会話から始まった。2×4工法の住宅で著名な三井ホームは私の担当企業だった。当時、三井ホームは、コマ...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の15 入社試験用作文の指導をした

私を柔道に引きずり込んだ I さんは面倒見のいい先輩だった。恐らく人脈も広く、早稲田大学の後輩たちとの付き合いもあったのではないか。ある日、1人の早大生が建設省の記者クラブに I ...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の14 キーボードにミスタッチをしても地球は爆発しない!

建設省には省内誌があった。誌名は忘れたが、そこから声がかかった。「大道さん、何か原稿を書いて下さい」建設省は取材先である。むげに断るわけにはいかない。だからとりあえずは引き受けたも...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の13 お上意識

土地・住宅問題に関わる記事を沢山書いたからだろうか、住宅局の官僚諸氏とはすっかり仲良くなった。廊下トンビをしていても気が楽である。「大道さん、ちょうどいいところに来た。ちょっと寄っ...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の12 大道なら記事にしてくれるのではないか?

さて、そろそろ仕事の話に移ろう。住宅問題は社会問題であるだけでなく、相変わらず私の個人的問題でもあった。晴れの東京勤務になった。であれば首都圏に家を持ちたい。だが、給与明細書を見れ...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の11 建設省の担当になって柔道を再開した話

通産省を1年担当すると、私は建設省担当を命じられた。それまで経済部に建設省担当はいなかったが、何故か私が露払いを命じられた。通産省は担当記者は3人だったが、建設省を担当する経済記者...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の10 天下りをしない官僚

Saさんは私が通産省担当になった当時、貿易局総務課の課長補佐だった。東大卒が掃いて捨てるほどいる通産省で、珍しく京都大学法学部出身。大学3年で司法試験に合格した。羨ましくなるほどの...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の9 釣り仲間

「東京経済部の3 またまた引っ越しました」で書いたように、のちに横浜市鶴見区の義父の敷地に家を建てる私であるが、通産省担当のころはそんなことは考えてもみなかった。もっぱら「首都圏で...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の8 バッティング

通産省担当になって、夜回り取材はほぼ習慣となっていた。昼間は通産省内を廊下トンビして取材(議論も含めて)し、記者会見に出て原稿を書いてFAXで経済部に送り、夜になれば近場で軽く酒を...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の7 IBM産業スパイ事件

とんでもない事件が起きたのは、私が通産省担当になって3ヶ月もたたない1982年6月のことだった。何でも、日立製作所と三菱電機の社員が、IBMに対して産業スパイを働き、逮捕されたとい...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の6 方針原稿

さて、私は通産省担当としてどんな仕事をしたのか。スクラップをめくると、マクロ経済の動き、その中での通産省の役割などほとんど知るはずもない私でもそこそこ記事は書いていたようだ。その程...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の5 質問をしろ!

「大道君、君は記者会見で質問してるかね」夜の遅い時間、会社の経済部に顔を出した私に話しかけたのは、Haデスクだった。何でも私の大学の先輩だと、誰かに聞いたことがある。驚いたことに、...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の4 通産大臣たち

私が通産省担当になった1982年4月、時の首相は鈴木善幸氏だった。通産大臣は安倍晋太郎氏である。凶弾に倒れた安倍晋三の父だ。聞くところによると、安倍通産相は元毎日新聞の記者だった。...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の3 またまた引っ越しました

ちょっと脇道に逸れる。私の住まいである。浦安に引っ越した我がファミリーは、しばしば横浜市鶴見区にある妻女殿の実家を訪ねるようになった。名古屋時代は年に数回だったが、いまは1時間も車...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の2 通産省という役所

東京経済部で最初の担当は通商産業省(現経済産業省)であった。2度の石油危機を乗り越えて、日本経済は目覚ましく成長していた。Notorious Miti(Ministry of In...
東京経済部編・1回目

私と朝日新聞 東京経済部の1 浦安というところ

前回、「一路東京を目指した」と書いたが、実際に目指したのは東京を通り抜けた浦安市である。転居先は朝日新聞の社員寮で、当時、浦安にある公団のマンションの部屋を新聞社で借り上げ、家族持...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の26 加藤さんの話

