2017
09.08

#82 スタンドアップ ― 母性本能(2008年2月19日)

シネマらかす

父無(ててな)し児!
父親のいない子を哀れんで呼ぶ時に使った。やや侮蔑語でもあった。
父のいない子が何故哀れまれ、蔑まれたのか。食い扶持を稼ぐのは父、だったからである。父を失った子の暮らしは苦しく、身なりも見窄らしい。
人は見下すことに喜びを感じる一面を持つ。私の方が恵まれている、という相手を見るとホッとする。ついでに、普段の鬱憤の矛先を弱い者に向ける。

「あいつは父無し児だから」

人間とは、美しいだけの生き物ではない。

(余談)
私は父無し児になりたかった。我が父親は「シネマらかす #73 失われた週末 ― 今日も飲むぞ……?」に書いたように、アル中だった。それだけならまだしも、酔って暴れた。いまいうDV(ドメスティック・バイオレンス)である。
「親父、どっかに消えてくれ」
子どもの私は、そう願い続けた。願いが聞き届けられたのは31年前、私が成人して後のことであった。

 その侮蔑語もいまでは死語に近くなった。働く母親が増え、父無しと貧しさが同義ではなくなった。胸を張ってシングルマザーを誇る女性もいる。

だから、父はベトナム戦争で死んだと聞かされた「父無し児」サミーも、さほどの欠落感を持っていたとは思えない。だが、死んだはずの父が突然目の前に現れたらどうか? しかも、その男がレイプ犯だったら? 母はレイプの被害者で、自分はその結果生まれたと分かったら?
少年が受け止めるには重すぎる事実である。運命を呪った。母を憎んだ。家に足が向かなかった。もう母の顔は見たくない……。

スタンドアップ」は、世界で初めてのセクハラ訴訟を元にした映画である。セクハラを繰り返す男どもが巣くう会社を相手に、主人公のジョージーがたった1人で立ち向かい、勝つ。男根主義を告発する社会派映画である。
だが、私の心に残ったのはセクハラへの憤りではない。たった1人で戦った女性への賞賛でもない。女性への差別を当然視してきた企業が訴訟で打ち負かされた爽快感でもない。

(注)
私がセクハラという言葉を嫌うのは「グルメらかす #6:キャベツを食う」で書いた通りです。だからそんな感想を持つんじゃないの? とお疑いのあなた。長きにわたるご愛読を感謝します。
でも、関わりはありません。私はそう思っています。
相手に影響力を及ぼせる立場を利用して性的嫌がらせをすること
という正しい定義に限定して使う限り、セクハラは犯罪行為であります。

 私を揺さぶったのは、切れかかった絆を紡ぎ直す母子2人の必死の戦いだった。

母が好きだ。なのに、口から出るのは母への憎しみだけ。そうしなければ、怒りの持って行き場がなかった。いまにも地の底に沈んでいきそうだった。母への愛を本当に失いそうだだった。
息子を愛している。だから出生の秘密は守り通したかった。だが、彼は知ってしまった。もう隠しておけない。すべての事実を、すべての思いを話した。彼には知る権利がある。でも、息子を失うかも知れない。
辛い戦いである。セクハラも訴訟も勝訴も、この強くて美しい母子の姿をくっきりと浮かび上がらせる背景に過ぎない。私はそう見た。

ミネソタ州は、アラスカ、ハワイに次ぐアメリカ最北端の州だ。内陸部に位置し、夏場の最高気温は30℃を超えるのに、冬は-20℃を下回る日もある。物語は1989年、アメリカの冷蔵庫とも呼ばれるこの州の北部の町が舞台である。

夫の家庭内暴力に疲れ果てたジョージー・エイムズが、息子のサミー、娘のカレンを連れてこの町の実家に戻った。母アリスは温かく迎えたが、父ハンクの目は冷たい。ジョージーは高校生で妊娠、父親の知れないサミーを産んだ。ふしだらな娘はいまだにエイムズ家の恥なのだ。

