2011
02.24

2011年2月24日 丸のみ

らかす日誌

あなた、何かを丸のみしたことがありますか?

まあ、私はあります。魚の骨が喉に刺さったとき、おばあちゃんが

「ご飯ば丸のみしろ」

って教えてくれました。確かに、ご飯を丸のみすると、かなりの確率で喉に刺さった魚の骨が取れてくれました。
そうそう、白魚の躍り食い、ってのも丸のみするのね。容器の中で踊っている白魚をすくい上げ、ポン酢につけて口に運ぶ。口に入れたら、絶対に噛んだりしてはいけないのです。生きているまま丸のみする。そうすると、白魚がピチピチ跳ねながら食道から胃に送り込まれ、その時の感触が何ともいえない、という食べ方なのです。
人間って、残酷な生きものではあります。
私も何度か食しましたが、でも、そんなに珍重するほど美味いかね? そもそも私の味蕾は口の中にしかなく、食道や胃は味を感じる器官ではないので、ここで跳ねてもらってもなあ、という感じしかありません。ので、好んで食べたいという物でもありません。

さて、このほかに、好んで丸のみするものがあるでしょうか?
ねえ、ここに書いた以外のケースでは、丸のみとは、そうせざるを得なくなって、やむなくやっってしまうっものではないでしょうか?

菅首相が、自民党の谷垣総裁に

「予算の組み替え案を出したい。きちっと検討していただきたい」

と攻め込まれ、

「自民党の予算の組み替え案の方が素晴らしいと言って丸のみできるような案を、ぜひ出していただきたい」

といってしまった。
こいつ、首相という自分の置かれた立場をわきまえているのか?

予算案とは、政権を持つ与党が、自ら掲げた政策目標を実現するために編制するものである。政権争いとは、国が税金として国民から集めた金を使う権限を争う戦いなのだ。
自民党は、政権を持っている間は、彼らが考える国を作ろうと予算編成をしてきた。それはダメだと有権者が判断し、民主党に政権を委ねた。だから民主党は、彼らが考える国作りに向かって、自民党時代とは違うお金の使い方をしなければならない。それを見せるのが予算案なのである。
そもそも、自民党時代と同じような予算案しか出てこないのなら、政権交代なんかする必要はない

だから、自ら編制した予算案には固執しなければならないのだ。その一部でも組み替えるのは、そうしなければ前に進むことが出来ない事態に陥ったときに、いやいやながら選択する妥協なのである。

菅首相は、そんなことも分からずに首相の座に座っているらしい。

丸のみできる案を出して欲しいとは、どうせお前たちにはろくなものは出せまい、という侮りの言葉なのかも知れない。だが、自らの無能力を認める言葉とも取れる。国の代表者である首相が、軽々しく口にしてはいけないことだと、私は思う。

体験したことはないが、アメリカにはディベートの授業があるそうである。ディベートとは、言い負かしあいのゲームである。あるテーマが示され、クラスが2つに分けられる。与えられたテーマを是とするグループと、非とするグループである。個人的に「是」と思っていても、「非」のグループに入れられれば、思いつく限りの論理を使って、「是」グループを言い負かさねばならない。そのような授業である。
何故にそのような授業があるのかは、私には詳(つまび)らかではない。もちろん、人を論理で屈服させるのは心地よいことではある。
だが、言い負かされて、

 「口ではかなわないけど、でも、俺の方が正しいはずなんだ」

と自分を慰めたことがある人はきっと多いはずだ。私にも、そんな体験は数限りなくある。
人を言い負かすことがそれほど大事なことなのか?

菅首相の言葉をたどると、この人、どうも国会でディベートにうつつを抜かしているのではないか、と考えざるを得ない。
俺は秀才で通ってきたのだ。論理の力で、俺が秀才であることを周りに認めさせてきたのだ。目先の論戦で負けるなんて許せるか? 許せない。何としても言い負かしてやる。論争に勝ってやる。それが、俺の優秀さを世に知らしめる道である。この場で言い負かすのが自分の使命である。
この人、そう考えているのではないか?
だから、目先の理屈合戦に勝ちたいばかりに、木を見て森を見ない言葉を発してしまう。

丸のみできる案を是非出して欲しい

という発言は、その典型だと、私は思う。

私は首相に、この手の優秀さを求めない。
言葉は拙くていい。論理的な説明能力がなくてもいい。
国民の暮らしを心から思い遣ることが伝わってくる言葉しか使えない人が望ましい。

菅直人への絶望感が、日々強まる私である。