名古屋を離れる前に、どうしても触れておきたい人がいる。スーパー、ユニーの広報室長だった加藤さんである。もとは老舗百貨店、オリエンタル中村の専務取締役だった。業績不振に陥って三越に買...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の25 血の気が引いた話

一瞬にして血の気が引く経験など、そう滅多にあるものではない。私が真っ青になったのは1982年3月8日のことである。その頃私はすでに東京経済部への転勤が決まり、日本の中枢で仕事をする...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の24 特ダネ街道

工販合併へ、のl記事を書いたころ、私は絶好調だったようである。その話も、工販合併の話を少しでも煮詰めようと、トヨタ系列の部品メーカーの幹部に時間をとってもらい、話を伺っている間に転...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の23 余震はまだまだ続いた

余震は、それからも続く。まず、日本経済新聞のトヨタ担当記者が1人から4人に増えた。記者会見場、パーティ会場、トヨタの首脳が顔を見せるあらゆる場所で、4人の少年探偵団(当時、日経の記...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の22 特ダネとその波紋

新聞には「早版交換」という習慣がある。印刷所から遠いところに届ける新聞を早版という。早く送り出さねばならないので、締め切りが早く、刷り上がりも早い。この新聞を各社で交換する。だから...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の21 「両社長の談話をとって来い」

名古屋本社経済部でデスクと顔を合わせたのは昼過ぎだったろうか。「それで、大道。詳しい話を教えろ」取材の細部まで説明した。「ということは、聞き出せたのは分かれているメリットがもうなく...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の20 分かれているメリットがもうなくなった。

東京での宿は、今回も横浜の妻女殿の実家である。ここに泊まれば出張費が浮くのだから、これはやめられない。だが、東京に着いてすぐに私が向かったのは朝日新聞東京本社だった。妻女殿の実家に...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の19 悲壮な覚悟

12月に入った。取材は遅々として進まない。いや、遅々でもいい。少しでも進んでくれればなにがしかの手応えはあっただろう。現実には、これほど取材を重ねても、相変わらず私はスタート地点に...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の18 ブランデーに酔い痴れてしまった

新聞記者は足で稼ぐ、といわれる。机の前に座っていてもネタは集まらない。とにかく歩く。歩いて人に会う。それが記者の「A」であり「Z」である、という教えである。私は工販合併の取材でずい...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の17 工販分離のメリット

トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売は合併するのか、しないのか。そういえば、記者連中の間では合併熱が盛り上がっていた。新車の発表会、中間決算の発表会など、トヨタの記者会見があるたびに...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の16 工販が合併するって?!

「ねえ、大ちゃん」私は余程親しみ易い性格らしい。大道君、という人もいたが、少し親しくなると「大ちゃん」と呼ばれた。トヨタ自動車販売の広報課長氏も、「大ちゃん」組である。「工販合併の...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の15 東京モーターショー

10月30日、第24回東京モーターショーが東京・晴海で始まった。トヨタ担当は、自動車ショーは見に行くことになっている。私なんぞ、見ても「へえ、こんなスタイルの車が近々出るのか」程度...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の14 幻のセラミックエンジン

前回、記者は記事を「書かされる」と書いた。情報源と読者を繋ぐのがメディアである以上、それは避けられないことである。警察の広報はいかに自分の組織が手柄を上げたかをメディアを通じて国民...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の13 トヨタ自動車という会社

トヨタ担当は、トヨタ自動車だけを取材するのではない。デンソーなどトヨタグループの会社も取材対象だし、東海地方の製造業はすべて私の担当だった。だから、記事はよく書いた。というか、次か...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の12 私がトヨタ自動車の担当になった

名古屋経済部で最重要とされる仕事はトヨタ自動車担当である。ほかの企業ニュースは名古屋圏ローカルで報道されることがほとんどだが、トヨタの一挙手一投足は全国的な関心事となる。そのため、...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の11 本が読めない

本が読めない、と自分で自分に驚いたのは名古屋経済部に行ってからである。企業の決算書を理解したくて入門書を読み始め、まったく頭に知識が流れ込んでこないことに愕然とした話は前に書いた。...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の10 ソアラという車