だが、サミーはホッとした。これで義父に殴られ、血を流し、青あざで顔を腫らす母を見なくて済む。やがて母は、祖父が勤める鉄鉱山で働き始めた。収入が安定し、母は自分たちの家を買う。レストランで食事をし、自転車も買ってもらった。すべてがうまく行く。そう思えた。
なのに。
耳をふさぎたくなる話が聞こえ始めた。あんたの母さんは鉱山で男を誘惑しまくってる。あの女、天性の売春婦ね。彼の目の前で、夫を誘惑するなと母にくってかかる女もいた。大好きなママが売春婦? よその旦那を誘惑? 嘘だ! 信じなかった。いや、信じまいとした。
だが、学校の友人たちも彼を避け始めた。アイスホッケーで、誰も彼にパスを回さない。ついこの間まではスタープレーヤーだったのに。
母を愛している。なのに、母を疎ましく思う気持ちが胸の中で勝手に膨らんだ。

母ジョージーが会社を辞め、会社を相手にセクハラ訴訟を起こした。気になって法廷に通った。セクハラを受けたのは母だけではない。男の世界である鉄鉱山で働くすべての女性がセクハラの被害にあっていたらしい。
だが、立ち上がったのは母だけだった。

会社側の女性弁護士、コンリンは、法廷でジョージーを激しく攻撃した。あなたはセックスにだらしない。特別の女だ。
原告がジョージー1人なら勝てる。だが同調者が増えて集団訴訟になれば、セクハラが広く蔓延していたことになり、会社に勝ち目はない。ジョージーをふしだらな女に仕立て上げて孤立させる。それがコンリンの戦略だった。
だが、サミーには見抜けない。やっぱりママはそうなのか?

コンリンは執拗に聞いた。

Conlin:  Who is Sammy’s father?
(サミーの父親は誰?)

僕の父? ベトナム戦争で死んだんだ。何故口ごもる? ママ、ちゃんと答えなよ。

Josey:  I don’t  know who Sammy’s father is.
(分かりません)

知らない? そんな……。母の弁護士は、訴訟とは関係ない質問だと異議を唱えた。そんなやりとりが続いていた。1人の男が法廷に入ってきた。ポール・ラタバンスキー。母の高校時代の担任だという。コンリンの尋問が続いた。

Conlin:  Is it true that you and your teacher, Mr. Lattavansky, had a sexual relationship at one time?
(あなたと、あなたの教師だったラタバンスキー氏は性交渉を持ったのではないですか?)

そしてすべてが明らかになる。
えっ、この中年太りをした男が僕の父? この男が高校生の母をレイプし、僕が生まれた? 僕はだらしない母と、レイプ犯の子供……。
法廷を飛び出した。呪われた出生で頭が爆発しそうだった。

もう母の顔は見たくない。サミーは唯一の逃避場所、母の友人グローリーの家に逃げ込んだ。家には夫で時計職人のカイルがいた。彼になら心が許せる。心の中をすべてぶちまけた。本当はカイルと話したくて、救ってもらいたくてここに来たのである。

