11.06
2008年11月6日 私と暮らした車たち・その8 ゴルフの1
こうして私は、近くにあったヤナセの販売店に足を運んだ。ビートルの修理を依頼したところである。転勤に伴って、私と私の家族を東京まで運ぶ車を選ぶのが目的だ。東京への移動日は、もう数日後に迫っていた。
「というわけで、新車って選択肢はなかったんだよ。新車だと納車まで時間がかかる。それを待っていては東京まで移動できないからね。中古車だとすぐに乗れるだろ?」
後に私は、知人に対してそんな話をすることになる。
これは、確かに真実の一半ではある。だが、真実のすべてではない。真実には残りの半分があった。これまで語られることはなかったが、我が家の経済的事情である。
なにしろ、小学1年生を頭に3人の子どもがいた。うち2人はピアノを習い、水泳教室にも通っていた。とにかく子育てとは金がかかるものである。あまり金がかからなかったのは、生まれたばかりでピーピー泣いていた次女だけである。
新車を買う経済的ゆとりなど、我が家には皆無であった。いや、新車どころか中古車を買う蓄えもなかった。それなのに、ビートルが不慮の事故で逝っちゃったのだ。が、車は必要だ。妻の父に借金せざるを得なかった。
という事情を抱えながら、中古車展示場に足を運んだ。とにかく時間がない。ここに展示中の在庫車から選ぶしかない。
ビートルはなかった。これで続けてビートルに乗る可能性はなくなった。
では?
ゴルフしかなかった。
フォルクスワーゲンビートルは、あのヒトラーの命令でフェルディナンド・ポルシェ博士が開発した世界の名車である。1938年に量産が始まり、ドイツ本国では1978年まで作り続けられた(メキシコでは2003年まで続く)。無論、その間に何度もモデルチェンジされたはずである。だが、基本設計は同じだ。車内の狭さや、「旅らかす 中欧編 III : なぜか、ワーゲン」でも書いた高速走行時の不安定さが1960年代から問題となる。ワーゲン社は何度も後継車種を開発するのだが、どれもあたらない。ユーザーはやっぱり、多少の不便さを我慢してでもビートルを選ぶ。
ビートルが名車過ぎたのである。
こうして、一時は経営危機にまで陥りかけたワーゲン社が、やっとビートルの後継として市場に受け入れられる車を開発した。1974年に出したゴルフだった。ゴルフは、ビートルの栄光を受け継ぐ車なのである。
(余談)
メキシコ、と書いてメキシコシティに行った時のこと(詳しくは、「グルメらかす 第 41回 番外編07 メキシコ入国 」「グルメらかす 第 42回 番外編08 メキシコシティ 」をご参照頂きたい)を思い出した。街を走っているタクシーのほとんどが、フォルクスワーゲンビートルだったのだ。
タクシーの乗客は通常、後部座席に座る。だから、タクシーとして使うには後部にもドアがある4ドア車が常識だ。だが、ご存じのようにビートルは2ドアである。後部座席に座るには、前部シートの背もたれを前に倒さなければならない。タクシーとして使えば、乗客は不便だ。
だが、メキシコのビートルは、その不便さがなかった。なぜか。
助手席のシートが取り払われていた。だから乗客は助手席のドアを開け、そのまま後部座席に座ることができる。乗れる客の数は1人減るが、それでもビートルを使うことにメリットがあるのだろう。
で、ある日ビートルのタクシーに乗った。助手席のドアを開け、助手席側の後部座席に腰を下ろした。行き先を告げようと前を見て、ギョッとした。助手席側のダッシュボードの下に、何か生き物がいる!
目をこらした。生き物はモゾモゾと動いた。よく見ると10歳前後の男の子だった。真っ黒い髪、浅黒い肌をしたメキシコの子どもが、ダッシュボードの下に蹲(うずくま)り、上目遣いに私を見上げている!