1981年、トヨタ自動車工業は高給クーペ「ソアラ」を発売した。「ソアラ」はトヨタとしては画期的な車だった。それまでトヨタは、コスト重視の車作りを続けてきた。車毎にマーケティングで店...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の9 正月の災難・朝日新聞についての新しい知見

松本部長が東京経済部長に転出した。栄転である。代わりにKa氏が名古屋経済部長として着任した。あれはKa氏の着任早々だったと思う。NHKが夜7時のニュースで、トヨタ自動車工業と米・フ...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の8 東海銀行の事件

1年ほどで私は流通、証券、東海のくらし担当から金融担当となった。銀行が取材先である。そのころ名古屋には、都市銀行の東海銀行があり、地方銀行、相互銀行があった。それがすべて私の担当と...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の7 さて、私が経済記者ねえ……

松本経済部長は時折、記者クラブに私を訪ねてくれた。あれほど経済部を嫌っていた男のその後が気になっていたのだろう。すぐ近くの喫茶店で話をした。「どうかね、仕事は」といった当たり障りの...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の6 中内㓛さん

ある日、スーパー、ダイエーの創業者、中内㓛さんにお目にかかるために神戸の本社まで出かけた。名古屋の経済記者である私の担当範囲はダイエーにまでは及んでいない。出かけたのは、ダイエーの...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の5 私のヒラ時代

名古屋本社経済部で「私のヒラ時代」という連載が始まったのは、確か1980年の春ごろではなかったか。いまは会長、社長、専務、常務、取締役とサラリーマンとしての出世を極めている人たちも...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の4 オリエンタル中村百貨店

もう解散してしまったが、「憂歌団」というブルースバンドがあった。まだ津支局にいたころ、町の若者たちが「本物のブルースを聴きたい!」とこのバンドを津に招き、自力でコンサートを開いた。...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の3 東海のくらし

私が書くことになった生活情報は「東海のくらし」といった。毎週月曜日の朝刊に掲載された。野菜、果物、鮮魚、肉・卵について、その週の価格見通しを書く。食料価格の予想? そんなこと、駆け...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の2 知恵熱

自宅から会社に直接出勤したのは初日だけである。翌日からは会社には行かず、直接取材先、あるいはたまり場に行く。それが新聞記者の生態である。名古屋初のたまり場は名古屋の繁華街、栄にある...
名古屋経済部編・1回目

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の1 取材先はお年寄りばかり……

名古屋で住まったのは東名高速名古屋インターからほど近い千種区星ヶ丘の朝日新聞借り上げ住宅だった。5階建てのマンション(アパート?)の1階端の部屋で、近くに三越星ヶ丘店(当時はオリエ...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の28 私は岐阜が大好きでした。

「松本さんから電話があったわよ」夜10時半頃帰宅すると、妻女殿がそういった。1978年の暮れか79年はじめのことである。松本さん? つい5分か10分前まで、支局で松本デスクと一緒だ...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の27 無理編にげんこつ

岐阜支局の上司の話を書き留めておきたい。支局長は足立健夫さんといった。私たちは「健夫」を「たけお」とは読まず、「けんぷ」と読んだ。それだけ支局員に愛された支局長だった。ふだんはボー...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の26 ゆりかご幼稚園

岐阜に転勤した1978年4月、長男が幼稚園入園の年齢に達した。その2歳下には長女がおり、子どもの成長、妻女殿の負担軽減、両方の目的から、長男を3年保育の幼稚園に通わせることにした。...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の25 改めて近藤先生

「憲法特集」で知り合った近藤宏先生には、本当にお世話になった。近藤先生は教壇に立つ傍ら、岐阜県内の教育界に限らず、様々な市民の文化活動前支援するネットワークを張りめぐらし、「こうし...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の24 子ども見つけた、の13 黄色い帽子

黄色い帽子 義務化に反対“デモ”  話し合いの末やっと納得岐阜市岩野田小学校。校下に団地が増え、一時は児童の交通事故が目立った。そこで学校は、52年度から、全児童に黄色い帽子の着用...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の23 子ども見つけた、の12 みそ汁

みそ汁 責任持ち家事分担  体験通じ親子にきずな美濃市洲原小学校に「力いっぱい働く10日間」というのがある。春は校内、秋は家庭。いってみれば「働かざる者食うべからず」の体験だ。子ど...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の22 子ども見つけた、の11 秘密