Sammy: She’s lying, you know. She didn’t get raped by the teacher. She was just saying that so she’ll win her lawsuit.
(ママは嘘つきだ。先生にレイプされたんじゃない。裁判に勝ちたいだけだ)
Kyle: It’s illegal for her to say that if it’s not true.
(法廷で真実を話さないと罪に問われるんだよ)
Sammy: She should go to jail. I don’t care. She’s a whore just like everybody says.
(刑務所に入ればいい。僕は平気さ。やっぱりママは売春婦だ)
Kyle: I wonder if it’s illegal to call your own mother a whore. Sure sounds had enough to be.
(自分の母親を売春婦呼ばわりするのも罪なんじゃないか。ひどい言い方だ)
Sammy: She’s a liar. My father didn’t die in the army. He’s a scumbag raper.
(ママは嘘つきだ。パパは軍隊で死んだんじゃない。レイプ犯なんだ)
Kyle: It’s hard truth to tell, Sammy.
(そりゃあ、いいにくいさ、サミー)
Sammy: That’s crap. I got a right.
(へっ、僕には知る権利がある)
Kyle: Yeah, you got a lot of right starting with the right to be pissed off. In fact, you got a right to hate whole world right now.
(ああ、怒るのも勝手さ。世界中を憎んだっていい)
Sammy: I don’t hate the whole world. Just her.
(僕が憎いのはママだけだ)
Kyle:  Takes a lot of work to hate someone. You are ready to put in that kind of time? To really hate your mom, you gotta think over and over again about all the things you hate about her. She’s mean to you? Never proud of you? Never comes to watch your hokey games? Leaves you hungry? Never buys your clothes?
(人を憎むにはエネルギーがいるぞ。覚悟があるか? ママを本当に憎むんなら、どこが憎いのか何度も考えろ。君に意地悪したか? 君を誇りに思わなかったか? ホッケーの試合を見に来なかった? 腹ぺこの君を放っておいた? 服を買ってくれなかった?)
 Sammy:  I’m not stupid! I know what you’re doing.
(僕はバカじゃない。あなたが言いたいことは分かる)
 Kyle:  What’s that?
(何が分かる?)
 Sammy:  I know she does all those things.
(そんなことは、ママは全部やってくれた)
 Kyle:  Yeah. But you hate her anyway.
(そうだろ。それでもママが憎いんだ)
 Sammy:  Yeah. I hate her guts.
(そうさ。死ぬほど憎い)
 Kyle:  Well, you are lucky. She never gave up on you as quick as you’re giving up on her. When she was a bit older than you are now, she got pregnant in a way nobody should gets pregnant. Would’ve been a lot easier to give you up to someone else. Nobody would’ve blame her if she did. But she didn’t. She stuck by you. And she’s still sticking by you, even though she knows you hate her. She is still there waiting, hoping you’ll get your ass home. 
(でも、君は運がいい。君のママは、君のようにさっさと君を捨てたりしなかった。君ぐらいのとき、望まぬ妊娠をした。君を里子に出せばずっと楽だったろう。そうしたって、だれも悪くいったりしなかったはずだ。でも、ママはそうしなかった。ずっと君のそばにいる。君に嫌われていると知っているのに、だ。ママは待ってるぞ、君が早く家に帰ってこないかって)

そういうと、カイルはサミー少年が触っていたビンテージ物の古時計を差し出した。

Kyle:  Take it. Well, if you wanna run off, you can sell it and use the money or just put it on your wrist. Either way, it’s yours. One friend to another.
(持って行け。逃げるんなら、これを売って金にするといい。じゃなきゃ身につけておけ。どう使おうと、こいつは君のものだ。友達から贈り物、だな)

千々に乱れている少年の心をしっかり抱きしめ、心に染みこむ言葉を積み重ねる。これで涙腺を刺激されない人とはお付き合いをごめん被りたくなるほど奥行きのある言葉が続く。

(余談)
迷う若者に出会ったら、こんな話ができる大人になりたい。ん? そういえば、大人と呼ばれるようになってずいぶん時間がたつなあ。私は時間をずいぶん無駄にしてきたということか?

 サミーの荒みかかった心に、カイルの言葉が染みた。救われた。僕はママを愛してる!

家に戻った。ジョージーは屋外で待っていた。サミーを見ると無言で抱きしめ、やがてぽつりぽつりと胸の内を話し始めた。

Josey:  I didn’t want you, Sammy. Something bad had happened to me and I just wanted it to be over. But everyday my belly grew and it just reminded me of it. Never ever occurred to me that there was a baby in there. That you were in there. That day, what that man did to me, it made me into something different. And I guess, I guess I thought, it said something about who you were too. I was a girl who’s raped and you were this thing that just kept reminding me of it. Oh God, I’ve dreaded the conversation since the day you were born. I don’t wanna any more secrets between us. This one night, I was lying in bed and you moved inside me, like this tiny butterfly, just fluttering around in there. And all of a sudden I realized, I just knew, I knew you weren’t his. You were mine. You were my baby. And we were gonna be in it together. Just two of us. You had nothing to do with that ugliness. You hear me? Noting. And there’s nothing in this world I wouldn’t do to be your mom.
(産みたくなかったのよ、サミー。酷いことは忘れてしまいたかった。でも、お腹は日に日に大きくなって、あのできごとを思い出させるの。ここに赤ん坊がいるなんて思えなかった。でも、いた。あの日、あの男に乱暴されて私は変わったわ。お腹にいる子は誰なんだろうって悩んだ。私はレイプされた女、あなたはそれを思い出させる存在。こんな話しをする日が来るのがずっと怖かった。でも、もう秘密はやめよ。ある晩ベッドにいたらあなたが動いたの。小さな蝶が飛び回るように。突然気づいたわ。分かったの。この赤ちゃんはあいつの子じゃない。私だけの子なんだって。ずっとそうなんだって。あなたは汚れてなんかいない。ねえ、汚れてないのよ。あなたのママになるためなら何でもするわ)