そうか、この運転手、子連れで働いているのか。離婚した? 共働き? でも、オヤジが働いている間、ダッシュボードの下で蹲ってるってつらいよなあ。退屈だろうし。
それに、きっと
「動くな! じっとしてるんだぞ!」
なんていわれてたんだろうなあ。
ワーゲンのファンとして、初代ゴルフにも関心はあった。ゴルフは、私にいわせれば究極のしゃもじだった。
小学校か中学校の国語の教科書に
「しゃもじはなぜ美しいか」
という文章があったのが記憶に残っていたのである。
「しゃもじはなぜ美しいか」
ご存じですか?
しゃもじは美しい。なぜだろう? しゃもじを作った人は美しい道具を作ろうとは思わなかったはずだ。どんな形にしたら、一番楽にご飯をよそうことができるか。四角なしゃもじを作ってみたかも知れない。三角や丸にしてみたかも知れない。あれこれ作ってみて、結局いまの形に落ち着いた。これが一番使いやすい形だからである。
作った人は、美しいものを作ろうとしたのではなく、徹底して道具としての使いやすさを追求した。思いもよらなかったことに、そこから美が生まれた。余分なものはすべて削ぎ落とし、必要なものだけに絞った機能美が現れたのである。
教科書の文章はそんな話だった。
しゃもじって、いうほど美しいかぁ? しゃもじを手にとって、その美しさに陶然となり、ご飯をよそうのを忘れた、なんて主婦がどこかにいるのか?
それにしても、こんな変なことを考えて文章にまでしようという暇なヤツが世の中にいるんだ。それを、こともあろうに教科書に採用するおかしなヤツもいる。バーカのオンパレードかよ。
生意気盛りだった当時、私はそう思っただけだった。
なのに、なぜか記憶に残っている。その記憶がゴルフ=究極のしゃもじ、という図式を作った。
左の写真を見て頂きたい。残念ながら私の車ではないが、ジウジアーロがデザインしたこの初代ゴルフに、私は教科書で読んだしゃもじを感じた。車としての必要な機能をとことん追求し、余分なものはすべて削ぎ落としてある。車ってこれが原点で、これ以上は何もいらない。この角張ってタイトなシルエットに、生活の道具としての機能美を見たのである。
残念ながらマンハッタンでもサハラ砂漠でも様になる、という、ビートルのような不思議なデザインではないが、新しい車としてのあるべき姿を描き出した。だから、ビートルに変わる新しい車を待ち望んでいた人々が受け入れたのである。
というわけで、ゴルフである。ヤナセの中古車展示場を歩いた。ゴルフ、ゴルフ、ゴルフ……。
「これにしよう!」
目がとまったのは黄色い2ドア(正確には3ドアか)の車だった。2年落ちで、確か3万km近く走っていた。オートマチックではなく、マニュアルトランスミッションである。
いや、そんなことはどうでもいい。私が目を留めたのはディーゼルエンジン車だった。ガソリンよりはるかに安い軽油で走る。しかも、リッターあたりの走行距離は、ガソリン車の2、3割り増しだ。とにかく燃費がいい。中古車を買う蓄えもない私には、燃費の良さが何よりもありがたい。
居並ぶ中古車の中で、ディーゼルエンジン車はこの1台だけだった。価格は150万円。迷わず決めた。
こうして始まったゴルフとの暮らしは、何と8年も続く。いまのところ、最も長く乗った車である。
ディーゼルは、期待通りの低燃費だった。走りも悪くない。高速で130kmなんてへっちゃらだ。しかも、速度が上がれば上がるほど車体が路面に吸い付くように安定し、ビートルの泣き所だった高速安定性も抜群に良くなっていた。名古屋から東京へのドライブは、ビートルのようにアップライトに座らせないシートに違和感は覚えたが、それでも国産の乗用車のシートよりはるかにできがいいから楽である。
3台目の連れ合いに、私は充分満足した。
が、当時のディーゼルには大きな泣き所があった。それは、次回にご報告する。