秘密 自発的に月を観測  先生の休んだ日に相談11月17日朝。前の日、頭痛で休んだ畑中世理子先生(48)は、子どもたちの顔を見るのを楽しみに、3年2組の教室に向かった。古い校舎の2...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の21 子ども見つけた、の10 背筋力よいしょ

背筋力よいしょ 目立つ異常な低下  町ぐるみで強化運動に上矢作の町を歩けば、たちまち「背筋力」ということばにぶつかる。「ハイキンリョク」と保育園児が口ずさむ。それは過疎の山村の“流...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の20 子ども見つけた、の9 どろんこ大作戦

どろんこ大作戦 砂だんご割りっこ  “新技術”開発し夢中に先生も、上級生も、見たことさえない遊びだ。岐阜市島小学校で、放課後になると、ほとんどの2年生が、運動場で砂だんごを作ってい...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の19 子ども見つけた、の8 スイカ

スイカ つくれたぞ! 70個  畝から自分たちで世話この秋、羽島市小熊小学校の尾内弘美先生(44)は体をこわし、ずっと自宅療養を続けていた。学校に行けばいやでも目に飛び込んでくるヤ...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の18 子ども見つけた、の7 悲しみの砦

悲しみの砦 朝鮮の人を考える  強制連行の悲劇を劇化学校へ行くときや学校から帰るとき、いつも朝鮮学校の人を団体で見かける。文化祭前の私なら、怖がって小走りに家に帰っただろう。けど、...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の17 子ども見つけた、の6 事件

事件 他人の痛み知った  作文や話し合いが効果この冬のある日、中津川市南小学校5年1部(組)で、算数の授業が始まっていた。「4÷12=」と黒板にある。小木曽正夫先生(48)がいった...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の16 子ども見つけた、の5 ミルクまつり

ミルクまつり 飲めたぞバンザイ  苦手克服、学業にも自信岐阜市鷺山小学校の市原昇先生(53)は3年前、あの子たちと出会って、それまでの教師としての信念が、はっきりした確信に変わった...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の15 子ども見つけた、の4 二世誕生

二世誕生 蚕の生命力に感動  発表したい子が目白押し小さな紙箱の中で、針先ほどの黒い虫が桑の葉をモリモリ食べている。ふ化して4日目のケゴ(毛蚕)。蚕の幼虫だ。「すげえ。ちびのくせに...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の14 子ども見つけた、の3 ヒマワリ

ヒマワリ 感動が生んだ自信  野外学習がきっかけに哲也君は高山市南小学校の2年生。学校にも慣れたはずなのに、つい最近まで何となく元気がなかった。遊ぶのでもなく、何かに熱中している様...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の13 子ども見つけた、の2 乗車拒否

乗車拒否 1時間の通学大行進  「運動ぐつ、いいとこ2ヶ月ね」道端にそびえる大イチョウ。その下が、子どもたちの、朝のサロンになる。恵那山系の頂が赤みを帯びるころ、みんなやってくる。...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の12 子ども見つけたの1

「大道君、ちょっと」と松本デスクに呼ばれたのは1978年10月の終わりか11月のはじめだったはずだ。何事だろう、と寄っていくと「来年の新年企画ね、君にやって欲しいんだ」新年企画とは...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の11 写真が……。

忘れられない選挙報道がある。1979年春の岐阜県恵那郡上矢作町(現在は恵那市上矢作町)の町長選挙である。選挙になったのは、前町長が2月に急死したためだった。これを受けて、「保革連合...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の10 しつこいようだが、また長良川河口堰

どこかに行ってしまったと思っていた記事が見付かった。「岐阜支局の7」で書いた「比較的長文の解説」。そうそう、上京してきた後輩記者が持ってきたというアレである。懐かしくて読み返してい...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の9 徳山ダム問題で予期せぬ特ダネを書いたこと

私は、徳山ダム問題の長い歴史の中の、たった1年しか担当していない。その1年の間に、徳山村はダム建設同意へ舵を切った。増山たづ子さんをふくむ徳山村の方々には辛い決断だったに違いない。...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の8 徳山ダム—増山たづ子さんのこと