さて。
いうまでもないことだが、私は男である。従って、私がレイプして妊娠させることはあっても、レイプされて妊娠することはない。

(注)
お断りしておくが、私にはレイプした体験はない。ましてやレイプして妊娠させた体験など皆無である。これからも、予定にはない。いや、そろそろの体力的に不可能な年代に入り始めたかも。よって、突然法廷に呼び出されるような事態はなく、平穏無事な人生になりそうである。

 だから思うのであろうか。私がジョージーなら、子供を堕ろす。身内に、親戚に、知り合いにジョージーがいたら、堕胎を強く勧める。我が娘なら、医者まで引きずって行く。もちろん、加害者は告訴する。
だが、ジョージーはそうしなかった。悩み、迷っているうちに、体内で子供が動いた。その瞬間、彼女は母になる。自分の力で、自分だけの力でこの子を守り、育てようと心を固める。
女とは何と強いのか。母とは何と美しいのか。だから「番場の忠太郎」も「母をたずねて三千里」も生まれる。子供は決して瞼の父を捜し求めない。

私は、母性が女性の本能であるとは信じない。1973年、渋谷駅のコインロッカーで幼児の遺体が見つかって、私はそれに気が付いた。邪魔になったからコインロッカーに置き去りにする。男に媚びを売るため我が子を殺す。母性が本能であれば、起きえないことだ。

ジョージーは宿命に耐え続けた。明かせばサミーが傷つく秘密を自分1人で抱え続けた。秘密の扉がこじ開けられた時、すべてをサミーに賭けた。この子は、それでも自分を愛してくれるに違いないと信じて、すべてを打ち明けた。
母性はやはり本能なのか?
「スタンドアップ」は、母と子の絆を深く考えさせる。

それに比べると、この作品が本来描きたかったと思われるセクハラは紋切り型で迫力がなく、世界初のセクハラ訴訟でのやりとりはご都合主義である。

まず、セクハラ場面。

1) 入社前の健康診断で、下着を脱がされて妊娠チェックを受けた。
2) 初日、職場の上司アーレンの言葉。
The doctor said you look damn-good under those clothes.
(医者が言ってたけど、いい体してるそうじゃねえか)
3) すれ違う男たちは
Cunt!
(おまんこ!)
と口走る。
4) 食堂での昼食時、19歳のシェリーの弁当箱からゴム製ペニスが飛び出す。ジョージーは、強気に跳ね返す。
Well, it won’t leave the toilet seat up. It won’t fart in bed. I might just marry it.
(そうね、これなら便座を上げっぱなしにしておくこともないし、ベッドでおならをすることもない。これと結婚しようかしら)
5) ジョージーが向かったパウダールーム(細かく砕いた鉄鉱石の保管場所)の壁には、フェラチオをする女の絵が大きく描かれ、横に
“Sherry eats here” 
(シェリーはこれがお好き)
6) ホースの水を拭きかけて消すと、1人の男がシェリーにタバコをねだった。シェリーが取り出すのも待たず、シェリーの胸ポケットに手を突っ込む。
7) 鉱山で働いているジョージーの高校時代のボーイフレンドが機械のグリスを落としているジョージーを見て、にやけた顔で言う。
You know the key is in the lube. Otherwise it’s just a bunch of squealing and moaning….
(なあ、鍵は潤滑油さ。こいつがなきゃあ、軋んで痛いだけ……)
8) ボビーはベルトコンベアの点検をジョージーに命じた。普段、誰も来ないところまで登るとボビーが現れる。おい、縒りを戻そうや。
9) 次にボビーはパウダールームにジョージーを誘い出して押し倒した。
10)  シェリーが入った屋外の簡易トイレを男たちが押し倒す。シェリーは頭から糞尿まみれだ。
11)  ロッカールームに戻ったシェリーは、カーディガンがザーメンで汚れているのに気が付いて泣きじゃくった。