私の岐阜時代を書くのなら、徳山ダムを避けては通れない。何しろ、岐阜への転勤が決まった後、「砦に拠る」(松下竜一著)を購入し、熟読した私である。すっかり感銘して「豆腐屋の四季」「風成...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の7 長良川河口堰訴訟

岐阜ではもう1つ、大きな裁判を担当した。長良川河口堰訴訟である。治水、利水を目的に、長良川の河口に大きな堰を作ると水資源開発公団が計画し、住民が「堰は作らせない!」と立ち上がった裁...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の6 治水はできるのか

私が津市で「なんという頓馬なテレビ記者がいたものか」とあきれた長良川の水害は、被害を受けた住民が国を相手の訴訟を起こした。国の河川管理の欠陥が水害の原因である、という主張である。思...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の5 拝啓 上松知事ドノ

1978年秋、岐阜県は県の事業に反対する住民を警察を使って排除し、事業を開始した。あらましはこうである。県は各務原市の木曽川右岸に流域下水道終末処理場の建設を計画した。広域から下水...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の4 県立高校入試問題が漏れた

浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじと宣うたのは、確か石川五右衛門だった。泥棒だけでなく、世の中には犯罪の種が尽きない。岐阜県で、1978年度の県立高校入学試験問題が漏れると...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の3 憲法特集

「大道君、ちょっと」とデスクに呼ばれたのは4月半ばだった。デスク、名を松本行博さんといった。私が津支局で交通事故撲滅キャンペーンをやったとき参考にした「企業都市」の取材チームの一員...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局2 長良川は溢れるか

PANTAが死んだ。頭脳警察のPANTAが身罷った。横浜の我が家に遊びに来たPANTAが消え去った。ビートルズのコピーをしようかと思っているというPANTAに、海賊盤を数十枚あげた...
岐阜支局編

私と朝日新聞 岐阜支局の1 不安だったのです。

私が岐阜支局に転勤したのは1978年4月のことだった。まだ津に在任中の1976年9月、長良川が氾濫した。私にとっては遠隔の地での出来事に過ぎず、私が岐阜に転勤してこの水害の裁判を自...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の21 社員差別問題

津支局の最後は、ちょっと良くて、あとで悪くなった話である。私が入社するずっと前、朝日新聞記者には2つの階級があった。入社試験を受けて正規入社した記者(確か、練習生とかいった)と、入...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の20 津支局で起きたラッダイト運動

前にも書いたように、私が入社した頃の原稿用紙は、巻きが小さくなって輪転機にかからなくなった新聞用紙を葉書大に切りそろえ、上辺を糊で止めたものだった。これに1枚15字ずつ書く。最初は...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の19 支局長の人格

そろそろ津市を去る時が迫ってきた。しかし、その前にあと3つだけ書いておきたいことがある。今日はそのうちのひとつ、M支局長についてである。私は津支局に3年半いた。その間、支局長は替わ...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の18 三重県と原爆

1年間の三重県警担当を離れた私は、市政担当となった。事件・事故の取材も、その背景まで視野を広げれば社会的に意味がある記事にできたのかもしれない。だが、お巡りさんの間を駆け巡って事件...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の17 恥ずかしいキャンペーン

いま横浜に来ている。この連載の参考にしようと昔の切り抜きを引っ張り出した。私が記者として初めて書いた記事が出てきた。日付は1974年9月7日。記者になって4日目だ。乗用車とバイク衝...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の16 佐々淳行本部長

私が三重県警を担当した時、県警本部長は佐々淳行さんだった。警察庁のキャリア組で、普通なら三重県あたりの県警本部長になる人ではない。たまたま1975年、三重県で国体が開かれ、まだ過激...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の15 飲酒運転

警察取材の華は汚職事件だろう。政治家、実業家、高級官僚など日頃権勢をふるって偉そうな顔をしているヤツらがお縄になる。東京五輪汚職でもそうだったが、そんな連中が捕まると胸がスッとする...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の14 女子高生売春

三重県警を担当したのはちょうど1年間だった。この間の記憶は甚だ曖昧である。特に時間の前後関係がよくわからない。そのため、頭に浮かんだエピソードを前後不同で紹介する。「先日ガサを入れ...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の13 線路のボルトが抜かれた。