こんな思い出はないだろうか?
小学生の男の子が女の子をからかう。実は、彼女が好きなのだが、それが恥ずかしい。だから、からかったり虐めたりして、何とも思っていないふりをする。本音はその女の子に振り向いて欲しいのだが。
周りが囃し立てる。引っ込みがつかなくなり、からかいや虐めがエスカレートする。とうとう女の子が泣き出した。やばい、と思うが、周りには平気な顔を見せる。だって、男の子なのだ!

鉱山の男たちは、そんな男の子にそっくりだ。攻撃の対象は、新人で美人のジョージーと19歳の若さに溢れるシェリーだけ。ほかのおばさんたちをからかう気は全くない。要は、この2人に振り向いて欲しいだけなのである。いじめの中身が子供と違うのは、年齢によるものだ。
私は、こんなセクハラには、ちっとも切実さを感じない。

そりゃあ、妊娠テストと称して下半身をまさぐられるのは腹立たしいはずだ。だが、まさぐった医師はそうするしかなかった。それが会社の規則だったのである。会社に問題はあっても、仕事で女性器に触れる医師は楽しいか?
ボビーのストーカーまがいの行動は、セクハラというより犯罪だ。乳房をまさぐるのも強制猥褻の罪に該当する。罪は罪として裁けばいい。
だが、そのほかは児戯に類するいじめとしか思えない。

ちなみに、私が身近で見聞きしたセクハラの実例を挙げる。

(実例1)
ある男が女の子を飲みに誘った。終電車もなくなって、男は言った。
「さあ、今晩はいいんだろ?」
女の子が答えた。
「えっ、私、そんな気はありません」
不機嫌になった男は1人で店を出た。タクシー代も渡さないままである。

(実例2)
男が、仕事で出入りしている先の企業の女性を誘った。
「部長が君と飲みたがってる。僕も同席するから時間を作ってよ」
付き合いは大事だ。まして、相手は部長が来るという。彼女は時間を作った。店では座敷に通された。部長の姿が見えない。
「突然都合が悪くなってね」
だったら日を変えればいいのに。だが、突然男が近寄り、のしかかってきた。
「何をするんです!」
抵抗すると、男は言った。
「おぬし、役者やのう」
部長の話は嘘だった。女の子は男を突き飛ばして店を飛び出した。

 「スタンドアップ」が見せてくれるセクハラより遙かに悪質ではないか?
私の会社でのできごとであるのことが情けない……。

では、裁判は?
鍵となったのは、ボビーである。彼は教室でジョージーがレイプされているのを目撃していた。なのに、怖くなって逃げ出したフニャチン男だ。
原告側弁護士のビルは、会社に言い含められてあれはレイプではなかったと言い張るボビーを攻める。ビルは元アイスホッケーのスター選手である。

Bill:  Were you a red ice player then?
(君は、赤い選手か?)