久しぶりに三重県警の記者クラブに戻って数日後のことだったと記憶する。愛知県と三重県の県境あたりで鉄道の線路からボルトを抜き去る事件が起きた。どこかの新聞(読売、だったか?)が特ダネ...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の12 高校野球の夏

津での署回りは1年半で卒業した。次は三重県警担当である。新聞記者2年生になった私は、同時に高校野球担当も命じられた。県警を取材しながら夏の甲子園大会に向けた三重県予選を全部取り仕切...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の11 暇ネタの話

署回りとは、事件、事故を追いかけていれば済む仕事ではない。そもそも地方都市の津市、久居市で大きな事件・事故が発生する頻度は低い。では、暇な時には何をするのか。読書にいそしんでもよい...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の10 入社式・新人研修

入社から7ヶ月たって、1975年度の入社式と新人研修があり、私も参加した。その年、朝日新聞に記者職で入ったのはわずか23人。この年も5000人から6000人は受験したはずだし、例年...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の9 記者とは不届きな輩である。

署回り担当とは、管内で発生する事件、事故を取材して原稿にする仕事である。つまり、事件、事故が飯の種なのだ。憧れてなった記者である。できれば原稿は沢山書きたい。自分の書いた記事が活字...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の8 支局生活

私が麻雀という遊びを覚えたのは津支局に行ってからである。大学時代に覚えたという人が多いようだが、私の学生生活にはそんな遊びをしている時間はなかった。日々の暮らしのためにアルバイトに...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の7 子どもと遊ぶ

津で私は1度引っ越しをしている。最初に入ったのは、支局のHデスクが事前に探してくれていた部屋だった。台所と4畳半、6畳が一直線に並んで狭い。玄関を開けると向こうの端まで全部見えてし...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の6 泥棒

ある日、津市の我が家に泥棒が入った。当時は3DKのアパート住まいだった。2階で、玄関を入るとダイニングキッチン、右に一部屋、ダイニングから奥に入ると6畳が2間。ダイニング右の一部屋...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の5 恐るべきライバル

ある日、津署内をぶらついていたら署長室のドアが開いた。顔を出した署長が私を見て「大道君、ちょっと来ないかね」と招いた。何だ? 何故俺が署長に呼ばれる?署長とは酒を酌み交わしたことも...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の4 レーダー探知機

初めて「特ダネ」というものを書いたのは、津で署回りを始めてしばらくしてからだった。まだ支局のランドクルーザーに乗っていたから、記者になって1ヶ月前後のことだと思う。苦手だったお巡り...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の3 あんた、何学部?

人は変わる。誰でも変わる。それを進歩というか、堕落というかは評価する人の自由である。そして、私も変わった。あれほど毛嫌いしていたお巡りさんと、何となく仲良くなりはじめたのである。い...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の2 大丈夫か、お前。本当に新聞記者なんかになれるのか? うぅぅぅ……。

研修最終日の夜、名古屋本社で I 社会部長たち数人が壮行会を開いてくれた記憶がある。立ったまま、乾き物を食べながらビールを飲む程度の簡単なものだったが、何故か覚えている。I社会部長...
津支局編

私と朝日新聞 津支局の1 名古屋本社で即席研修を受けました。

私の大学には、マスコミ学科などなかった。あったとしても、そもそも弁護士志望だった私が選んでいるはずはない。これまで学生であり、サラリーマンだった男に、突然新聞記者が務まるはずはない...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 入社試験の6 9月1日に繰り上げ入社となりました。

西鉄を7月31日付で退職した。8月9日、横浜市の妻女殿の実家に近い産院で長男が誕生した。すでに無職の身になっていた私は、産院のかたい椅子で、その瞬間を待った。「初産なので、ちょっと...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 入社試験の5 合格通知が思わぬ事態を招いた。

朝日新聞社から合格通知が届いたのは7月20日過ぎだった。2次試験で手応えを感じていたとはいえ、「これで俺は新聞記者だ!」と心から嬉しかった。2回目の受験の際、朝日新聞から新入社員募...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 入社試験の4 fake information

私は単に頭がいいのか、狡猾と評した方が適切なのか、あるいは一言の元に狡い、陰険と切って捨てた方がいいのか。大卒者の採用を決めるペーパーテストを作成せよ、ととんでもない課題を与えられ...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 入社試験の3 大卒採用担当に