赤い選手とは、血を流すことを恐れずにプレーする選手のことだ。臆病者は黄色い選手と呼ばれる。ビビって小便を垂れ流すからだ。

Bill: What was it like? He held her down, spread her legs, jammed himself up inside her? Rangers are hard as steel, huh? Not this one. This one’s made of butter. You gonna keep lying about your friend, or you gonna stand up and be a man?
(どうだった? ヤツは彼女を押さえつけて足を広げ、突っ込んだのか?  鉱山の男は鉄のように強いんだろ? だが、こいつはフニャフニャだ。君は友を裏切り続けるのか? それとも立ち上がって男になるのか?)
Bobby: I’m not lying.
(俺は、嘘なんかついちゃいない)
Bill: You wanna run right now, don’t you?
(今すぐ逃げ出したいんだろ?)
Bobby: Fuck you!
(くそったれ!)
Bill: You wanna run, Bobby.
(逃げたいんだな、ボビー)
Bobby: I didn’t run.
(俺は逃げたりしなかった)
Bill: Or you gonna put your guts on the ice this time. What it gonna be?  Yellow or red? Yellow or red? Yellow or red?
(それとも、今度は氷上でガッツを見せるか? どっちになる? 黄色か赤か? 黄色? 赤? 黄色になるのか赤になるのか?)
Bobby: What was I supposed to do?
(どうすりゃよかったんだ?)
Bill: He was raping her, wasn’t he?
(ヤツはレイプしてたんだよな?)
Bobby:  Yeah.
(そうさ)
 Bill:  And you ran?
(で、君は逃げた?)
 Bobby:  What was I supposed to do?
(何ができたってんだ?)
 Bill:  What are you supposed to do when the ones with all the power are hurting those with none ? Well for starters, you stand up, stand up and tell the truth. You stand up for your friends. You stand up even when you’re all alone. You stand up.
(今度はどうすべきだ? 権力を持ったヤツが無力なヤツを傷つけてたら? まず、立ち上がる。立ち上がって事実を告げる。友達のために立ち上がれ。1人だけでも。立て!)

挑発されたボビーは、あっさり落ちる。嘘だろ? ってな簡単さである。
確かに、なかなか迫力のある挑発だ。でも、会社とつるみ、念には念を入れて準備を重ねてきたボビーが、こんなに簡単にホントのことをしゃべるか? 会社が約束したであろう利益もフイ。おまけに、ジョージーに追いかけられて困ってる、と女房に言い聞かせていた嘘もばれちゃうじゃんか!

さらに簡便なのが、女性従業員たちである。一緒に戦おうというジョージーの誘いを断り続けたのに、何故か法廷に顔をそろえている。そしてこのくだりを聞いて、次々と立ち上がって原告に加わるのだ。そんなに説得力のある演説か?
この程度で相手方証人から好ましい証言を引き出せるのなら、ビルは常勝弁護士だ。リーガルサスペンスを好む(#26 : 情婦 - こいつはリーガルサスペンスなのである)私は、厳しい診断を下すしかない。

現実の訴訟では、提訴したのが1988年、判決が下ったのが1998年だから、足かけ11年の裁判だった。賠償額は350万ドル。この長い戦いを2時間でまとめようというのだから、かなりの無理もあったろう。でもなあ……。

(余談)
ほかに書くところがなかったので、ここで書いておこう。
ジョージーがラタバンスキーにレイプされるシーンは、ゾクゾクするほど美しい。いや、別にジョージーの裸体が拝めるわけではない。教室のドアの窓ガラス越しに、ラタバンスキーに後ろから抱きすくめられたジョージーの顔が見えるだけである。抗い続け、やがて諦める。焦点の定まらないうつろな目。美しい顔がガラスに押しつけられて歪む……エロティックというのではない。ただただ美しいのである。
にしても、この高校生のジョージーもシャーリーズ・セロンが演じたのか。だとすると、やっぱり女優はお化けである。

 そうか、セクハラと裁判がきっちり描かれていたら、私の目は本筋を追って、母子の絆に向かわなかったはずだ。母性本能を信じてみようか、という気にもならなかったろう。

シャーリーズ・セロンという素敵な女優さんにも出会えたことだし、紋切り型もご都合主義も、結果良ければすべてよし、ということにしておこう。

【メモ】
スタンドアップ(NORTH COUNTRY)
2006年1月公開、124分

監督:ニキ・カーロ Niki Caro
出演:シャーリーズ・セロン Charlize Theron=ジョージー・エイムズ
フランシス・マクドーマンド Frances McDormand=グローリー
ショーン・ビーン Sean Bean=カイル
リチャード・ジェンキンス Richard Jenkins=ハンク・エイムズ
ジェレミー・レナー Jeremy Renner=ボビー・シャープ
ミシェル・モナハン Michelle Monaghan=シェリー
エル・ピーターソン Elle Peterson=カレン・エイムズ
トーマス・カーティス Thomas Curtis=サミー・エイムズ
ウディ・ハレルソン Woody Harrelson=ビル・ホワイト
シシー・スペイセク Sissy Spacek=アリス・エイムズ
アイキャッチ画像の版権はワーナー・ブラザースにあります。お借りしました。