実に困ったタイミングでの懐妊騒ぎである。思わず、「ホントかよ?!」とつぶやいてしまったのは私の本音であった。私は朝日新聞の記者になろうと決めた。ところがその年の入社試験に落ちてしま...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 入社試験の2 40数日の戦い

昨日までは落ちることしか考えていなかった入社試験を、今日からは乗り越えるべき目標にする。ゼロからの出発とはこんなことをいうのだろう。入社試験の1次は一般常識と英語、それに作文だとい...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 入社試験の1 若さ=馬鹿さ、である。

結婚生活が始まった。同時に朝日新聞の受験準備も進んだ。とはいえ、落ちるのを目的にした受験である。下手に一般常識や作文力、英語の読解能力を高めたら、入社試験に通ってしまう恐れがある。...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の12 不合格志願

困り果てた。私は朝日新聞の記者などになる気は全くない。しかし、私を朝日派米少年に押し込んでくれたことを始め、飛永さんには大恩がある。その飛永さんを裏切るわけには行かない。二律背反。...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の11 朝日新聞もよかばい!

「私たちの仲人をしていただけませんか?」当時、後の妻女殿は卒業を間近に控えた大学4年生、私は大学3年生である(なぜか、年齢は私が1歳上)。そんな2人の依頼を飛永さんはどう受け止めら...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の10 来ちゃったんです!

.岩国での大工仕事を終えて福岡に帰ってしばらくしたら、「ほびっと」で私に住所、氏名を書かせた横浜の女性からも手紙が来た。「ほびっと」における私はそこそこ人気者で、私に手紙をよこした...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の9 出会っちゃったのです

たまたま今日、岡林信康の「金色のライオン」というアルバムを聴いていたら、「ホビット」という曲が流れ出した。♪ホビットにいくのは死んでももう嫌だホビットにいくのは死んでももう嫌だ誰で...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の8 ほびっとへ

私が通った大学は、最初の1年半を教養部で過ごし、2学年の後半から専門課程(私の場合は法学部)に進むシステムだった。そして私にも、専門課程に進む時期が近づいてきた。弁護士になるには法...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の7 裁判所にデモに行った

入学した途端に始まった全学バリケードストライキは半年後に機動隊の導入でバリケードが撤去され、形だけは平穏な学園が戻った。しかし、バリケードを解かれたぐらいで一度燃え上がった火が消え...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の6 学生運動

私は塾や予備校に通ったことがない。我が家の家計がそれを許さなかった。それに、塾に行かなくても別に痛痒は感じなかった。だって、受験勉強って、自分でやるしかない物だろ?話は逸れるが、朝...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の5 大学受験に失敗

失敗した。現役での大学受験に失敗した。1968年3月、私はとある国立大学を受験した。高校の担任からは「お前、いまの成績では志望校は無理だと思うぞ」と何度か忠告を受けた。しかし、私は...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の4 弁護士になろう

4年少々続けた朝日新聞の配達を、中学卒業と同時に辞めた。流石に高校では、新聞配達をしながら学業をするのは難しかろう、と考えた。もっとも、中学時代はほとんど自宅学習をしたことがない。...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の3 初めての原稿

「さて君たち、これから新聞の原稿を書いてもらう。故郷の皆さんに、君たちがアメリカでどんな体験しているかを知っていただくのだから、念を入れて書きなさいよ」我々10人を引率していた長谷...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の2 朝日派米少年

大牟田市の朝日新聞販売店は飛永和成さんという社長が取り仕切っていた。市内に数店の支店を持ち、私が務めることになったのはその支店の1つである。朝刊を配るには午前4時半、夕刊を配達する...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 記者以前の1 ファーストコンタクト

さて、いよいよ過去への旅を始めよう。私と朝日新聞の出会いは62年前に遡る。当時私は11歳、大牟田市立平原小学校の5年生だった。その年12月、私は新聞配達を始めたのである。我が家は貧...
私と朝日新聞

私と朝日新聞 前書き

しばらく原稿をサボっていたら、刺繍作家の大澤紀代美さんからショートメールを頂いた。「お体、大丈夫ですか? ラカスが大分ご無沙汰なので…」大澤さん、「ラカス」ではありません。「らかす...